自由フランス政府 – 世界史用語集

自由フランス政府(じゆうフランスせいふ)とは、第二次世界大戦中のフランスがドイツに敗れたあと、ナチス・ドイツと協力するヴィシー政権に対抗して、亡命先などから「真のフランス政府」を名乗った勢力のことです。中心となったのはシャルル・ド=ゴールで、彼は1940年6月にロンドンから「フランスは敗北していない」と呼びかけ、ドイツへの抵抗を続けることを訴えました。この呼びかけに応じた人びとと、フランス植民地の一部が彼の下に合流し、「自由フランス(フランス・リーブル)」として戦い続けます。のちに自由フランスは「フランス共和国臨時政府」へと発展し、1944年以降のフランス解放と戦後体制づくりを主導しました。

当時、ドイツと休戦協定を結んで国内を統治していたペタン元帥のヴィシー政権は、形式上は合法政府でしたが、実際にはナチス・ドイツの強い影響下にありました。これに対して自由フランス政府は、「フランス共和国の正統な継承者はあくまで自分たちであり、ヴィシー政権は一時的な反逆政府にすぎない」と主張しました。自由フランス政府は、亡命政権でありながら、海外領土とレジスタンス勢力を背景に、連合国との交渉や軍事作戦に積極的に関わり、フランスが戦後に「連合国の一員・戦勝国」として認められる土台を築いた存在でもあります。

世界史で「自由フランス政府」という言葉に出会ったときには、単にロンドンの亡命政府というイメージだけでなく、「ヴィシー政権との二重権力構造」「レジスタンスと植民地の動員」「戦後フランスの正統性と大国としての地位を守るための政治闘争」という要素をあわせて思い浮かべると、その意味がより立体的に見えてきます。

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自由フランス政府とは何か:成立の背景と基本的性格

自由フランス政府が生まれた直接のきっかけは、1940年5〜6月のドイツ軍による西方電撃戦です。ナチス・ドイツ軍は、戦車と航空機を駆使した新しい戦術でオランダ・ベルギーを一気に突破し、マジノ線を迂回してフランス本土に侵攻しました。フランス軍とイギリス軍は対応に失敗し、ダンケルクからの撤退を余儀なくされます。フランス政府内部では、「戦争継続か、ドイツとの休戦か」をめぐって激しい議論が起こりました。

最終的に、第一次世界大戦の英雄とされていたペタン元帥らは「フランス本土と国民をこれ以上破壊させない」として休戦に傾き、1940年6月22日、ドイツとの休戦協定に調印します。これにより、フランス北部・西部はドイツ軍の占領下に置かれ、南部には名目上独立したヴィシー政権が成立しました。ヴィシー政権は表向き「中立」を装いながらも、実際にはドイツと協力し、ユダヤ人迫害や対英戦に協力するなど、ナチス側に立つ政策を取るようになります。

こうした中で、当時まだ無名に近かった準将シャルル・ド=ゴールは、フランス本土での敗北が決定的となると、イギリスへ脱出します。彼はロンドンからBBCラジオを通じて、「フランスの抵抗の呼びかけ」を行い、「フランスの運命はここで尽きたわけではない。フランスは戦い続ける」と訴えました。この有名な演説(6月18日)は、のちに自由フランス運動の象徴的な出発点とされます。

イギリス政府は、フランス本土がドイツの支配下に落ちた後も、フランスの名前を掲げて戦い続ける勢力を必要としていました。ド=ゴールは、イギリスにとって「協力しやすいフランス人の指導者」であると同時に、自らを「フランス共和国の継承者」と位置づけ、ヴィシー政権に対抗する新しい政治的中心をロンドンに築こうとします。この政治的中心が「自由フランス(フランス・リーブル)」であり、そこから発展した組織が自由フランス政府です。

自由フランス政府の基本的性格は、次のようにまとめられます。第一に、法的正統性の主張です。ド=ゴールは、第三共和政の議会が自らを解散し、ペタンに全権を委ねたこと自体が違憲であり、共和国の原則に反すると主張しました。そのため、フランス共和国は「形式的には中断したように見えても、実体としては自分の運動の中で続いている」としたのです。第二に、海外領土と亡命者を基盤とする「亡命政権」としての性格です。第三に、軍事組織(自由フランス軍)と政治組織(自由フランス国民委員会など)を兼ね備えた「戦う政府」であったという点です。

