グラナダは、イベリア半島南部アンダルシアに位置する都市およびその周辺を基盤としたイスラーム王国(ナスル朝グラナダ王国, 1230年代〜1492年)を指す用語として、世界史でしばしば用いられます。カスティーリャによるレコンキスタの圧力が増すなかで、グラナダは約二世紀半にわたり高度な灌漑農業と地中海交易、洗練された宮廷文化と独自の外交術で生存を図りました。アルハンブラ宮殿とヘネラリフェ庭園に代表されるナスル朝美術はイスラーム世界屈指の完成度を誇り、同時にグラナダの政治社会は、北のキリスト教諸国とマグリブ(モロッコ)勢力との板挟みの中で繊細な均衡を維持しました。1492年の陥落後、改宗(モリスコ)政策やアルプハラス反乱を経て、宗教・言語・生活文化の大規模な転換が進みます。要するに、グラナダは「境界の知恵」を凝縮した最後のイスラーム王国であり、その興亡は中世末ヨーロッパの政治・宗教・都市・美術・農業技術を横断的に照らし出す鏡なのです。
成立の背景:カリフ崩壊後の小国家群と「境界」の形成
11世紀初頭に後ウマイヤ朝のコルドバ・カリフ国が崩壊すると、イベリア半島のイスラーム世界はタイファ(諸王国)に分裂しました。グラナダ地域では、一時ジリード朝(ズィール朝, 1013〜1090)が台頭し、都市に城塞(アルカサバ)とスーク(市場)が整えられます。その後、ムラービト朝・ムワッヒド朝という北アフリカの大帝国が半島を再統合しますが、12世紀末から13世紀初頭にかけて再びイスラーム勢力は後退し、カスティーリャ王国がコルドバ・セビーリャを相次いで奪取しました。こうした後退局面で、シエラ・ネバダの山地と肥沃なベガ平原に守られたグラナダは、亡命貴族・商人・職人・学僧を吸収して最後の防衛線となっていきます。
王朝の創始者はムハンマド1世・イブン・ナスル(通称アル=アフマル, r.1232〜73)です。彼はハエン、グラナダ一帯に拠ってナスル朝を樹立し、カスティーリャへの服属(貢納と軍役提供)と、マグリブのマリーン朝(マリーン朝とも)への接近を使い分ける「二重外交」で生存を確保します。国境(フロンテーラ)には連続的な砦と烽火のネットワークが敷かれ、辺境社会は略奪(アルガラ)と人質交換、季節的停戦を織り込みながら回りました。グラナダの「境界」は、単なる軍事線ではなく、交易と人的移動、文化交差の回廊でもあったのです。
政治・社会・経済:灌漑・絹・砂糖が支えた山麓都市国家
グラナダ王国の政治は、スルタンの宮廷と宰相・書記局、軍事奴隷(グラナダではユンディド)や山地部族の軍事力、都市のウラマー(法学者)や商人評議の力学で成り立ちました。王権は強固ではあるものの、貴族派閥やマグリブの援軍、カスティーリャとの講和条件に左右され、しばしば内紛が勃発します。14世紀には賢王ユー素フ1世(r.1333〜54)・ムハンマド5世(r.1354〜59, 1362〜91)が相次いで文化・軍事両面の最盛期を現出させ、アルハンブラの大改造と市街地の整備、法制度・財政の立て直しを行いました。
経済の柱は、(1)高度な灌漑農業、(2)絹・砂糖の現金作物、(3)国境貿易と関税収入です。イスラーム式のサキヤ(揚水車)と水路(アセキア)による谷筋の灌漑は、米・小麦・大麦・綿・果樹・野菜の多角的生産を可能にし、山麓の段々畑は土壌を保全しました。丘陵の桑園と養蚕はグラナダ絹織物を支え、地中海市場で高値を呼びました。海岸部(モトリルなど)では砂糖キビが栽培され、製糖は都市の贅沢消費と交易の目玉になります。交易面では、ジェノヴァ商人が融資・輸送を担い、羊毛や皮革、陶器とともに、奴隷や香料も動きました。関税(アルカバラ)と港湾税は歳入の要で、カスティーリャとの講和で貢納額が決まると、その負担を国内の課税と関税の調整で消化する「財政工学」が働きました。
