「鎖国」 – 世界史用語集

「鎖国」は、江戸時代の日本が海外との往来と貿易を厳しく管理した体制を指す言葉です。ただし「国を完全に閉ざした」というイメージは正確ではありません。実際には、長崎(出島)・対馬(朝鮮)・薩摩(琉球)・松前(アイヌ/蝦夷地)という複数の公的ルートを通じて対外交流が続き、知識や物資は制限つきながら流入し続けました。つまり「鎖国」は、宗教や軍事上のリスクを抑えつつ、貿易利益と国内秩序を両立させるための〈統制的開放〉の仕組みだったと理解するのが適切です。本稿では、用語の来歴と政策の成立過程、運用の具体、18世紀以降の変容、そして開国への転回を、神話を避けつつ分かりやすく整理します。

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用語の来歴と理念:だれが「鎖国」と呼んだのか

「鎖国」という語は江戸前期に公文書で使われた名称ではありません。18世紀末〜19世紀初頭に、出島オランダ商館医エンゲルベルト・ケンペルの『日本誌』がオランダ語・ドイツ語で知られるようになり、その「日本封鎖(clausura Japoniae)」という把握を手がかりに、長崎通詞・洋学者の志筑忠雄が『鎖国論』(1801頃)と題して紹介・翻訳したことで広まりました。明治以降、この語が「江戸日本=閉鎖国家」という図式と結びつき、学校史観で定着していきます。しかし近年の研究では、当時の実務は「海禁(海上交通の禁制)を中心とする管理貿易」だったと捉え直され、〈管理・選別・分業〉という側面が強調されています。

理念面では、三つの柱がありました。第一にキリシタン禁制です。布教と在来の支配秩序が緊張関係にあったため、幕府は宣教師と信徒の拡大を強く抑えました。第二に軍事安全保障です。火器や軍艦、他国勢力の内政干渉を回避する意図がありました。第三に交易統制と財政です。銀・銅など貴金属の流出抑制、輸入品(生糸・織物・薬品など)の価格安定、対外窓口の一元化による利権と治安の管理が目標でした。これらを総合して、幕府は「開く窓の種類と大きさを決め、そこに番人(役所・特権者)を置く」方式を採ったのです。

成立過程:朱印船貿易から海禁へ—1630年代の一連の禁令

16〜17世紀初頭、日本は朱印船貿易で東南アジアと広く往来し、マニラ・アユタヤ・パタニなどに日本町が成立しました。ところが、国内でのキリシタン弾圧の激化、スペイン・ポルトガル勢力への警戒、対外交易の秩序化の必要から、幕府は方針転換を進めます。鍵となるのが1630年代の禁令群です。

1633年:日本人の海外渡航と、帰国の原則禁止(渡海の禁)。
1635年:朱印船の全面停止、海外在留日本人の帰国禁止、キリシタンの取り締まり強化。
1639年:ポルトガル船の来航を禁止(マカオとの断絶)。

この間に、オランダ商館の平戸から出島への移転(1641)が実施され、オランダと中国(明→清)船に限った長崎口での交易が確立しました。さらに、対外接触は四つの公的ルート(「四口」)に整理されます。すなわち、長崎口(出島のオランダ・唐船)/対馬口(朝鮮)/薩摩口(琉球)/松前口(蝦夷地・アイヌ)です。これにより、無許可の外洋航海は原則停止、一方で必要な品物や情報は管理された窓から取り入れる制度が整いました。

また、国内の商業統制として、17世紀初頭から糸割符制度が導入され、生糸の一括購入・価格安定が図られました。長崎奉行は輸入品目の検査と配分、唐人屋敷・出島の統制、通詞の管理、宗教取締り(踏絵検査を含む)を担い、中央の老中・勘定奉行と連携しました。宗教・軍事・経済を束ねる「統合的管理」がここで制度化されます。

運用の実像:四つの窓と情報・物資の流れ

長崎口(出島)では、オランダ商館中国船(唐船)が貿易を担いました。輸入は、生糸・絹織物・砂糖・薬種・香料・書籍・ガラス器・金銀細工技術・医術器具など多岐にわたり、輸出は銅・蝋・海産物・漆器・陶磁器などが主でした。阿蘭陀風説書は、商館長が年に一度江戸参府の際に提出した世界情勢報告で、欧州列強の動きやアジア情勢を幕府に伝える重要な情報源でした。こうして「外の世界のニュース」はオランダ経由で継続的に更新されました。

対馬口(朝鮮)は、対馬藩が専従窓口として朝鮮王朝との外交・通商をにないました。朝鮮通信使の来訪は国家的儀礼であり、同時に漢籍・技術・文化の流入路でもありました。米・大豆・綿布・文房具などの交易は、国境管理と文化交渉のセットとして機能します。

薩摩口(琉球)では、1609年以降、薩摩が琉球を実効支配しつつ、琉球は清への朝貢を継続するという両属の体制が維持されました。琉球は東南アジアと日本・中国の品をつなぐ中継貿易の役割を果たし、砂糖・薬材・貝紫・南方物産がもたらされました。冊封使来琉・江戸上りなどの儀礼は、王国と日本本土の文化交流の舞台でもありました。

