「回教(かいきょう)」は、近代以前から20世紀半ばごろまで日本や中国語圏で用いられたイスラーム(イスラム教)の旧称で、中国語の「回回教(回教)」に由来します。ここでの「回(回回)」は、ユーラシア東部でイスラームを信仰した人びと、とくに元・明・清代の中国に居住したムスリム共同体を指した外名で、現代中国の民族呼称「回族」につながる語です。したがって「回教」は、宗教としてのイスラームと、東アジアにおけるムスリム集団(回回・回族)の歴史経験が重ね合わさった語彙でした。今日の日本語では、宗教名としては「イスラーム(教)」「イスラム教」を用いるのが一般的で、「回教」は歴史を説明する場面や史料の引用として限定的に用いられるのが適切だとされています。本稿では、旧称「回教」の由来と用法、東アジアにおけるムスリムの歴史、宗教としてのイスラームの基礎、そして現代の言葉遣いの注意点を、できるだけ平易に整理します。
語源と用法の変遷—「回回」「回教」とは何か
「回回」は、中国史料に現れるムスリムの外名で、起源については諸説あります。シルクロード・中央アジア経由で往還する(回る)商人や使節に由来する説、ウイグル(回鶻)やホラズム(花剌子模)などの名称と混同された説、アラビア語・ペルシア語の発音を漢字音写した説などが知られます。宋代から元代にかけて西域出身のムスリム商人・学者・天文学者・医師が多数中国に来住し、元代には「色目人(セム)」と総称され、行政・軍事・学術で重要な役割を担いました。彼らの信仰と共同体を指す語として「回回」「回回教」が定着し、明・清代には各地に清真寺(モスク)と「回民街」が形成されます。
日本語での用法は、江戸期の漢籍受容を通じて伝わり、明治以降は新聞・外交文書・地理書で「回教」「回民」「回教徒」などの表記が広まりました。たとえば「回教世界」「回教徒の勤行」といった言い回しは、当時の地誌や宗教紹介で一般的でした。ただし、この語には東アジアの視点からの外名という性格があり、宗教の自己名称(イスラーム/ムスリム)とはずれが生じます。戦前・戦中の日本の対イスラーム政策やプロパガンダでも「回教圏」「回教徒」という語が多用されましたが、戦後の学術と報道では当事者名称を尊重して「イスラーム(教)」「ムスリム」に置き換える流れが強まりました。
現代の日本語では、差別的意図がなくとも、当事者の自己呼称と異なる外名を用いることが誤解や違和感を生みやすいため、一般的な文脈では「イスラーム(教)」、信徒については「ムスリム(イスラム教徒)」を用いるのが望ましいとされます。他方で、史料引用や歴史叙述では、原文に忠実に「回教」「回民」「回教徒」を記すことがあります。その場合は、注記して現代語の対応を示す配慮が丁寧です。
東アジアにおけるムスリム—中国の回族と「回回」の歴史
東アジアにおけるムスリムの歴史は、交易と帝国の拡張に密接に結びついています。唐代から宋代にかけて、広州・泉州・杭州などの港市にはアラブ・ペルシア系の商人が居留し、清真寺(礼拝堂)と墓地が営まれました。宋元期には海路・陸路の双方向でイスラーム商圏と中国が濃密に接続し、元代には天文学・暦法(『回回暦』とも呼ばれるイスラーム天文学の導入)や医薬・軍事技術にムスリムが参画します。都市には「礼拝寺(礼拝寺院)」やハラール(清真)食の供給網が整い、華語を話しつつイスラームの戒律を守る共同体が形成されました。
明清期には、中央アジア・雲南・甘粛・陝西・山西・寧夏・青海・新疆などに回族(ムスリム漢語話者)の定住が進み、行商・畜産・食肉・染織・回族料理の専門職が地域経済を支えました。各地のモスク(清真寺)は礼拝のみならず教育・仲裁・相互扶助の役割を担い、ハナフィー法学(スンナ派の主要学派)の影響を受けつつ、儒教的倫理や漢文教養と折衷した宗教教育(経堂教育)も発達しました。ただし、国家との関係は一様ではなく、雲南・陝甘などでは18〜19世紀に大規模な回民蜂起が頻発し、地域統治や資源・税負担、宗教的自治をめぐる緊張が高まりました。清末民初期には、回族エリートが軍政・教育に参加し、イスラーム改革運動(ハディース重視・教育近代化)やハッジ(巡礼)を通じた西アジアとの往来が活発化します。
現代中国では、回族は国家が定める55の少数民族の一つとして位置づけられ、新疆のウイグル族など他のムスリム諸民族とともに多層的なイスラーム文化を担っています。都市のハラール市場、金曜礼拝、断食月(ラマダーン)、犠牲祭(イード・アル=アドハー)、婚姻や葬礼の作法など、地域ごとに多様性を保ちながら、公共空間との調整が続いています。この長い文脈の中で、「回教」という語は、宗教と民族が重なった歴史経験を指し示すラベルとして機能してきました。
