シパーヒー(トルコ) – 世界史用語集

シパーヒー(オスマン・トルコ語:sipahi/近代トルコ語:sipahi)は、オスマン帝国の軍事・土地制度の中核を占めた騎兵身分を指す名称です。語源はペルシア語の「軍・兵」を意味するsipāhに遡り、中世イスラーム世界の騎兵エリートを広く指した言葉が、オスマンではとくに地方在住の騎士層(ティマール保有者)と、宮廷直属の精鋭騎兵(カプクル系)という二類型に分かれて定着しました。前者は「ティマール持ちシパーヒー(timarlı sipahi)」として封土からの年収(税収請取権)を得る代わりに軍役を負い、後者はスルタンの親衛騎兵(Kapıkulu süvarileri)として常備に近い性格を持ちました。しばしばインドの歩兵「セポイ(sepoy)」と混同されますが、オスマンのシパーヒーは本来、馬上槍騎兵の身分的呼称であり、社会・財政・軍制の結節点に立つ存在でした。本稿では、定義と起源、ティマール制度と軍事動員、宮廷シパーヒーと近代化の波、そして誤解の整理と比較の四点から、用語の核と歴史的な広がりをわかりやすく解説します。

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定義・起源・社会的性格:誰が「シパーヒー」なのか

「シパーヒー」は、広義にはオスマン帝国における騎兵一般を指すことがありますが、歴史叙述で重要なのは二つのコアです。第一は、地方に居住し、スルタンから授与された徴税請取権(ティマール)を根拠に軍馬・武具を整え、召集時に自らと従者(チェベリュ)を率いて出陣する「ティマール持ちシパーヒー」です。第二は、イスタンブルに拠点を置き、俸給・衣糧を受けて宮廷儀礼と親衛任務、遠征時の前衛・護衛などを担った「宮廷直属のシパーヒー(カプクル騎兵)」です。両者は任地・身分・給与体系が異なるため、混同しないことが大切です。

社会的性格として、ティマール持ちシパーヒーは、農村の生産と軍事を結ぶ媒介者でした。彼らは与えられた地片(実体としての土地所有ではなく、特定村落の一定税目の収取権)から年収を得る代わりに、平時は徴税・治安維持・農耕保護を担い、有事には軍役(出動日数・動員規模に応じて規定)を果たします。武装は時代により変化しましたが、15~16世紀の最盛期には、鎖帷子や札甲、槍・剣・弓を備えた中装~重装の騎兵が主流で、遠征では戦場外縁での追撃・側面攪乱・偵察・護送の任務に強みを持ちました。

一方、宮廷シパーヒーは、ヤニチャリ(歩兵親衛隊)と並ぶ中核兵科で、sipah(スィパー)、silahdar(武具持ち)、ulufeci(俸給取り)などの部隊名に分かれていました。彼らはスルタンの行幸・儀礼行列(アラユ)を支え、遠征時には本営と砲列の警護、橋頭堡の確保、敵の騎兵との交戦などを担います。俸給は年二回の分与(ウルフェ)や特定の財源から支払われ、宮廷経済と密接に連動していました。

ティマール制度と軍事動員:徴税請取権で軍馬を養う仕組み

オスマン帝国の軍事財政の要が、ティマール(小封)・ゼアメト(中封)・ハス(大封)という三段階の封土的給付です。スルタンは征服地の土地台帳(タフリール)を作成し、村落単位の税目(穀物・家畜・養蜂・水車など)に見積年収を付けます。一定額以下の区画はティマールとして地方騎士に与えられ、受給者はその収入から自装と軍馬の維持、従者(チェベリュ)の動員を行います。見積年収が大きい区画はゼアメトやハスとして上級官僚・軍司令に配分され、行政・軍事の階梯を形づくりました。

出動義務は封禄額に比例し、一定額ごとに一名の従者を添えるといった細則が定められました。遠征時、ティマール持ちシパーヒーは自管区ごとに集合し、サンジャク(県)・エヤレト(州)単位の指揮系統に編入されます。彼らはヤニチャリや砲兵と異なり、原則として常備ではなく半職業的な軍務で、農繁期・遠征期の季節サイクルに合わせて動員されました。この「分権的常備力」は、広大な帝国領域に散在する人的資源を低コストで軍事化する巧妙な仕組みで、15~16世紀の急速な拡張を支えました。

現地統治の面では、ティマール受給者は徴税請取権の代償として、過剰な取り立てや農民への暴力を禁じられ、違反者は剥奪(ムサデレ)や処罰の対象となりました。理論上は「農民の耕作持続が帝国の富の源泉」という考えに立ち、保護と収奪のバランスが制度化されています。ただし、長期的には人口増減・価格革命・戦費膨張・地方官の腐敗・台帳の更新遅延などが制度疲労を招き、17世紀には徴税請取権の売却(イルティザーム=請負徴税)へ傾く地域が増えます。これにより、ティマールの軍事的機能は次第に弱まり、シパーヒーの在地支配は、豪族(アーヤーン)や請負人との競合・融合へ移っていきました。

戦術面では、火器の普及が転機をもたらしました。白兵中心の騎兵突撃は、歩兵火縄銃の密集射撃や砲列の前にしばしば効果を減じ、16世紀末以降、オスマン軍はヤニチャリ火力と野戦築城を主軸に、騎兵は偵察・追撃・側面牽制・補給線防護の役割を強めます。ティマール持ちシパーヒーも、弓に加えて火器を携行するなど装備を変化させましたが、制度的な軍馬供給・在地の動員力が磨耗する中で、彼らの比重は相対的に低下していきました。

