ジブチ(Republic of Djibouti/ジブチ共和国)は、アフリカの角(ホルン・オブ・アフリカ)の紅海南口バブ・エル・マンデブ海峡を押さえる小国で、総面積は四国と福岡県を合わせた程度の規模ですが、紅海―スエズ運河―地中海という世界海運の大動脈に直結する地政学的要衝として重要な役割を果たしています。住民は主としてアファル系とイッサ(ソマリ)系で構成され、イスラーム(スンナ派)が多数を占めます。公用語はフランス語とアラビア語、広く話される言語としてソマリ語とアファル語があります。19世紀末にフランス領ソマリ海岸として植民地化され、エチオピア(当時アビシニア)と海を結ぶ鉄道・港湾拠点として整備されました。1967年には「アファル・イッサ領土」に改称し、1977年に住民投票を経て独立しました。独立後は、仏軍のプレゼンスに加え、米・中・日・伊など各国の基地や施設が集積し、海賊対処・テロ対策・航路警備のハブとして機能しています。一方、国内経済は港湾サービス・物流に大きく依存し、失業・水資源・食料輸入などの脆弱性を抱えています。本項では、地理と社会、植民地期から独立、独立後の政治と安全保障、経済構造と課題をわかりやすく整理し、ありがちな誤解を正します。
地理と社会:海峡の門番、乾燥の土地、多民族の共存
ジブチは北をエリトリア、西と南をエチオピア、南東をソマリランド(ソマリア)に接し、東はアデン湾・紅海に面しています。国土は火山性の台地と砂礫の低地が広がる乾燥地帯で、降水は少なく、地下水や脱塩設備に依存する地域が多いです。アッサル湖は海抜マイナスの塩湖として有名で、周辺には地殻活動の痕跡が見られます。首都ジブチ市は港湾を中心に発展し、人口の大半が都市部に集中しています。
民族構成は大きくアファル(主に北部・内陸)とイッサ(ソマリ系、主に南部・都市)に分かれますが、首都には両集団が混住し、さらにアラブ系・エチオピア系・欧州系などの移住者も暮らします。宗教はスンナ派イスラームが多数で、宗教行事やウクーフ(寄進)などの慣行が社会生活を支えています。言語面では、行政・教育・外交の場でフランス語とアラビア語が用いられ、日常ではソマリ語・アファル語が広く話されます。生活基盤は、近代以前からの遊牧・交易の伝統に、港湾都市のサービス経済が重層しているのが特徴です。
地理的な優位は、同時に脆弱性も意味します。海峡に隣接する位置は通商に利点をもたらす一方、地域紛争や海賊、周辺大国の力学の影響を直接受けます。国境はしばしば住民の生活圏を横断しており、越境的な親族関係や季節移動が政治・治安に影響することがあります。
植民地期から独立へ:フランス領ソマリ海岸、鉄道、住民投票
19世紀後半、紅海・アデン湾における欧州列強の競争の中で、フランスは北東アフリカの補給・通商拠点を求め、現在のジブチ沿岸に商館・軍港を整備しました。1896年、フランス領ソマリ海岸(Côte française des Somalis)が正式に成立し、港湾設備と鉄道の整備が本格化します。フランスとエチオピアの合弁で建設されたアジスアベバ―ジブチ鉄道(旧フランコ=エチオピア鉄道)は、内陸帝国を紅海に直結し、コーヒーや家畜、穀物の輸出入の生命線となりました。鉄道は都市の形成と多民族の集住を促し、ジブチ市は通信・金融・行政の中心へと成長します。
第二次世界大戦期には、ジブチは一時期ヴィシー政権側に属し、封鎖や英軍との緊張を経験しましたが、のちに自由フランスに合流しました。戦後、アフリカの脱植民地化が進むなかで、ジブチでも自治と地位変更が議論されます。1967年、住民投票と政治過程を経て、領名は「アファル・イッサ領土(Territoire français des Afars et des Issas)」に改称され、民族間の均衡に配慮する行政が模索されました。ただし、この時点では独立に慎重な立場がなお強く、フランス軍の駐留と経済的結びつきが維持されます。
1970年代に入り、地域の緊張と民族運動の高まりの中で、ジブチの独立志向は加速しました。1977年、国連監視下の住民投票で独立が承認され、ジブチ共和国が成立します。初代大統領にはハッサン・グレド・アプティドン(ハサン・グーレド・アプティドン)が就任し、フランスとの安全保障協定と経済協力の枠組みを維持しつつ、港湾国家としての自立を図る方針が示されました。