社会構成は複層的です。アラブ・ベルベル系のエリート、改宗キリスト教徒との混住、ユダヤ人共同体の金融・医療・通訳の役割、女性の相続と婚資慣行、アンダルス詩とマカーマ文学の享受など、都市文化の厚みは大きいものでした。宮廷詩人イブン・アル=ハティーブ(14世紀)は歴史家・医師・政治家を兼ね、グラナダの「知の広場」を体現する人物として知られます。こうした多様性は、境界社会ならではの開放性と同時に、危機時に脆い断層ともなりえました。
軍事と外交:リオ・サラードから降伏勅許まで
14世紀のグラナダは、カスティーリャとアラゴン、ポルトガル、そしてマグリブのマリーン朝の三角関係を巧みに利用し、講和と遠征を繰り返しました。転機の一つが1340年のリオ・サラード(サラード川)会戦です。マリーン朝とグラナダの連合軍はカスティーリャ=ポルトガル連合に敗れ、海上制海権とジブラルタル回廊の掌握はキリスト教側へ傾きます。以後、グラナダは防御と外交の再編を迫られつつ、宮廷内の覇権争いが頻発しました。
15世紀後半、カスティーリャ女王イサベルとアラゴン王フェルナンドの合同(いわゆる「カトリック両王」)によって、対グラナダ政策は軍事・財政・宗教の三位一体で遂行されます。砲兵と攻城術、補給線(サンタ・フェの野営都市)と金融(サン・ジョルディ騎士団やジェノヴァ資本の関与)、聖戦イデオロギーが噛み合い、1482年から1492年にかけての段階的攻略が始まりました。最後のスルタン・ムハンマド12世(ボアブディル)は内戦と包囲の板挟みで譲歩を重ね、1491年末の降伏交渉(サンタ・フェ条約)を経て、1492年1月2日にアルハンブラの鍵を引き渡します。
降伏時に取り交わされた「グラナダの勅許(カピトゥラシオネス)」は、ムスリム住民の宗教・財産・慣習の保護を約した文書でした。初期にはこの約束に基づき、モデハル(ムデハル)としてイスラーム法廷とモスクの存続が一部容認されましたが、やがて方針は強硬化します。枢機卿シスネロスの主導で改宗圧力とアラビア語の禁止、書物の焚書が進み、1499年のグラナダ反乱を皮切りに、1500〜01年の強制改宗(モリスコ化)が断行されました。グラナダの「勅許」は骨抜きとなり、宗教と文化の急激な再編が始まります。
征服後の社会変容:モリスコとアルプハラスの記憶
16世紀のグラナダは、改宗ムスリム=モリスコの統合をめぐる長い試行錯誤の時代です。公的にはカトリック信仰が強制される一方、家庭内ではアラビア語(アルハミヤド文、ロマンス語をアラビア文字で表記)による伝承が生き続け、衣服・料理・風呂(ハンマーム)・婚礼などの生活文化は根強く残りました。王権は監視と寛容を揺れ動かせながら、課税と土地政策でモリスコ社会を再編します。最初の大規模反乱は1500〜01年の山地蜂起ですが、最も激烈なのは1568〜71年の第二次アルプハラス反乱でした。フィリペ2世による言語・衣装・風習の禁止令が引き金となり、シエラ・ネバダ一帯でゲリラ戦が展開、最終的には強制移住と共同体分解によって鎮圧されます。モリスコはその後も各地に分散して生きますが、1609〜14年の追放令で半島から排除され、グラナダのイスラーム=アンダルス的世界は決定的な断絶を迎えました。
征服後の都市計画も象徴的です。アルハンブラ丘のモスクは教会や修道院に転用され、王室礼拝堂(カピリャ・レアル)にはイサベルとフェルナンドが埋葬されます。新たな広場や大道がイスラーム時代の細街路を切り開き、カテドラルと行政庁舎が都市の正面を占めました。他方で、アルバイシン地区の白壁と迷路の街路、内庭(パティオ)と水路の文化はしぶとく生き延び、グラナダの景観にイスラームの記憶を刻み続けます。