社会的動揺と結びついたのが16~17世紀のジャラリー反乱です。徴税請負や貨幣改鋳、戦役の長期化が農村社会を圧迫し、職を失った下級シパーヒーや従者、傭兵化したセクバン・サルジャらが各地で武装蜂起・盗賊化します。国家はコプリュル家の改革などで軍政・財政の引き締めを図りますが、ティマールを基盤とする古典的軍事=土地制度の回復は難しく、在地の名望家・請負商人との交渉による統治へと舵が切られます。

宮廷シパーヒーと近代化:親衛騎兵の栄光と終焉

カプクル系の宮廷シパーヒーは、儀礼と戦場の双方で目立つ存在でした。彼らはスルタンの幕営を守り、戦列の要所で機動力を発揮し、遠征では橋梁・輜重・砲列の護衛を担います。装備は時代に応じて槍・弓・サーベルに加え、短銃やカラビン銃を採用し、制服や馬具には宮廷の紋様・色が施されました。昇進は宮廷勤仕年数・戦功・恩寵に左右され、俸給と恩料(ティマールへの昇進機会を含む)が複合した報酬体系を構成しました。宮廷騎兵は、都の治安や儀礼秩序の担い手でもあり、宗教儀式・祝祭・外交儀礼にも頻繁に登場します。

しかし18~19世紀、帝国は欧州列強との軍事技術格差に直面します。火砲・歩兵戦術・軍事教育の改革なくして主権は守れないという現実のなか、セリム3世の「新秩序軍(ニザーム・イ・ジェディード)」、マフムト2世の親衛歩兵改革など、欧式常備軍の創設が進みました。1826年の「吉兆の事件」(ヤニチャリ廃絶)は象徴的で、同時期に宮廷騎兵も編制を見直され、旧来のカプクル体系は事実上解体へ向かいます。地方ティマールは1830年代に大幅に廃止され、地租の現金納付・地券の発行といった近代的財政・土地法(1858年土地法典)に置換されました。名目としての「シパーヒー」は一部の近衛騎兵名に残ることがありましたが、制度的には近代化された騎兵連隊(スュヴァリ)へ吸収され、騎士身分としての特権は終焉します。

文化的には、「シパーヒー」は騎士的勇武・忠誠・地方秩序の守り手というイメージで記憶され、叙事詩・年代記・ミニアチュールにたびたび描かれました。同時に、近世末の地方乱脈・徴税人との癒着・農民への圧迫といった負の記憶も残り、近代の歴史叙述では「古典期の栄光」と「制度疲労」の二重像として再評価されます。

誤解の整理・関連比較:セポイとの混同を避け、地域差を見る

第一に、インドの「セポイ(sepoy)」とオスマンの「シパーヒー(sipahi)」は語源的には親類ですが、用法が異なります。前者は主として近世以降の欧州勢力・近代国家に雇用された現地歩兵を指し、1857年の反乱などで有名です。後者は本来、馬上騎兵=封土的軍役を担う身分呼称で、歩兵ではありません。日本語でも混同されがちですが、文脈で判別する必要があります。

第二に、オスマン内部でも地域差があります。バルカンでは、征服地の旧来の在地騎士層や農奴制の要素が再編され、ティマール受給者が農村秩序の調停者として機能しました。アナトリアでは、遊牧—半農半牧の生活世界を背景に、騎兵動員と在地の名望家の力学が複雑に絡みます。シリア・イラク方面では、隊商路・オアシス・都市商業の利害が強く、徴税請負人や都市富裕層との関係が濃密でした。したがって「一枚岩のシパーヒー像」を想定するより、土地制度・市場構造・宗教共同体の差が軍役の形を変えると考えるほうが実情に近いです。

第三に、同時代の他地域の騎兵エリートとの比較も有益です。マムルーク朝の軍事奴隷制騎士、サファヴィー朝のクズルバシュ、モスクワ国家のポメスチエ騎士など、いずれも軍役と土地・俸給を結ぶ仕組みを持ち、火器の普及と財政貨幣化の進行に伴って変容・解体していきました。オスマンのティマール—シパーヒー体制は、これらの中でも長く持続し、広域の台帳行政・裁量統制を通じて大規模帝国の伸長期を支えた点で特筆に値します。

第四に、19~20世紀のフランス植民地下北アフリカで編成された「スパヒ(spahis)」は、名称の由来をオスマン=マグリブ世界に求めますが、編制・任務・装備はフランス式の騎兵連隊であり、オスマン古典期のシパーヒーとは直接連続しません。名称の連想だけで同一視しないよう注意が必要です。

最後に、土地所有に関する誤解です。シパーヒーが「封土」を持つといっても、それは私的所有地ではなく、国家の「収入権の委任」に近いものです。譲渡や売買は原則として認められず、功過・違法で剥奪され得る可変的な権利でした。ゆえに、封建的所有権の発達というより、国家主導の軍事財政装置と理解するのが適切です。これを押さえると、なぜ制度疲労が進んだ17世紀以降に、請負徴税や現金俸給への移行が素早く広がったのかも見えやすくなります。

以上のように、シパーヒーは単なる「騎兵」の一語ではなく、土地台帳・徴税・軍役・在地統治・宮廷儀礼が絡み合う制度的結節点を担った存在です。オスマン帝国の拡張と統治のロジックを理解するうえで、ティマールとシパーヒーの関係を押さえることは不可欠であり、あわせて火器革命・財政貨幣化・地方社会の変容という長期的な潮流の中で、その興隆と衰退を位置づけて捉えることが重要です。