ジョージア – 世界史用語集

「ジョージア」とは、コーカサス地方に位置する共和国で、旧ソ連構成国のひとつです。日本語ではかつて「グルジア」と呼ばれていましたが、現在は政府の要請により「ジョージア」という国名表記が一般的になっています。黒海の東岸に面し、北にはロシア、南にはトルコ・アルメニア・アゼルバイジャンと接しており、ヨーロッパとアジアの境界にあたる地域に位置する国です。古代から多くの民族と帝国が行き交ったこの地では、独自の言語と文字、古いキリスト教文化、そしてワイン造りの伝統などが発達し、他地域とはひと味違う個性豊かな世界が広がっています。

歴史的には、古代のコルキス王国やイベリア王国、中世の「グルジア王国」といった名称で知られ、12〜13世紀には黄金期を迎えてコーカサス一帯で大きな影響力を持ちました。しかし、その後はモンゴルの侵攻やオスマン帝国・ペルシア(イラン)勢力の圧力、ロシア帝国の進出など、外部勢力の影響を強く受けるようになります。19世紀にはロシア帝国の一部となり、20世紀にはソ連を構成するグルジア・ソビエト社会主義共和国として組み込まれました。1991年のソ連崩壊にともなって独立を回復したのちも、国内の民族問題やロシアとの関係、とくにアブハジア・南オセチア問題をめぐって緊張が続いています。

一方で、ジョージアは文化や日常生活の面では非常に魅力的な国でもあります。世界最古級ともいわれるワイン造りの伝統、ポリフォニー(多声部)合唱に代表される音楽、独特の書体を持つグルジア語、山岳地帯に点在する古い教会や要塞など、多彩な文化遺産があります。首都トビリシは、東西交易路の要衝として栄えた歴史を反映し、ヨーロッパ風の街並みとオリエンタルな雰囲気が混じり合った独特の空気をまとっています。近年は観光地としても注目され、コーカサス山脈の自然やワインツーリズムを目当てに世界各地から人びとが訪れています。

以下では、まずジョージアの地理と民族・言語的特徴を確認したうえで、古代から現代までの歴史の流れをたどります。その後、ソ連時代と独立後の政治・対外関係、そして文化・宗教・ワインなどの生活文化にふれながら、「ジョージア」という国のイメージをより立体的に理解していきます。

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地理・民族・言語としてのジョージア

ジョージアは、黒海の東岸に位置し、北には高く険しい大コーカサス山脈が連なっています。北側にロシア連邦、東にアゼルバイジャン、南にアルメニアとトルコ、西に黒海という位置関係です。このため、古代からコーカサス地方は、ヨーロッパ世界と中東・中央アジア世界を結ぶ「十字路」として、多くの民族と文明が交差する地域となってきました。ジョージアの国土は、山がちで谷が深く、地域ごとに地形や気候が異なるため、多様な文化や生活様式が生まれやすい土地柄でもあります。

人口の多数を占めるのはグルジア人(ジョージア人)で、自称を「カルティ(カルトヴェリ)」と呼びます。彼らは、インド・ヨーロッパ語族でもチュルク語でもない、カルトヴェリ語族と呼ばれる独自の言語系統を持っていることが特徴です。ジョージア語は固有の文字を持ち、その優雅な曲線的書体は世界でもまれな美しいアルファベットとして知られています。ジョージア語の文字には歴史的にいくつかの書体があり、宗教文書などに用いられてきました。

宗教面では、ジョージア正教会が圧倒的多数の人びとの信仰を集めています。ジョージアは4世紀初頭にはキリスト教を受け入れたとされ、アルメニアと並んで「最も早期にキリスト教国家となった国」のひとつとされています。ジョージア正教は東方正教会系の教会でありながら、独自の伝統と典礼を持ち、山岳地帯や谷間に建つ古い教会や修道院は、ジョージアの風土と精神文化を象徴する存在になっています。

また、国内にはアルメニア人、アゼルバイジャン人、ロシア人などの少数民族も暮らしており、ソ連時代からの移住や歴史的経緯によって多民族性を持った地域もあります。アブハジアや南オセチアなどの地域には、独自の民族・言語集団が存在し、それが近年の政治的対立の背景の一つになっています。このように、ジョージアは地理的・歴史的条件から、民族や言語のモザイク状の構造を抱える国でもあります。

