シパーヒー(インド) – 世界史用語集

シパーヒー(sepoy/ヒンディー語・ウルドゥー語:sipāhī)は、近世インド世界で「兵士」を意味した語が、18〜19世紀にはとりわけイギリス東インド会社軍・後のインド帝国軍に雇用されたアジア人歩兵を指す半ば固有名詞化した呼称です。語源はペルシア語のsipāhī(兵士)に遡り、ムガル帝国やデカン諸国で広く用いられた一般名が、植民地期に編制・給与・装備・法的地位を伴う軍務用語として定着しました。シパーヒーは会社領の拡張、内戦・藩王国間戦争の仲裁、海岸防備から内陸支配の軍事的支柱まで、サブインド大陸の政治地図を描き替える実働部隊でした。他方で、1857年の大反乱(インド側の呼称では「第一次独立戦争」)の中心戦力もまたシパーヒーであり、彼らの不満と忠誠、宗教・身分・地域の利害、植民地国家の編制原理が交錯する場であったことが、歴史的意義を深めています。以下では、定義と語源、編制と募兵、軍務と日常、1857年の反乱と再編、20世紀の変容、用語比較と誤解の整理を、多面的に解説します。

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語源・定義・広がり:ムガルの一般名から会社軍の職名へ

「シパーヒー」は本来、ムガル帝国やペルシア語行政文化圏で「兵士一般」を指す広義語でした。ムガル軍には騎兵(ソワール sowār)・歩兵(パヤダ)・砲兵などの区分があり、「シパーヒー」は必ずしも歩兵に限定されなかったのですが、18世紀以降、ヨーロッパ諸会社(イギリス・フランス・オランダ)の現地軍隊で、主にアジア人歩兵兵卒の職名として定着します。英語のsepoyはこの用法を受け継ぎ、階級体系では最下位兵卒(プライベート)の対訳としても使われました。

地域的には、ベンガル管区・マドラス管区・ボンベイ管区の三大会社軍で編制された歩兵(パルタン<部隊>)が最大の量を占め、フランス領ポンディシェリやデンマーク領トランケバルなどでも、自領のシパーヒー部隊が存在しました。藩王国(ハイダラーバード等)の常備軍や警備兵にも同語が使われ、広く「近代的訓練・西式武装を受けた現地兵」を意味するようになります。

募兵・編制・日常:誰が、どう戦い、どう暮らしたか

18世紀後半の会社軍は、カースト・地域共同体に根ざした募兵を基本としました。ベンガル軍は上座カースト(ブラフマン・ラージプート)やアワド出身者の比率が高く、マドラス軍はテルグ・タミル系の多様な集団、ボンベイ軍はマラーターや西海岸の共同体からの採用が多い傾向でした。共同体単位の採用は規律と互助を高めましたが、同時に宗教的禁忌や地域アイデンティティが軍務の柔軟性を縛ることもありました。

編制上、歩兵大隊(バタリオン)は会社将校(欧人)と下士官・士官(現地人:ジュムダール=jemadar、スベダール=subedār、ハヴィルダール=havildarなど)で構成され、ドリルはヨーロッパ式、装備は火縄・燧石・のち前装ライフル、刺突用銃剣、シェンコやターバンなどの混合様式でした。給与は貨幣で支給され、制服・銃器は官給、年金制度(ペンション)や士官への昇進路も整えられ、「軍務=安定した生業」としての魅力が大きかったのも事実です。駐屯は各地のカントンメント(軍営都市)で、そこには市場(バザール)、宗教施設、家族居住区が併設され、兵の生活世界は軍規と共同体慣習が折り重なる独特の空間を形成しました。

ただし、この安定は常に政治・財政の波に晒されます。遠征手当(バタ)や海外出征(kala pānī=黒い水のタブー)に関する配慮、飢饉時の家族救済、カースト規範と軍命令の衝突など、微妙な領域の調整が指揮官の力量に委ねられました。下士官層は軍と共同体の橋渡しを担い、彼らの不満が臨界を超えると、部隊全体が動揺する危険を孕みました。