独立後の政治・安全保障:内戦の火種と多国籍拠点化
独立後のジブチ政治は、与党支配のもとで安定志向を掲げる一方、民族間の代表性と地方配分をめぐる緊張を抱えました。1990年代初頭には、アファル系の反政府武装組織(FRUD:アファル救済統一戦線)と政府の間で武力衝突が発生し、停戦・統合・政治参加の合意に至るまでに時間を要しました。のちに政府は複数政党制の枠を整え、権力移行は1999年にイスマイル・オマル・ゲレ(イスマイル・オマル・グレー)大統領への継承でいったん区切りを迎えます。以後も長期政権のもと、治安と投資誘致を優先する政策が続きました。
対外安全保障では、ジブチは「海峡の警備員」としての役割を前面に出し、同盟・基地・共同演習を戦略資産と位置づけました。仏軍は独立時から駐留を継続し、米軍はテロ対策とインド洋・アラビア半島情勢への対応のために拠点を設置しました。さらに、海賊対処・航路保護の国際協力の場として、欧州諸国や日本なども施設・分遣隊を置き、2010年代には中国も補給・支援拠点を開設しました。これによりジブチは、多国籍の軍・補給・医療・整備機能が集積する極めて稀有な国家となりました。
この構図は、経済的機会と同時に外交的調整の難しさを伴います。各国の間合いを取りつつ、自国の主権・雇用・インフラ開発を最大化する交渉力が常に問われます。周辺では、エチオピアの内政、エリトリアとの国境問題、ソマリア情勢などが連動し、治安協力の枠組みづくりが不可欠です。ジブチはアラブ連盟・アフリカ連合・政府間開発機構(IGAD)などで積極的な外交を展開し、仲介・会合開催の舞台を引き受けることもあります。
経済構造と現代の課題:港湾・鉄道・通貨・社会
ジブチ経済の核心は、港湾サービス・トランジット物流・自由区(フリーゾーン)です。内陸国エチオピアの外港としての役割は極めて大きく、1990年代にエリトリアが分離独立してからは、エチオピアの輸出入の多くがジブチ港を経由するようになりました。旧来の狭軌鉄道は老朽化しましたが、2010年代に標準軌の新線(アディスアベバ―ジブチ鉄道)が開業し、コンテナ輸送とバルク貨物の処理能力が大幅に改善しています。ドルアレ港をはじめとする新ターミナル群、石油・LNGの備蓄基地、家畜輸出用のヤードなど、港湾群は複合的なハブ化を進めています。
通貨はジブチ・フランで、通貨委員会(カレンシー・ボード)方式により米ドルなどへのペッグを保つ慎重な政策をとってきました。これによりインフレ抑制と金融センター機能の芽を育てていますが、実体経済の裾野が狭いため、外部ショックや物流停滞に弱い面も否めません。電力・水資源は絶対量が限られ、エチオピアからの送電や再生可能エネルギー(地熱・太陽光)の開発、海水淡水化への投資が続いています。
社会指標では、都市一極集中による住宅・上下水道・廃棄物処理の課題、青年層の失業、生活費の高さ、教育・保健の格差などが指摘されます。他方、港湾・基地関連の雇用、建設・小売・金融サービスの拡大、観光(ダイビング、塩湖・地形遺産)など、新規分野の成長も見られます。政府は物流国家戦略を掲げ、複数の自由区・工業団地、IT・データセンター分野への誘致を進めていますが、規制の透明性と競争環境、対外依存のバランスが成長の持続性を左右します。
最後に、よくある誤解を整理します。第一に、「ジブチ=軍事基地の国」という単純化です。確かに基地の集積は特徴ですが、港湾・鉄道・自由区・金融・観光の組み合わせで経済を成り立たせており、基地収入は全体の一部に過ぎません。第二に、「ジブチ=砂漠の貧困国」というイメージも一面的です。水や食料の輸入依存など脆弱性はある一方、海運・物流という高付加価値の産業を持ち、地域の仲介役として独自の外交資産を蓄えています。第三に、「エチオピアの付属港」という見方も十分ではありません。エチオピア経済との関係は戦略的相互依存であり、ジブチは複数の国際プレイヤーとの関係を重ねて主権と選択肢を確保しようとしています。第四に、「民族対立が恒常的」という印象については、確かに緊張は存在しますが、停戦合意・政治参加・行政配分の枠組みづくりを通じて、共存の制度化が進められてきました。これらの視点を押さえると、ジブチは「小国にして要衝」という立ち位置を、地理の偶然に頼るのではなく、制度と外交のデザインによって活かそうとしてきたことが見えてきます。