古代・中世のジョージア―コルキスからグルジア王国へ

ジョージアの地は、古代にはギリシア神話の世界にも登場します。たとえば、アルゴー船のイアソンが金羊毛を求めて向かった「コルキス」は、現在のジョージア西部に比定されることが多く、古代ギリシア人にとっても「世界の東の果て」の一つとしてイメージされていました。この地域には、黒海沿岸のコルキス王国や、内陸のイベリア王国(カルトリ王国と呼ばれることもある)など、いくつかの王国が存在していたとされています。

古代ローマやペルシア(サーサーン朝)とのあいだで、この地域の王国はしばしば勢力争いの舞台となりましたが、地元の支配者たちは巧みに両者の間を立ち回りながら一定の自立性を保とうとしました。4世紀ごろには、カルトリの王ミリアン3世がキリスト教を受容したと伝えられ、以後ジョージア地域は東方キリスト教世界の一角として歩み始めます。山岳地帯に建てられた修道院や教会は、信仰と学問の拠点として機能し、ジョージア語の文献や歴史書もこの時期から整備されていきました。

中世に入ると、10〜12世紀にかけてジョージアは一時的な統一と黄金期を迎えます。バグラティオニ朝のもと、さまざまな地域勢力が統合され、「グルジア王国」としてコーカサス地方で強い影響力を持つようになりました。特に12世紀の女王タマルの時代は文化・軍事ともに最盛期とされ、黒海沿岸や現在のアルメニア・アゼルバイジャンの一部にも勢力を伸ばしました。この時代の教会建築や写本、芸術作品は、今日でもジョージアの「黄金期の遺産」として高く評価されています。

しかし、13世紀になるとモンゴル帝国の侵攻が始まり、ジョージア王国もその支配下に入ります。モンゴル支配のもとで王権は弱体化し、さらにその後はティムール(ティムール朝)の侵攻や、オスマン帝国・サファヴィー朝イランといった周辺大国の圧力を受けるようになりました。17〜18世紀には、グルジアの諸王国・公国が分立し、トルコやイラン、ロシアといった大国に挟まれながら苦しい外交を強いられます。

このような困難な環境の中でも、ジョージアの人びとは自らの言語と正教信仰、王権の伝統を守ろうとしました。外部勢力による支配のもとで、教会や修道院は民族アイデンティティの拠点として重要性を増し、文学や年代記にも「ジョージアという共同体」を意識した記述が見られるようになります。のちのナショナリズムの芽生えは、こうした中世末〜近世の経験と深く結びついています。

ロシア帝国・ソ連時代から独立へ

18世紀末から19世紀初頭にかけて、コーカサス地方に大きく進出してきたのがロシア帝国です。ジョージアの一部の支配者は、オスマン帝国やイランの圧力から身を守るために、ロシアとの保護条約を結びましたが、その結果としてロシアによる併合が進み、最終的にはジョージア地域の諸王国・公国はロシア帝国の直轄領となりました。こうして、ジョージアは19世紀を通じて、ロシア帝国の南部辺境として位置づけられることになります。

この時期、ジョージアの都市トビリシは、ロシア帝国のコーカサス支配の中心都市として整備されました。一方で、19世紀後半にはロシア帝国の支配に対する不満も高まり、知識人や作家のあいだで民族意識が目覚めていきます。ジョージア語文学や歴史研究が盛んになり、「ジョージア人としてのアイデンティティ」を問い直す動きが広がりました。

1917年のロシア革命後、ジョージアは一時的に「グルジア民主共和国」として独立を宣言しますが、1921年には赤軍の侵攻を受け、ソビエト政権が樹立されます。その後、ジョージアはトランスコーカサス社会主義連邦ソビエト共和国を経て、ソ連を構成するグルジア・ソビエト社会主義共和国となりました。ソ連時代には、工業化や教育の普及など近代化が進む一方、宗教活動や民族主義的運動は厳しい統制を受けました。

興味深いことに、ソ連指導者ヨシフ・スターリンはジョージア出身で、若いころにはジョージア正教の神学校に通っていたこともあります。スターリンの台頭により、ジョージアは一時的にソ連内で特別な影響力を持つ地域ともなりましたが、そのことが必ずしも地元の人びとにとって幸福な結果をもたらしたわけではありません。スターリン時代の粛清や強制移住政策は、ジョージアを含む多くの地域社会に大きな傷を残しました。

1980年代後半、ソ連のペレストロイカ(改革)の流れの中で、ジョージアでも民族運動や民主化運動が高まりました。トビリシでは独立を求めるデモが行われ、1989年にはソ連軍による武力弾圧(トビリシ事件)も起きています。1991年、ソ連崩壊の過程でジョージアは独立を宣言し、「グルジア共和国」として国際社会に認められました。これが現代ジョージアのスタートです。