ロンドンからブラザヴィルへ:海外領土とレジスタンスの結集

自由フランス政府は、当初はロンドンに拠点を置き、イギリス政府の支援を受けながら活動を始めました。しかし、ただ「ロンドンに亡命した少数の政治家」というだけでは、フランス国内外での支持や正統性を広げることはできません。そこで重要になったのが、フランス海外領土、とくにアフリカ植民地の動向でした。

1940年夏以降、フランスの植民地の多くは、公式にはヴィシー政権への忠誠を表明しましたが、その中にはド=ゴールの呼びかけに応じて自由フランス側につく地域も出てきました。とくに重要だったのが、フランス領赤道アフリカ(現在のチャド、中央アフリカ、コンゴ共和国など)で、チャド総督フェリックス・エブエがいち早く自由フランスへの支持を表明します。これにより、自由フランスはアフリカ内陸部に広大な領土と兵力、資源を手に入れることに成功しました。

アフリカの拠点として選ばれたのが、コンゴ川流域にあるブラザヴィルです。ここに自由フランスの本部が置かれ、事実上の「臨時首都」となりました。ブラザヴィルから、自由フランス政府は北アフリカや中東戦線に部隊を送り、イギリス軍とともに対ドイツ・イタリア戦に参加します。スリア・レバノンやマダガスカルなど、一部の植民地をめぐっては、ヴィシー側勢力との戦闘も起こり、「フランス人同士が敵味方に分かれる」という複雑な状況が生じました。

一方、フランス本土内部では、ドイツ占領下とヴィシー政権下でさまざまなレジスタンス運動が芽生えました。最初は小規模なグループや地下新聞、情報提供活動が中心でしたが、時間とともに武装闘争や破壊活動も広がっていきます。当初、国内レジスタンスは必ずしもド=ゴールの自由フランスと一体ではなく、共産党系、キリスト教民主主義系、非共産系ナショナリストなど、思想も組織もバラバラでした。

自由フランス政府にとっての課題は、この国内レジスタンスの諸勢力を自らの指導のもとに結集させることでした。ロンドンやブラザヴィルから派遣された連絡員や、レジスタンス内部の調整を通じて、次第に「全国レジスタンス評議会(CNR)」などの統一組織が形成されていきます。これにより、自由フランス政府は、「海外領土+亡命軍人」だけでなく、「国内の抵抗運動」をも代表する政治的中心としての性格を強めていきました。

こうして見ると、自由フランス政府は、単にヨーロッパの一都市に置かれた亡命政府ではなく、「帝国としてのフランス」を土台にした広域的な構造を持っていたと言えます。アフリカや中東の植民地兵士は、自由フランス軍の重要な戦力となり、のちのノルマンディー上陸以降のフランス解放においても活躍しました。この点は、戦後長く「本国フランス人の抵抗」の物語の陰に隠れがちでしたが、近年は植民地兵士の存在にも光が当てられるようになっています。

アルジェと臨時政府:連合国との関係と「正統性」の争い

1942年11月、連合国軍は北アフリカに上陸作戦(トーチ作戦)を行い、アルジェリアやモロッコのヴィシー側勢力を排除して、この地域を連合国側の拠点とすることに成功しました。このとき、連合国、特にアメリカは、必ずしもド=ゴール個人に全面的な信頼を置いていたわけではなく、「ヴィシー政権と完全に手を切った保守的軍人・政治家」とも協力して、北アフリカを統治しようとします。

その代表的人物がジロー将軍で、彼はド=ゴールよりも穏健で反共産主義的な人物として、アメリカから一定の支持を受けました。その結果、北アフリカではしばらく、ド=ゴール派とジロー派の間で主導権争いが続きます。しかし、フランス国内レジスタンスやイギリスの支持、そして時間の経過とともに、より明確にヴィシー政権を否定し、共和政の継続を掲げるド=ゴール派が優勢となっていきました。

1943年、アルジェを拠点に「フランス国家解放委員会(CFLN)」が設立され、ド=ゴールとジローが共同議長となりますが、やがてジローは政治的影響力を失い、ド=ゴールがCFLNの実質的な指導者となります。このCFLNは、自由フランス政府の後継的機関であり、連合国からも「フランス人の代表機関」として承認されるようになりました。

