シドン(Sidon/現代アラビア語:サイダ、レバノン南部)は、古代フェニキア世界を代表する港市国家の一つであり、地中海交易・造船・ガラス工芸・紫染料で名高い都市です。古拠点はレバノン山脈の谷を背に、天然の入り江と小島によって良港を形成し、内陸の香料・木材と海上の航路が結節する要地に位置しました。前1千年紀を通じて独自の王統と都市アイデンティティを保ちながら、アッシリア・バビロニア・アケメネス朝ペルシア・ヘレニズム諸王朝・ローマ帝国の支配下で繁栄を重ね、古代オリエントと地中海をつなぐ中継点として世界史に刻印を残しました。本稿では、地理と成立、古代の政治史、宗教・文化・経済的特質、中世以降の軌跡と歴史的意義を、混同しやすい点に注意しながら整理します。
地理・成立と初期の展開:フェニキア港市国家の一角
シドンは現代のレバノン共和国南部、首都ベイルートの南約40kmの海岸に位置します。沿岸には小島と岩礁が点在し、防波の役割を果たす天然の地形が港の発達に適していました。背後の丘陵からはレバノン杉やオリーブ、葡萄、穀物がもたらされ、内陸の隊商路はダマスコ方面と接続し、海陸複合の交易拠点として早くから栄えました。
考古学的には、青銅器時代末から鉄器時代初頭にかけてフェニキア人の都市国家群の一つとして整い、同時代のティルス(ツィル/ティル)と並び立つ存在でした。古代文献では「シドン人(Sidonians)」という集合的呼称が、しばしばフェニキア人一般を指す用法で用いられるほど、同市の名はフェニキア世界の代表名詞化を遂げていました。母都市としての植民活動の規模はティルスほどではないものの、キプロス、エーゲ海沿岸、北アフリカの諸港に商業的前線基地を有し、船団と職人集団の移動で影響圏を広げました。
前1千年紀初頭、シドンは一時的に周辺港市の盟主的地位を占め、造船・航海術・染色の技で名声を博しました。紫染料(いわゆる「シドン紫」)はムラサキイガイ類ではなく、ボラ科ではなくアッキガイ科に属する貝(貝紫/モレックス)を原料とし、王侯貴族の権威を象徴する高級品として東西に流通しました。ガラス工芸や象牙象嵌、金属細工もシドンの手工業を代表し、王家の墓からは高度な石棺や装飾品が出土しています。
古代の政治史:アッシリアの圧力からアレクサンドロスの到来まで
前9〜7世紀、メソポタミアの新アッシリア帝国が西方へ拡張すると、シドンを含むフェニキア諸都市は朝貢と自治の均衡に苦心しました。史料には、ティグラト・ピレセル3世、サルゴン2世、センナケリブらへの貢納や反乱の記録が見えます。シドンの王ルル(ルリ/ルリ)は前8世紀末に反抗を試みますが、鎮圧され、のちの王アブディミルク(アブディ・ミルクート、Abdi-Milkuti)も前7世紀初頭にエサルハドンにより制圧されました。エサルハドンはシドンの城壁を破壊し、領域を再編して「カル=エサルハドン(エサルハドンの港)」と改名・直轄化するなど、見せしめ的政策を採ったと伝えられます。
新バビロニア期・アケメネス朝ペルシア期に入ると、フェニキア諸都市は海軍力と商業の専門性を買われ、帝国海軍の中核を担いました。ペルシア戦争期、フェニキア艦隊は王の艦隊の主力として動員され、シドンの船大工・水夫は広く知られました。ペルシアのサトラップ統治のもと、フェニキア都市は比較的広い自治と商業特権を享受し、銀造幣や神殿建設が進みます。シドンはこの時代、都市域を整備し、治癒の神エシュムンの聖域(ブスタン・エシュムン)を中心に宗教的威信を高めました。
しかし前4世紀、ペルシア帝国の権威低下とともに緊張が高まり、前4世紀半ばにはシドンが主導する反乱が勃発します。ペルシア側の苛烈な鎮圧と内部抗争が都市に深刻な損害を与え、政治的地位は動揺しました。その後、前333年にアレクサンドロス大王が東征の途上でフェニキア沿岸に進出すると、シドンは比較的平穏に服属し、ティルス包囲戦の際には補給・外交の拠点として重用されました。アレクサンドロスは、王統争いで空位化していたシドン王位に「アブダロニモス(Abdalonymos/アブダロニムス)」という在地貴族を擁立したと伝えられ、これはヘレニズム期の「旧支配層の登用と新秩序の融合」を象徴する逸話として知られます。
ヘレニズム時代には、シドンはプトレマイオス朝とセレウコス朝の係争地に巻き込まれながらも、造幣と交易で自立性を保ちました。ローマ時代には自治都市としての地位を認められ、道路網・都市施設が整備され、学芸・哲学の拠点としても名が上がります。『新約聖書』にも「ツロとシドン(Tyre and Sidon)」の組として度々登場し、ガリラヤ湖畔から地中海沿岸へと広がる経済圏・移動圏の存在を反映しています。