独立後の政治・対外関係と地域紛争

独立後のジョージアは、民主化と市場経済への移行を進めようとしましたが、その道のりは平坦ではありませんでした。国内では、アブハジアと南オセチアという二つの地域で分離独立をめぐる紛争が発生し、内戦状態となります。これらの地域には、それぞれアブハズ人・オセット人などの民族グループが居住しており、ソ連時代の自治制度や人口移動の歴史がからんで複雑な対立構造を生んでいました。

1990年代には経済状況も悪化し、独立の高揚感とは裏腹に、停電やインフラ不足、失業の増加など、国民生活は厳しい状況に置かれました。その後、2003年には選挙不正への抗議をきっかけに「バラ革命」と呼ばれる政変が起こり、若い親欧米派のサーカシビリ政権が誕生します。サーカシビリ政権は、汚職対策や行政改革をすすめ、経済の立て直しやインフラ整備に取り組みました。同時に、NATOやEUへの接近をはかり、西側への傾斜を強めました。

しかし、この路線はロシアとの対立を激化させる結果ともなりました。とくにアブハジアと南オセチアをめぐっては、ジョージア政府と分離派勢力、そしてそれを支援するロシアとの間で緊張が続き、2008年には南オセチアをめぐる戦争が勃発します。短期間の軍事衝突ののち、ロシアは南オセチアとアブハジアの独立を承認し、軍を駐留させましたが、多くの国はこれを認めていません。この問題は現在もジョージアとロシアの関係、さらにはヨーロッパの安全保障をめぐる大きな争点の一つです。

ジョージアは、こうした困難な状況にありつつも、EUとの連合協定締結やビザ自由化などを通じて、ヨーロッパとの結びつきを深めようとしています。国内政治も、与野党の政権交代や選挙を通じて、少しずつ民主主義的なプロセスを整えつつありますが、依然として政治対立は激しく、経済格差や失業、地域間の不均衡など多くの課題を抱えています。

文化・宗教・ワインの国ジョージア

政治や国際関係の複雑さとは別に、ジョージアは文化面で非常に魅力的な側面を持っています。その象徴の一つがワインです。考古学的調査によれば、ジョージア一帯では非常に古い時代からブドウ栽培とワイン造りが行われており、「ワイン発祥地」の一つと見なされています。伝統的なジョージアのワイン造りでは、「クヴェヴリ」と呼ばれる大型の素焼きの壺を土中に埋め、その中で発酵・熟成させる独特の方法が用いられてきました。この製法はユネスコの無形文化遺産にも登録されています。

ジョージアでは、ワインは単なる酒ではなく、宗教儀礼や家庭の食卓、友人との宴席など、社会生活のあらゆる場面で重要な役割を果たします。宴席では「タマダ」と呼ばれる祝宴の司会役が長い祝詞(トースト)を述べ、参加者が順に杯を重ねるという伝統的なスタイルが今も続いています。ワインとともに供される料理も多彩で、クルミやハーブ、チーズなどをふんだんに使った家庭料理は、多くの旅行者を魅了しています。

音楽や舞踊も、ジョージア文化の大きな魅力です。ジョージアの伝統音楽には、多声部合唱(ポリフォニー)が発達しており、独特のハーモニーとリズムを持つ歌が各地で歌い継がれています。これもまたユネスコ無形文化遺産に登録されている文化要素です。民族舞踊は、男性が鋭いステップとジャンプを繰り返し、女性が滑るように優雅に動くという対照的なスタイルが特徴で、民族衣装とあわせて強い印象を残します。

宗教建築の面では、山の尾根や谷間に建つ中世の教会や修道院が観光の目玉となっています。岩山をくり抜いた洞窟修道院群、山岳地帯の防御塔と教会が一体となった集落など、厳しい自然環境と信仰が織りなす風景は、ジョージアならではのものです。これらの遺産は、長い歴史の中で外敵にさらされながらも、信仰と共同体を守り抜いてきた人びとの生き方を物語っています。

このように、「ジョージア」という国は、地政学的には大国に挟まれた小国として多くの試練に直面してきましたが、同時に、独自の言語・宗教・文化を守り育ててきたしたたかな社会でもあります。世界史の中でジョージアを学ぶことは、帝国と小国、中心と周縁、伝統と近代化、信仰と国家といった多くのテーマを考える手がかりを与えてくれます。そして、教科書上の一行の地名としてではなく、「具体的な人びとが暮らす場所」としてイメージすることで、コーカサスという地域への理解もぐっと深まっていきます。