グティ人 – 世界史用語集

グティ人(Gutians, Guti)は、前3千年紀末(概ね前22世紀)にメソポタミアに侵入・進出し、アッカド帝国の崩壊後に「グティ王朝」と呼ばれる支配を一時期確立した山地系の集団です。彼らの出自はザグロス山脈西麓の「グティウム(Gutium)」とされ、言語系統は不明、定住農耕民というより牧畜・移動性の高い社会だったと考えられます。現代の私たちがグティ人について語れることの大部分は、彼らの敵対者であったアッカド人やシュメール人の記録(『シュメール王名表』『アガデの呪い』『ウトゥ・ヘンガル勝利碑文』など)に依拠しており、そこではしばしば「秩序を乱す野蛮な山の民」として描かれます。しかし、そうした表象は敗者・外部者へのステレオタイプを多分に含みます。グティ人は帝国崩壊の空白期に都市国家群の間を縫うように王権を主張し、やがてウル第三王朝の勃興によってメソポタミアの主舞台から退きました。以下では、出自と環境、アッカド帝国との関係、支配と評価、終焉とその後、史料上の限界という観点から、グティ人の実像にできるだけ丁寧に迫ります。

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出自・環境・周辺世界:ザグロスの「グティウム」と山地の回廊

古代文書に現れる「グティウム」は、ティグリス川上流の東方、ザグロス山脈西麓—今日のイラン西部からイラク北東部にまたがる地域—を幅広く指す地名でした。そこにはグティ人のほか、ルルビ(Lullubi)やスバル(Subartu)など、複数の山地系集団が混在し、季節移動や小規模定住を組み合わせた生活を営んでいたと見られます。山地は金属資源(銅・銀)や木材の供給地であり、その往来はメソポタミアの都市国家にとって不可欠でした。すなわち、山の人びとは単なる周縁ではなく、交易・略奪・傭兵・婚姻といった回路で低地世界と日常的に結びついていたのです。

言語については、決定的な資料が乏しく未詳です。楔形文字に記されたグティ人名は、アッカド語やシュメール語の語形と一致しないものが多く、独自系統の可能性が指摘されますが、推測の域を出ません。グティ人に固有の考古学的様式(器形・装飾・葬制など)も未だ確定しておらず、彼らを物質文化だけで同定することは困難です。したがって、出自・言語・社会構造に関しては「不明の余白」を正直に引き受ける必要があります。

アッカド帝国の崩壊とグティ王朝:空白の時代を埋める山の王

前24〜23世紀にメソポタミアを初めて広域統合したのがアッカド帝国でした。サルゴン、ナラム・シンらの王は交易と軍事で勢力を拡大しましたが、帝国はやがて内紛・地方反乱・外敵侵入・気候変動(いわゆる4.2キロ年イベントによる乾燥化)など複合的要因で弱体化します。その乱世に登場したのがグティ人です。史料は、アッカド末期に山地勢力がたびたび低地へ侵入し、都市間の交通・灌漑・徴税を攪乱したことを伝えます。ナラム・シンの碑文や後代の『アガデの呪い』は、アガデ(首都)を荒廃させた元凶としてグティ人を名指ししますが、そこには崩壊の責任を外部に転嫁する物語化のバイアスも読み取れます。

『シュメール王名表』には、アッカドに続いて「グティの王たち」が列挙され、エリドゥピズィル(Erridupizir)やヤルラガブ(Yarlagab/La-erabum)、シウム(Si’um)、ティリガン/ティリガン(Tirigan)など複数名が記されています。最末期の王ティリガンは、のちにウルクのウトゥ・ヘンガルによって打ち破られたとされ、その逸話はグティ支配の終焉を象徴する場面として伝承されました。これらの王名の一部は短い碑文や刻印にも現れ、彼らが単に山地で王を称しただけでなく、メソポタミアの都市や神殿に対しても支配・寄進・官職任命などの行為を行ったことがわかります。

グティ王朝の年代幅は、短年観から数十年、長年観で一世紀弱ほどと諸説あります。いずれにせよ、その支配は一枚岩の中央集権ではなく、都市ごとの服属と離反、徴発と保護、傭兵関係と婚姻関係が錯綜する「揺れる覇権」だったと見るのが妥当です。山地の本拠と平野の都市を往来する権力は、灌漑と運河の維持、収穫の把握、神殿経済の調整といった低地国家の必須業務では不利であり、彼らの統治はしばしば断片的・暫定的にならざるをえませんでした。

統治の実像と文献のバイアス:破壊者か、暫定管理者か

グティ人の評価が時代によって大きく揺れるのは、情報源の偏りに由来します。シュメール・アッカドの文書は、山地民を「言葉もわからぬ野蛮」「耕作も礼も知らない」と描くことが少なくありません。『アガデの呪い』は、帝国の傲慢に対する神々の報いとして、グティ人の侵入と秩序の崩壊を語ります。しかし、考古学的には各都市の生活が完全に断絶した跡は限られ、神殿の管理や工事は断続的に続いています。つまり、グティ人の支配は「破壊」一色ではなく、都市のエリートを介した暫定管理や、保護と引き換えの貢納といった実務的な側面も持っていた可能性が高いのです。