1944年6月のノルマンディー上陸作戦の時点で、ド=ゴールのCFLNは「フランス共和国臨時政府(GPRF)」へと発展し、フランス本土の解放とともに、各地に自らの代表者を送り込みました。パリ解放(1944年8月)に際し、ド=ゴールは自由フランス軍とパリのレジスタンス部隊とともにパリに入城し、「フランスの首都は解放された。フランスは大国として立ち上がる」と演説します。この光景は、自由フランス側が「戦勝国フランス」のイメージを内外に示すうえで決定的な意味を持ちました。

連合国側、とくにアメリカの一部には、ド=ゴールを迂回してフランスに軍政を敷き、その後「新しいフランス政府」を自らの管理下で構築しようとする案もありました。しかし、ド=ゴールと臨時政府は、「フランスは完全な主権国家であり、他国による軍政や占領政府の設置は受け入れられない」と強く主張し、国内のレジスタンスや世論の支持を背景に、事実上その案を退けることに成功します。

この「正統性」の争いの結果、フランス共和国臨時政府は、1944年以降、ドイツ占領から解放されたフランス本土を統治する唯一の政府として国際的にも認められるようになりました。これは、戦後の国際秩序においてフランスが「連合国の一員・戦勝国」として扱われ、ドイツ占領地域の分割管理や国際連合安全保障理事会の常任理事国の地位を得るための重要な前提となりました。

戦後フランスへの継承:臨時政府の役割とド=ゴールの退陣

フランス共和国臨時政府は、1944年〜46年ごろにかけて、解放後の混乱したフランス社会を立て直す重要な役割を担いました。第一に、対独協力者(コラボラトゥール)やヴィシー政権の関係者に対する「粛清」と司法処理を進め、ナチスと協力した者に責任を問う一方で、「レジスタンスのフランス」という新しい国民的物語をつくろうとしました。第二に、戦時中にレジスタンスや労働運動が掲げていた社会改革要求を一部受け入れ、社会保障制度の整備や国有化などの政策を打ち出しました。

臨時政府のもとで、フランスは主要な銀行・エネルギー企業・交通機関などを国有化し、戦後復興と経済計画を国家主導で進める土台を築きました。また、女性参政権の導入など、政治的な民主化も進められました。これらの改革は、第三共和政時代の制度を単に復元するのではなく、「レジスタンスの精神」を反映した新しいフランス共和国をつくる試みでした。

一方で、ド=ゴールと他の政党・勢力との間には、政治体制のあり方をめぐる対立も生じました。ド=ゴールは、議会の分裂と弱さが第三共和政の不安定さの原因だったと考え、「強い行政府」と「国民的統合の象徴としての大統領」を重視していました。これに対して、社会党や共産党、急進党などの勢力は、議会中心の体制を望む傾向が強く、新憲法の方向性をめぐって意見が分かれました。

1946年初頭、ド=ゴールは、自らの望む政治制度が受け入れられないことを理由に臨時政府首班の地位を辞任し、いったん権力の表舞台から退きます。その後、第四共和政憲法が制定され、議会制民主主義にもとづく新しい共和国が発足しました。ただし、この第四共和政は、内閣の短命と政党の分裂に悩まされ、アルジェリア戦争など植民地問題への対応にも苦しむことになります。

ド=ゴール自身は、1958年の危機の中で再び政治の表舞台に復帰し、第5共和政を創設することになりますが、その際も彼は、自由フランス政府とレジスタンスの正統な後継者としての自らの役割を強調しました。つまり、自由フランス政府で培われた「強い行政府」「国家の独立と主権の重視」「大国としてのフランス」というビジョンは、戦後長期にわたってフランス政治の重要な柱となり続けたのです。

このように、自由フランス政府は、第二次世界大戦期の一時的な「亡命政権」にとどまらず、ヴィシー政権との対立を通じてフランス共和国の正統性を主張し、レジスタンスや植民地兵士を結集して「戦うフランス」を体現しました。そして、戦後の臨時政府と憲法体制への移行を通じて、その経験と理念を戦後フランス国家に引き継いでいきました。世界史で自由フランス政府を学ぶことは、占領と協力、抵抗と正統性、戦後秩序の形成というテーマを理解するうえで欠かせない一歩となります。