拡張の担い手としてのシパーヒー:内戦・対外戦争・治安

プラッシーの戦い(1757)とブクサール(1764)以後、会社は徴税権(ディワーニー)と軍事力を背景に急速に領域支配を拡大し、その主力がシパーヒーでした。藩王国の王位継承争い・内紛への介入、私設軍を持つ諸侯の討伐、対マラーター戦争、マイソール戦争、シク王国との戦争、さらには第一次・第二次シク戦争やアフガン方面の遠征など、サブインド大陸の「帝国化」は現地兵の脚と銃によって進みました。彼らは線路・道路・通信網の建設の護衛、税の取り立て、反乱鎮圧と治安維持でも不可欠で、軍と警察の境界を跨ぐ存在でもありました。

この過程で、会社は現地支配層との関係を再編し、没収地や没収年金、条約の更新といった政策を通じて、藩王の自立余地を狭めます。とくに「失権の原理」(養子相続の不承認)や常備の維持費負担は、藩王層の反感を買い、軍務に就く共同体にも不安を波及させました。シパーヒーの忠誠は給与と名誉(イッザト)に支えられていましたが、国家の正統性への疑念が広がると、忠誠は脆くも反転し得ました。

1857年の大反乱:引き金・構造・展開

1857年、パン種(牛・豚脂)で潤滑した新型エンフィールド銃の紙薬莢に歯を立てる手順が、ヒンドゥー・ムスリム双方の宗教的禁忌を侵すという「噂」が流布し、メーラト(メーラト)駐屯のベンガル軍部隊が蜂起しました。これは単なる引き金であり、背景には(1)海外出征忌避や遠方勤務への不満(カースト規範と相克)、(2)給与・退役手当の相対的低下、(3)藩王国併合や年金停止による旧支配層の怨嗟、(4)宣教師活動・西式学校・民法改編への文化的不安、(5)物価上昇や飢饉への政府対応への不信、など構造的な要因が重なっていました。

反乱はデリーで象徴的権威(ムガル末帝バハードゥル・シャー2世)の下に広がり、カーンプル(カーンプル)、ラクナウ、ジャンシー、アワド一帯を中心に都市包囲・農村蜂起が連鎖します。反乱側の主力はまさにシパーヒーで、旧支配層・農民・都市職人・宗教指導者が各地で合流しました。他方、マドラス・ボンベイ両軍やパンジャーブ地方のシク連隊、グルカ(ネパール)部隊は比較的忠誠を保ち、会社側に立って鎮圧に協力しました。この地域・共同体の裂け目が、戦局とその後の再編方針に重大な影響を与えます。

鎮圧は苛烈で、包囲戦・報復処刑・略奪の連鎖が社会に深い傷を残しました。1858年、会社統治は廃止され、インドは女王(のち国王)直轄の「インド帝国」となり、ロンドンの印相院(インド省)が統治の司令塔になります。ここに至って、シパーヒーの存在意義と形は大きく変わりました。

再編と帝国軍:配分・採用哲学・兵科の見直し

1858年以後、英印当局は「欧印比率」を厳格化し、ヨーロッパ人兵士とインド人兵士の比率を大幅に欧側有利に改めました。砲兵の多くは欧人専任とされ、インド人は山砲や補助的兵科に制限されます。歩兵では、忠誠を示した共同体(パンジャーブのシクやムスリム、グルカ等)を優遇する「武士種族(martial races)」思想が採用され、ベンガルの上座カースト偏重は是正されます。これは民族・宗教のバランスを政治的に管理する手法であり、軍内に分割と均衡を意図的に埋め込むものでした。

階級体系は、欧人将校の下にインド人の王立軍士官(VCO:のちKing’s Commissioned Indian Officersへ)を置き、subedārjemadār等の伝統的呼称を残しつつ昇進の道を限定的に開きました。制服・装備は一層の標準化が進み、近代的兵站・衛生・軍医制度の導入、年金・表彰(イッザト=名誉)の体系が整備され、軍は「帝国の学校」としての機能を強めます。他方で、政治運動への関与や宗教的活動には厳格な制限が課され、軍は脱政治化・専門職化されました。

