「ジョージ王戦争」とは、18世紀半ばに北アメリカで戦われたイギリス領植民地とフランス領植民地の戦争で、ヨーロッパで起こっていたオーストリア継承戦争の一部(北米戦線)にあたる出来事です。時期はおおよそ1744年から1748年までで、主な舞台は現在のカナダ東部(当時のアカディア地方やケベック周辺)とニューイングランド植民地一帯でした。イギリス王としてはジョージ2世の治世にあたることから、北米ではこの戦争を「King George’s War」、日本語では「ジョージ王戦争」と呼んでいます。
この戦争では、北アメリカにおけるイギリスとフランスの植民地競争が、先住民社会をも巻き込みながら激しくぶつかりました。とくに有名なのが、現在のカナダ・ケープブレトン島に築かれていたフランスの要塞都市ルイブールを、マサチューセッツなどニューイングランド植民地軍が攻略した出来事です。一方で、国境地帯の開拓農民の村や小さな砦は、フランス軍とその同盟先住民による奇襲や略奪の脅威にさらされ、一般住民にとっては不安と暴力の時代でもありました。
最終的に、この戦争は1748年のアーヘンの和約(エクス=ラ=シャペル条約)によって終結します。その際、ニューイングランド植民地が大きな犠牲を払って占領したルイブール要塞は、ヨーロッパ側での領土調整の取引材料となり、フランスに返還されてしまいました。この決定は、北米植民地の人びとにとって大きな不満と失望の原因となり、のちのフレンチ=インディアン戦争やアメリカ独立革命へとつながる「本国と植民地の意識のズレ」を象徴する出来事の一つともなります。
以下では、まずジョージ王戦争が起こる背景と名称の由来を整理し、つづいて北アメリカでの戦闘の展開、とくにルイブール攻略戦と国境地帯の攻防を見ていきます。そのうえで、講和とその影響、北米植民地社会にとってこの戦争がどのような意味を持ったのかを、もう少し具体的にたどっていきます。
ジョージ王戦争の背景と名称の由来
ジョージ王戦争は、ヨーロッパで勃発したオーストリア継承戦争(1740〜1748年)の一部として生じた戦争です。オーストリア継承戦争は、オーストリア・ハプスブルク家の皇女マリア=テレジアの継承をめぐって、プロイセンやフランス、イギリス、スペインなど多くの国が入り乱れて争った大規模な戦争でした。ヨーロッパで大国どうしが戦えば、その影響は海外の植民地にも波及します。とくにイギリスとフランスは、北アメリカ・インド・カリブ海などで互いの植民地や海上貿易を攻撃し合う構図になりました。
イギリス側から見ると、この戦争が行われた時期はジョージ2世(在位1727〜1760年)の治世にあたります。イギリス本国では戦争全体をオーストリア継承戦争の一部として扱っていましたが、北アメリカのイギリス植民地の人びとは、自分たちが参加した戦いを区別して呼ぶ必要がありました。そこで、当時のイギリス王の名をとって、北米戦線を「King George’s War」と呼ぶようになったのです。日本語で「ジョージ王戦争」と訳すのは、この英語名を踏まえた表現です。
この時代の北アメリカでは、イギリスとフランスが、海岸地帯・川沿い・内陸の要衝にそれぞれ拠点を築きながら、毛皮貿易や農地開拓・先住民との同盟をめぐって競争していました。イギリスの植民地は主に大西洋岸に沿って細長く伸び、ニューイングランド・中部植民地・南部植民地などがありました。一方、フランスはセントローレンス川沿いのカナダ(ヌーヴェル=フランス)と、ミシシッピ川流域のルイジアナを押さえ、これらを内陸の交易路で結ぼうとしていました。
両者のあいだには、明確な国境線が引かれていたわけではありません。森林と川に覆われた広大な地域で、イギリス系開拓農民の集落とフランス系の砦・交易拠点が入り組みながら存在し、その周辺には多数の先住民部族が暮らしていました。フランスは先住民との毛皮交易と同盟関係を重視し、イギリスは人口増加を背景に農地を広げていきます。このような状況のもとでヨーロッパで新たな戦争が始まれば、北米でも緊張が高まり、小競り合いが大規模な戦闘へと発展するのは時間の問題でした。
1744年、フランスがイギリスに宣戦布告すると、北アメリカのフランス植民地政府は、イギリス植民地に対する攻撃を開始します。これに応じて、ニューイングランド植民地側も民兵や私掠船を動員し、フランスの拠点に対する攻撃や海上での拿捕を行いました。こうして、北米におけるジョージ王戦争が本格的に始まります。