アルハンブラとナスル朝美術:水・光・文字の建築
アルハンブラ宮殿群は、グラナダを語るうえで欠かせない総合芸術です。アルカサバ(城塞)・コマレス宮・ライオンの中庭を中心とする宮廷区画、政庁・浴場・庭園・貯水槽が段丘状に配置され、水路と噴水が空間をつなぎます。ナスル朝装飾の特徴は、(1)ムカルナス(鍾乳石装飾)による天井の結晶化、(2)スタッコ(漆喰)彫刻のアラベスクとカリグラフィ、(3)幾何学と植物文様を組み合わせたタイル(アズレホ、ゼリージュ)です。壁面には詩句が刻まれ、建築そのものが言葉の器となって、王権の栄光と神の讃美を繰り返し語ります。
光と水の扱いは、機能と象徴の両面で練られています。水は灌漑都市の生命線であり、同時に楽園の象徴でした。きらめく水面に反射する文様、透かし窓から差す光が刻む陰翳、風を引き込むパティオの微気候—これらは単なる美観ではなく、過酷な夏をしのぐ環境工学でした。ヘネラリフェの農園と別邸は、王権の余暇と自給的経済の双方を物語り、庭園の水路は都市灌漑の端点とも連結します。ナスル朝様式はのちのムデハル建築・ルネサンス期のスペイン庭園にも影響を与え、素材と職人の移動を通じて長く継承されました。
知の交差点:言語・学芸・法のハイブリッド
グラナダは、アラビア語・ロマンス語・ヘブライ語が交差する学芸の場でもありました。宮廷詩の洗練は言うまでもなく、史書・地理書・医学書の編纂が続き、商業実務では二重言語の契約文書(公証)の技法が磨かれます。イスラーム法(シャリーア)は家族法や相続で強い影響力を保ち、都市のヒスバ(市監察)は市場秩序を支えました。征服後には、ムデハルの建築職人、翻訳家、楽師がキリスト教世界に吸収され、アルハミヤド文献は民衆信仰とカトリックの境界で独特の宗教実践を形づくります。近代以降、東方学と建築史、灌漑史研究はグラナダを重要事例として扱い、世界遺産登録(アルハンブラ、ヘネラリフェ、アルバイシン)により、保存・観光と住民生活の両立という新たな課題が突きつけられています。
1492年の意味:レコンキスタの終点と地理的大転換
1492年は、グラナダ陥落(1月)、コロンブスの大西洋航海(10月)、ユダヤ人追放令(3月:いわゆるアルハンブラ勅令)という三つの出来事で象徴されます。これは、イベリア半島の「内なる境界」の終焉と、外洋世界への拡張の始まりが同年に凝縮したことを意味します。グラナダは内陸の境界社会から、帝国の辺境都市へと位置づけを変え、イスラーム=アンダルスの知は、追放と改宗、翻訳と転用を通じて、ヨーロッパの科学・美術・制度の基層に静かに拡散しました。レコンキスタの完了は、同時に異教徒・異端に対する国家暴力の制度化(異端審問所の強化)を伴い、宗教的多様性の縮減へ向かいます。グラナダの歴史をたどることは、ヨーロッパが内向きの統合から外向きの拡張へと軸足を移す「地理的大転換」の臨界点を見ることにほかなりません。
小結:境界に生まれ、境界を越えた都市
グラナダは、政治的には従属と自立のはざま、経済的には山と海を結ぶ回廊、文化的にはアラビア語・ロマンス語・ヘブライ語の三角地帯に立つ都市でした。ナスル朝の二世紀半は、灌漑・絹・砂糖・詩・建築・外交の総合芸術であり、陥落後の五世紀は、改宗・反乱・追放・翻訳・観光という別種の交差点の時代でした。水と光を操るアルハンブラの空間、段々畑に走るアセキア、アルバイシンの白壁、王室礼拝堂の冷たい石、アルプハラスの峻厳な峰—それらは、境界の技術と記憶の層を今に伝えています。グラナダを学ぶとは、共存と衝突、約束と反故、保存と変容がせめぎ合う「境界の政治学」を体感することなのです。