松前口(蝦夷地)では、松前藩がアイヌとの交易を統制し、鯡・昆布・鮭・動物皮・鷹羽根などが出入りしました。18世紀にはロシアの南下が現実の脅威となり、蝦夷地経営は安政以降の対露政策とも結びつきます。アイヌとの関係は交易・労働動員・同化政策の歴史を伴い、今日では植民地性や人権の視角からの再検討が進んでいます。

規制のチューニング:新井白石の「海舶互市新例」から田沼・寛政へ

18世紀初頭、新井白石は金銀の海外流出と輸入贅沢品の増加に危機感を抱き、1715年「海舶互市新例」を制定しました。これは唐船・オランダ船の来航隻数の上限設定、輸入生糸・絹織物の数量制限、価格基準の設定、金銀の輸出制限などを含む包括的な貿易規制です。長崎の交易はこれにより一段と数量管理化し、国内市場の価格安定と財政均衡が図られました。

18世紀後半、田沼意次は重商主義的な発想で銅座・長崎会所の運用を見直し、銅の増産・輸出、蝦夷地直轄構想、南洋交易の模索など、相対的に開放的な政策を試みました。しかし天明期の飢饉・貨幣改鋳問題・政争で挫折し、寛政の改革では引き締めへ振り戻されます。いずれにせよ、18世紀の幕府は、金銀銅の国際価格や生糸相場、中国政権の変化(清朝の海禁弛緩・銀需給)に応じて、長崎口のつまみ(関門)を上げ下げする調整を繰り返していました。

北方危機と異国船:打払から「薪水給与」へ、情報の時差を埋める

18世紀末から19世紀前半にかけ、ロシア帝国の南下と太平洋海域の欧米船出現が相次ぎました。ラクスマン(1792)の根室来航、レザノフ(1804–05)の長崎来航、ゴローウニン事件(1811–13)などが続き、幕府は警備体制の再編と情報収集に追われます。1825年の異国船打払令は、通商を求めない外国船を実力で退去させる強硬策でしたが、アヘン戦争後の国際環境の変化を受けて、1842年「薪水給与令」に転換し、漂流・遭難救助と最低限の補給を認める実務路線へ移りました。ここでも、長崎口のオランダ経由情報(風説書)が政策修正の根拠となりました。

漂流民の帰還は、思わぬ知識交流の契機にもなりました。大黒屋光太夫らの漂流譚は、ロシア帝国の実態や航海術・地理知識を伝え、幕臣や学者の世界像を広げました。蘭学(解体新書・西洋医学・測量天文学)は、出島を通じて蓄積された知の結晶であり、「閉鎖」の中に開かれた知の窓が存在したことを象徴します。

開国への転回:1853–58年の条約群と体制の終焉

19世紀半ば、アメリカのペリー艦隊(1853・54)が来航し、日米和親条約(1854)で下田・箱館の開港と領事駐在が認められます。つづく安政五カ国条約(1858)で、通商と治外法権、関税自主権の制限が定まり、長崎口の独占は崩れます。幕末の開港場(横浜・長崎・神戸・新潟・函館)は国際貿易の新たなハブとなり、金銀の交換比率問題(いわゆる金流出)や、関税・租界の管理など、近代国際法の枠組みが一挙に押し寄せました。ここに「鎖国」体制は制度として幕を閉じ、明治国家の条約改正と富国強兵へ物語が引き継がれます。

評価と再定義:「閉鎖」ではなく「選択的・分業的な国際化」

総括として、「鎖国」は完全な閉鎖ではなく、選択と管理による部分開放でした。幕府は、(1)宗教と治安の管理、(2)貿易の集中と価格安定、(3)情報のフィルタリング、(4)対外危機管理、という現実的な行政目標を掲げ、国内秩序と財政を守りました。その代償として、広域海商ネットワークからの離脱、外洋航海技術の停滞、外交・国際法への制度的適応の遅れ、といったコストも抱えました。

近年の研究は、「鎖国」という言葉の持つイメージ過多を是正し、当時のアジア全域で見られた海禁・冊封・管理貿易の一類型として日本を位置づけます。中国(明・清)や朝鮮、東南アジアの諸政権も、外洋交易を危機と利益の両面から管理し、密貿易と公貿易のあいだで揺れました。日本の特徴は、四つの窓口を封建的分業(対馬・薩摩・松前)に配しつつ、長崎口で国際情報と近代科学のコアを保持した点にあります。

「鎖国」を学ぶ際は、①1630年代の禁令の連鎖、②四口による接触管理、③18世紀の数量管理(海舶互市新例)、④19世紀の北方危機と政策転換、⑤条約体制への移行、という五つの節目を押さえると全体が見通しやすくなります。地図に四口をマークし、長崎奉行所の機構図とオランダ風説書の情報フローを重ねると、〈閉ざしながら開く〉江戸の対外システムが、具体的に立ち上がってくるはずです。