藩王国の自前軍(コンティンジェント)も、条約のもとで規模・装備を制限され、必要時には帝国軍に編入される体制へと再編されます。これにより、シパーヒーは帝国防衛と海外派遣(ビルマ、北西辺境、第一次・第二次世界大戦の各戦線)に動員され、「インド兵の世界戦争」という20世紀の現実が生まれました。

20世紀の変容:世界大戦、民族運動、独立とその後

第一次世界大戦ではインド兵が西部戦線、中東、東アフリカに展開し、シパーヒーは帝国の兵卒として世界規模の戦争経験を積みます。戦後、復員兵は都市・農村で社会的影響力を持ち、民族運動の裾野を広げました。第二次世界大戦では規模はさらに拡大し、東南アジアでの対日戦、北アフリカ・イタリア戦線など多方面に投入されます。同時に、日本の支援下で編成されたインド国民軍(INA)がシパーヒー出身者を吸収し、忠誠と民族自決の板挟みを象徴しました。戦後のINA公判は世論を沸騰させ、独立直前の英印軍の在り方に影響を与えます。

1947年の独立・分割により、イギリス領インド帝国軍はインド・パキスタン(のちバングラデシュを含む)へと分配され、「シパーヒー」の語は階級名(最下級兵卒の呼称)として各国軍に残りました。制服・階級・ドリルは英式を継承しつつ国民国家の軍へ再編され、独立後の戦争(印パ戦争、国境防衛)に従事します。植民地期に形成された募兵区・共同体構成の慣行は一部で継承されつつも、民主国家としての均衡原則と緊張関係を持ちながら修正されていきました。

軍務の文化と語彙:制服・儀礼・ことば

シパーヒーの文化的側面では、軍楽・連隊祭・メダル授与・退役儀礼が共同体の誇り(イッザト)を可視化しました。連隊ごとの「izzat」の物語は、過去の戦功・忠誠・悲劇を記憶に刻み、兵士の規範として機能します。軍営都市(カントンメント)は商人・職人・家族が集まるハイブリッド空間で、衣食住・宗教行事・教育が西式と在来が交錯しました。用語面では、paltan(大隊)・risāla(騎兵中隊)・sowār(騎兵)・sipāhī(兵卒)など、ペルシア語・ヒンドゥスターニー語由来の語が英軍語彙と混在し、軍事文化の二重言語状況を生みました。

比較と誤解の整理:トルコの「シパーヒー」との違い、語の射程

日本語ではしばしば、オスマン帝国の騎士身分「シパーヒー(sipahi)」と混同されますが、インドのsepoyは近世〜近代の歩兵兵卒を指すのが原則です。両者は語源を同じくしますが、制度・兵科・時代が異なるため、用語は文脈に応じて区別する必要があります。さらに、インド世界でも藩王国の伝統軍や警備兵に対する一般名としての「シパーヒー」と、会社軍・帝国軍の職名としてのsepoyを区別すべきです。

1857年反乱の原因を「薬莢騒動のみに還元」するのも誤りです。宗教的侮辱の感覚は重要な引き金でしたが、給与・年金・昇進・共同体規範・藩王国政策・経済不安といった多層の不満が累積していました。また、全インド的に一様ではなく、ベンガル軍中心の反乱であり、マドラス・ボンベイ軍が広範に忠誠を保った事実は、地域構造の理解に不可欠です。

最後に、シパーヒーは「植民地権力の手先」か「独立の兵士」かという二分法でも捉えきれません。彼らは生計・名誉・共同体に忠誠を尽くす実務の主体であり、その選択は時代状況と身近な利害の中で揺れ動きました。ゆえに、シパーヒーを通じて見るべきは、近代国家が軍隊という装置を通じて社会を編成し、逆に社会が軍隊を通じて国家を押し返すという、相互作用の歴史です。植民地の軍事化と国民化という二つの過程が、兵士たちの足跡に重なって見えてきます。