ルイブール要塞攻略と海上戦の展開
ジョージ王戦争で最も知られる出来事が、1745年のルイブール要塞攻略です。ルイブールは、現在のカナダ・ケープブレトン島に位置するフランスの要塞都市で、北大西洋の重要な軍港・漁業基地・交易拠点として機能していました。分厚い石造りの城壁と砲台を持ち、「北米のジブラルタル」とさえ呼ばれるほど強固な防備を誇っていました。この要塞は、フランス艦隊の基地として、ニューイングランド沿岸と北大西洋航路を脅かす存在だったのです。
ニューイングランド植民地、とくにマサチューセッツの指導者たちは、ルイブールの存在を長年の脅威と感じていました。そこで1745年、マサチューセッツ総督ウィリアム・シャーリーは、一種の「植民地版遠征軍」を組織し、ルイブール攻略を試みることにします。この遠征軍は、イギリス本国から派遣された正規軍ではなく、主としてマサチューセッツ・コネティカット・ニューハンプシャーなどニューイングランド諸植民地の民兵と志願兵から構成されていました。
植民地軍の指揮官には、交易商かつ民兵指揮官であったウィリアム・ペッパーレルが選ばれました。彼らは、イギリス海軍の支援を受けつつ艦隊を編成し、1745年春にルイブールを包囲します。大砲や工兵技術では必ずしも本国軍に劣ったものの、包囲戦は予想外にうまく進み、周囲の砦や高地を次々と押さえ、要塞への砲撃を続けました。数週間にわたる包囲の末、守備側の士気が低下し、補給も困難になると、ついにルイブールは降伏します。
この勝利は、ニューイングランド植民地に大きな誇りと自信を与えました。自分たちが準備し指揮した軍隊で、フランスの強固な要塞を落としたという経験は、「植民地社会も本国に劣らぬ軍事能力と組織力を持つ」という認識を育てます。ルイブール占領後、植民地軍は要塞を維持しつつ、周辺のフランス拠点への襲撃や、北大西洋での海上活動も強化していきました。
一方で、戦争全体の視点から見ると、ルイブール攻略はヨーロッパの戦況と密接に結びついていました。フランス側は、北米での敗北を挽回するため、海軍力の再建と反攻作戦を計画しますが、イギリス海軍との海上戦や資金不足などもあり、大規模な奪還作戦は成功しませんでした。そのため、ルイブールは戦争期間中おおむねイギリス側の支配下に留まりました。
この時期、北大西洋やカリブ海では、イギリス・フランス双方の正規海軍に加え、私掠船が多数活動していました。私掠船とは、政府から許可状(私掠免許状)を与えられた民間船で、敵国の商船を拿捕し、その戦利品を売って利益を得る仕組みです。ジョージ王戦争のあいだ、ニューイングランドやノバスコシア(当時のアカディア)に拠点を置く私掠船は、フランス商船や漁船を標的にし、逆にフランス側の私掠船もイギリス船を狙いました。この海上戦は、商業と戦争が密接に結びついた18世紀の海洋世界の一端をよく表しています。
国境地帯の戦いと住民への影響
ジョージ王戦争は、大規模な要塞攻略や海戦だけでなく、国境地帯での小規模な襲撃と防衛戦の連続でもありました。とくにニューイングランド北部(現在のメイン州あたり)やニューヨーク植民地とフランス領カナダとの境界付近では、フランス軍とその同盟先住民による奇襲が頻発し、小さな砦や村落が攻撃目標となりました。
フランス側は、ミクマク、アベナキなど東北部の先住民部族と同盟関係を結び、彼らの機動力と土地勘を生かして国境地帯のイギリス植民地集落を襲撃させました。冬の夜や早朝に突然村を襲い、家屋を焼き払い、住民を殺害したり捕虜として連れ去ったりするこの種の戦いは、ヨーロッパ式の正面戦とは異なる「森林の戦争」として恐れられました。捕虜となった人びとの一部は、フランスの砦や先住民の村に連れて行かれ、のちに身代金や捕虜交換によって解放されることもあれば、そのまま現地社会に同化する例もあったと伝えられています。
イギリス側も、防衛と報復のために民兵と先住民同盟者を動員しました。開拓農民は、畑仕事や日常生活の合間に銃を取り、小さな砦(ガリソンハウス)に避難したり、周辺の警戒に当たったりしました。子どもや女性を含む一般住民は、いつ襲撃が来るか分からない不安のなかで暮らしており、村の外れに出ることさえ命がけになることもありました。こうした恐怖の経験は、当時の説教や日記、回想録にも生々しく記録されています。