宗教・文化・経済:エシュムンの聖域、紫とガラス、王墓と碑文
シドンの宗教景観を語るうえで欠かせないのが、治癒神エシュムン(Eshmun)の聖域です。市の北東、ブスタン・エシュムンと呼ばれる果樹園地帯に広がる神殿複合は、泉と水路、沐浴施設、碑文・奉納品に彩られ、病の癒しを求める人々が訪れた療養の聖地でした。エシュムンはギリシア世界ではアスクレピオスと同一視され、ヘレニズム時代の宗教的混交(シンクレティズム)を象徴します。女神アスタルテ(Astarte)への信仰も厚く、航海・豊饒と結びついた儀礼が行われました。
工芸の面では、ガラスと紫染が際立ちます。古代の伝承は、砂・ソーダ・石灰を用いるガラス製造にシドン人が熟達していたことを語り、透明度と彩色の技は地中海世界で高く評価されました。紫染は前述の通り王侯貴族の権威標識で、シドンの名は色名の形容として文学の中にも生きています。さらに、象牙象嵌や金属細工、木工などの高級工芸も発達し、フェニキア職人の国際的活動とともに、近隣諸国の宮廷・神殿装飾を支えました。
碑文学的資料は、シドンの王統と宗教政策を伝えます。とりわけ有名なのが、王エシュムナザル2世の石棺に刻まれた長大なフェニキア語碑文で、都市の聖域造営や領土恩典、呪詛句が詳細に記述されています。同王家のタブニト王の石棺(本来はエジプト製の転用)も著名で、エジプトとの外交・交易の緊密さ、文化的受容の広がりを物語ります。これらの王墓出土品は、シドンが東地中海のハイエリート文化圏に深く組み込まれていたことを示す第一級資料です。
経済構造は、港湾・造船・遠距離交易・手工業が四本柱でした。レバノン杉は造船・建築材として高く評価され、シドンの船は紅海や大西洋の航海にも耐えると称されました。内陸隊商との連携により、乳香・没薬、金属、穀物、葡萄酒、オリーブ油が流通し、貨幣経済の浸透とともに都市の市場・倉庫・官倉が整備されました。都市のエリートは神殿・公共建築・港湾施設に投資し、宗教的功徳と都市の威信を同時に高めるパトロネージを行いました。
中世以降と歴史的意義:十字軍の「シドン領」、近世・近現代、そして誤解の整理
ビザンツ期を経て、イスラーム征服後もシドン(サイダ)は地域港として命脈を保ちます。十字軍時代には1110年にノルウェー王シグルズ1世の艦隊支援を受けたエルサレム王ボードゥアン1世によって攻略され、「シドン領(Lordship of Sidon)」が成立しました。十字軍国家の海上玄関口として繁栄する一方、アイユーブ朝・マムルーク朝との攻防を繰り返し、最終的に1291年のマムルーク軍の攻撃で徹底的に破壊されます。オスマン帝国の時代には、再びレバント貿易の中継港として浮沈を経験し、近代には石鹸・柑橘・絹織物などの地域産業の輸出拠点となりました。
今日のサイダは、歴史地区(海城と旧市街)、近代市街、周辺農園が融合する中規模都市で、フェニキア以来の海と市場の都市としての性格を今に伝えます。考古学的保護と都市成長の調和、宗派・宗教の多元性、地域紛争の影響など、現代的課題を抱えつつも、地中海世界の長期連続性を体感できる場所です。
歴史的意義としては、第一に、シドンが「海の民」フェニキアの代表として、造船・航海・交易・工芸の高度な結節点であったことです。第二に、アッシリアからローマに至る大帝国の周縁として、自律と従属を往復しながら生存空間を拡張した港市国家の典型であること。第三に、宗教的シンクレティズムと医療的実践(エシュムン聖域)に見られるように、文化接触のダイナミクスを体現した都市であることが挙げられます。
誤解しやすい点も整理しておきます。まず、「シドン=フェニキアの首都」という表現は不適切です。フェニキアは都市国家の連合的世界であり、時期によりティルスやビブロスが主導的で、固定的首都は存在しません。次に、紫染料の原料に関する混同(ブドウや一般的な貝類と誤認)に注意が必要です。貝紫は特定の巻貝(モレックス属)から採取され、高度な技術と長時間の工程を要しました。また、『聖書』に見える「ツロとシドン」は、地理的近接と経済圏の共有を示す並称であり、二都市の政治的一体化を意味しません。
学習のコツは、(1)年表にアッシリア圧迫→ペルシア繁栄→ヘレニズム→ローマ→十字軍→マムルークを並べ、帝国との関係の変化を可視化すること、(2)地図で港湾と内陸路(ダマスコ連絡)を重ね、「海陸複合」の位置取りを理解すること、(3)王墓碑文(エシュムナザル2世、タブニト)とエシュムン聖域の二つの考古学コアを押さえること、です。これらをつなげて読むと、シドンが単なる古代都市名ではなく、長期にわたり「海の道」を編んだ都市文明の象徴であることが見えてきます。