実際、エリドゥピズィルなど一部のグティ王は「四方の王(世界王)」を称し、王名印章を通じて行政の実務に関与した形跡を残しています。彼らは、従来の都市神殿が持つ権威を利用し、既存の官僚・書記組織を丸ごと差配する形式で統治を図ったのでしょう。これは、外来の征服者が在来組織を乗っ取る一般的な手法であり、民族・言語の差異があっても行政が回るメソポタミア社会の「制度の強さ」を示唆します。

一方で、運河・堤防の維持、治安の確保、長距離交易の保護といった公共的機能は低下し、地域間の結びつきは弱まりました。王名表のグティ王は短命で交代が速く、政治的安定の欠如がうかがえます。軍事的には騎射や山岳戦に強みがあったと考えられ、平野の装備を前提とした戦術に対しては機動性で優位に立つ局面もあったでしょう。しかし、低地での長期駐屯・灌漑管理には不向きで、都市国家の抵抗や新興勢力の反攻を抑え切れなかったと見られます。

退潮とウル第三王朝:ウトゥ・ヘンガルからウル・ナンムへ

グティ人の退潮を告げる物語として最も有名なのが、ウルクの王ウトゥ・ヘンガル(Utu-hengal)の勝利碑文です。そこでは、彼が神の命により最後のグティ王ティリガンを討ち、メソポタミアの自由を回復したと宣言します。実際には、この勝利は一連の反攻の象徴的な幕開けであり、決定打を放ったのはウルの王ウル・ナンム(Ur-Nammu)でした。ウル・ナンムはウル第三王朝(Ur III, 前21世紀頃)を創建し、法典の制定、運河の整備、徴税・労役の再編、神殿の復興といった総合的な再建を進めます。

ウル第三王朝の編成力は、グティ支配期の分断を乗り越え、都市間ネットワークを再起動させるものでした。つまり、グティ人の時代は、アッカド帝国の集中とウル第三の再集中のあいだに挟まれた「中間期(インターレギナム)」として位置づけられます。そこでは、山地と低地、移動と定住、略奪と交易という二項対立が入り混じり、複数の秩序がせめぎ合っていました。グティ人はその渦の中で一時的に覇を唱えたにすぎず、しかし彼らの存在が、のちの統合政権の正当化に逆説的に資することにもなりました(「混乱から秩序へ」という政治的物語が成立しやすくなるためです)。

史料・考古学の課題:見えない人びとをどう語るか

グティ人研究の最大の難所は、一次資料の偏りと希少さです。王名表・碑文・円筒印章・行政文書に散発的に現れる人名・地名・称号を手がかりに、歴史の輪郭を再構成する作業は、常に不確実性を伴います。例えば、「グティ」は広域地名・民族名・政権名として多義的に用いられ、同時代のルルビやスバル、後代のアモリ人・カッシートといった集団との境界も曖昧です。考古学的様式での識別が確立していない以上、文献が語る「グティ」と物質文化の担い手を一対一で結びつけることはできません。

そのため、最新の研究は「敵の記述の奥に潜む生活実態」を読む作法を重視します。すなわち、誇張や蔑視を割り引きながら、移動牧畜・傭兵化・略奪と交易の相関、山地の気候変動と越境の強度、金属資源の供給網と関税の設定など、経済人類学・環境史・軍事史の知識を総動員して、グティ人の行動原理をモデル化するのです。これにより、彼らを単なる「破壊者」ではなく、境界帯の生存戦略を体現した主体として捉え直す視点が育ちつつあります。

また、気候・環境の視点も重要です。アッカド末の乾燥化は、農耕地の生産力を下げ、都市の脆弱性を高めました。一方、山地系集団は柔軟な移動で資源の変動に対応しやすく、境界の圧力は相対的に強まります。グティ人の進出は、この環境的ショックと政治的空白の合わせ技の産物だった可能性があります。近年の花粉分析・同位体比・湖沼堆積物の研究は、この仮説の検証を後押ししています。

後世の記憶とレッテル:政治言語としての「グティ」

後代のメソポタミア文献では、「グティ」はしばしば秩序を乱す他者の代名詞として使われます。これは、政治の正当化言語としての機能—「グティのような混乱に戻すな」「グティを追い払え」—を持っていました。異民族・山地民・周辺勢力を一括りにするレッテルは、都市国家の自意識と排除の論理を映し出します。他方で、実際の社会では山地出身者が傭兵・官吏・職人として都市に組み込まれており、境界は絶えず往来されていました。記憶の言語と生活の実態のあいだの距離を意識することが、グティ人という名の歴史像を扱ううえでの基本作法です。

まとめ:空白期の主役か、境界の翻訳者か

グティ人は、アッカド帝国とウル第三王朝の狭間に出現した「空白期の主役」であり、同時に山地世界と低地世界をつなぐ「境界の翻訳者」でもありました。彼らの支配は短期的で断片的でしたが、メソポタミアの政治秩序が外縁から揺さぶられ、再編されていくプロセスを可視化します。私たちが読める文献は多くの場合、彼らの敵の手によるものですが、その偏りを自覚しつつ、環境・交易・軍事・行政の諸相を丁寧に重ねることで、グティ人の行動原理と歴史的位置はより立体的に見えてきます。かつて「野蛮の象徴」とされた名は、いま、古代西アジアのダイナミクスを理解するための鍵語へと、静かに姿を変えつつあるのです。