このような国境地帯での戦いは、単にイギリスとフランスという二大勢力の代理戦争ではなく、先住民社会にとっても生存戦略の一部でした。先住民たちは、自らの土地と生活を守るため、あるいは他部族との競争や軍事的優位を得るために、時にフランス側に、時にイギリス側に与しました。しかし、ヨーロッパ列強の勢力争いが激しくなるにつれて、先住民は次第に自律性を失い、戦争の被害者としての側面を強めていきます。ジョージ王戦争の時期も、その過程の一局面として位置づけることができます。
また、この戦争は、アカディア(現在のノバスコシア周辺)地域にも大きな影響を与えました。アカディアにはフランス系カトリック住民(アカディア人)が多く暮らしており、イギリス・フランス両勢力の間で微妙なバランスを取りながら生活していました。ジョージ王戦争のあいだ、アカディアは度々戦闘の舞台となり、要塞や港町が攻撃されました。この地域はのちの七年戦争期に、大規模なアカディア人追放(ル・グラン・デランジュマン)を経験しますが、その伏線として、ジョージ王戦争の緊張があったと見ることもできます。
国境地帯の住民にとって、ジョージ王戦争は遠いヨーロッパの王位継承問題とは無関係に、「隣の森からいつ敵が現れるか分からない日常の恐怖」として刻まれました。ある家は息子を民兵として戦場に送り出し、別の家は襲撃で家族を失い、また別の家は捕虜交換で久しぶりに家族と再会する――そのような個々人の物語が積み重なって、この戦争の実像が形づくられていきました。
アーヘンの和約とその後の北米世界
ヨーロッパのオーストリア継承戦争が膠着状態に陥る中で、列強諸国は講和交渉を進め、1748年にアーヘンの和約(エクス=ラ=シャペル条約)が結ばれました。この条約では、ヨーロッパでの領土配分や王位継承問題が調整されるとともに、植民地における戦果も処理の対象となりました。北米に関して重要だったのは、ニューイングランド植民地が占領していたルイブール要塞を、フランスに返還することが決められた点です。
イギリス政府は、ヨーロッパでオーストリア継承戦争を終わらせるにあたって、オーストリア・プロイセン・フランスなどとの複雑な利害調整を余儀なくされていました。その中で、北米の一要塞であるルイブールは、大きな交渉材料のひとつとして扱われました。イギリスは他の地域でのメリットを得る代わりに、ルイブールをフランスに返還することを容認したのです。ロンドンの政治家たちにとっては、世界各地を視野に入れた「大きな取引」の一部だったかもしれません。
しかし、ニューイングランド植民地の人びとにとって、この決定は納得しがたいものでした。彼らは自らの資金と兵力を投じ、多くの犠牲を払ってルイブール攻略を成し遂げたにもかかわらず、その成果が本国政府の判断であっさりとフランスに返されてしまったからです。この経験は、「イギリス本国は植民地の努力と犠牲を十分に尊重していないのではないか」という不信感を生み出し、やがてアメリカ植民地社会の中で広がっていく「本国と植民地の距離感」を象徴する出来事となりました。
アーヘンの和約は、北米に一時的な平和をもたらしましたが、イギリスとフランスの競争を根本的に解決したわけではありません。むしろ、両国はその後も内陸部での交易路や砦の建設、先住民との同盟をめぐって静かな競争を続けました。とくにオハイオ川流域など、アパラチア山脈の西側内陸地帯は、イギリス・フランス・先住民の利害が交錯する新たな火種となっていきます。
ジョージ王戦争から約10年後、1754年には、オハイオ地方での小さな武力衝突をきっかけに、北米で再びイギリスとフランスの戦争が始まります。これが「フレンチ=インディアン戦争」と呼ばれる戦争で、ヨーロッパでは七年戦争として知られる世界規模の戦争の一部です。フレンチ=インディアン戦争では、イギリスが最終的に北米での優位を確立し、カナダを含む広大なフランス領を獲得しますが、その過程で、アメリカ植民地社会とイギリス本国の関係はさらに複雑なものとなっていきます。
ジョージ王戦争は、その一つ前の段階として、イギリスとフランスの植民地競争がどのような形で現れたのか、そして北米植民地の人びとが戦争にどう巻き込まれ、どのように動いたのかを具体的に示してくれます。ニューイングランドの民兵が遠征軍を組織してルイブールを攻略したこと、国境地帯の開拓農民と先住民が森の中で小競り合いを続けたこと、そしてその成果や苦しみがヨーロッパ側の「大きな政治」の中でしばしば軽視されたこと――こうした点を思い浮かべると、「ジョージ王戦争」という一見地味な戦争も、後の歴史へのつながりを持った重要な一章として見えてきます。