宗教としてのイスラームの基礎—信仰・実践・共同体
旧称の事情を理解したうえで、宗教としてのイスラームの骨格を簡潔に整理します。イスラームの中心は、一神教の徹底(タウヒード)です。唯一神アッラーへの信仰と、ムハンマドを最後の預言者とする教えが根幹にあり、聖典クルアーン(コーラン)と預言者の言行(スンナ)が信仰と規範の源です。日々の実践としては、信仰告白・礼拝・喜捨・断食・巡礼の「五行」が広く共有され、生活規範としてはハラール(許容)・ハラーム(禁止)の区分、利子禁止、清浄規定、婚姻・相続のルールなどが知られます。
法と学問の伝統では、スンナ派(ハナフィー、マリキー、シャーフィイー、ハンバリーの四法学派)とシーア派(十二イマーム派など)が大きな分岐で、神秘主義(スーフィズム)は各地で修行・音楽・詩の豊かな文化を生んできました。政治体制や文化は地域差が大きく、アラブ・ペルシア・トルコ・インド・マレー・西アフリカ・東アフリカ・中国の各文明圏で、モスク建築、法実務、食文化、音楽、衣装、学問の様式がそれぞれに花開きました。イスラームは単一の様式ではなく、共通の信仰枠の中に多様性を抱える「大きな天幕」のような伝統です。
歴史的な広がりは、商業と学知のネットワークとともに進みました。7世紀にアラビア半島で成立して以後、中東・北アフリカ・中央アジア・南アジア・東南アジアへと拡大し、紅海・インド洋・南シナ海のムスリム商人が港市の社会をつなぎました。東南アジアのマラッカやアチェ、ジャワ、ミンダナオ、さらには中国の泉州・広州などの港湾都市では、ムスリム商人の居留と婚姻を通じて信仰が根付き、王権・イスラーム法学・教育が地域に根を下ろしました。
日本と「回教」—用語の受容、交流、建築と共同体の足跡
日本でイスラームが体系的に紹介されるのは、明治以降です。地理・宗教・国際政治の文献で「回教」の語が広まり、清末民初の漢文資料・英独仏語の研究書の翻訳が重なって一般化しました。大正期以降は、オスマン帝国末期の政治、インド独立運動、中央アジア・ロシア革命後のタタール系移民との交流が関心を高め、戦間期には東京・名古屋・神戸などにムスリム移住者の小共同体が形成されます。1938年に竣工した東京ジャーミイ(現・東京ジャーミイ・トルコ文化センター)は、その象徴的遺産で、祈りの場であると同時に、建築・装飾・音楽・言語を通じてイスラーム文化を紹介する場となっています。
戦前の日本政府・軍は、対英米戦の文脈で「回教圏」への宣伝・外交を重視し、学者・宣教師・軍人・外交官が複雑に関与しました。この過程で「回教」「回教圏」の語は一層広がりますが、同時に当事者の多様性が単純化され、宗教と民族が混同される弊も生じました。敗戦後、言論と学術の再編とともに、宗教の自己呼称を尊重する立場から「イスラーム」「ムスリム」という語が普及し、報道・教科書・学術書でも切り替えが進みます。現在の日本でも、在日ムスリムの人口は増加傾向にあり、礼拝所・ハラール対応・学校教育・地域交流など、生活と信仰の調整が具体的課題として進行しています。
言葉遣いの注意と学びのポイント—旧称をどう扱うか
歴史用語として「回教」を扱う際は、三つの配慮が有益です。第一に、語の来歴を明確にすることです。「回教」が中国語の「回回教」に由来し、東アジアにおけるムスリム集団(回回・回族)と重なって用いられた外名であることを説明し、宗教の自己呼称「イスラーム/ムスリム」との差を示すと、読者の誤解を防げます。
第二に、歴史資料の文脈を尊重することです。近代の新聞記事や外交記録、旅行記、戦前の学術書は「回教」「回民」を一般呼称として用いています。引用や要約の際は原表記を示し、必要に応じてかっこ書きで「(イスラーム)」と補注すれば、資料の素性と現代的理解の両方を保てます。
第三に、当事者の多様性を見落とさないことです。「回教徒」「回民」という一括りは、スンナ派・シーア派・スーフィー、法学派の違い、地域と民族言語の差、都市と農村の信仰実践、国家と宗教指導者の関係などを覆い隠しがちです。イスラーム世界は単一ではなく、歴史と地理によって姿を変える分厚い文化圏です。東アジアのムスリム(回族・ウイグル・カザフ・タタール・南海ムスリム)もまた多様で、宗教生活と民族・言語・職業・地域の要素が交差しています。
今日の学習・交流の場では、呼称の選択は相互尊重の小さな一歩です。「回教」は歴史的語彙として位置づけ直し、一般的な宗教名としては「イスラーム(教)」、信徒名としては「ムスリム(イスラム教徒)」を用いるのが無難です。そのうえで、史料・建築・料理・音楽・暦・法・教育といった具体的な窓から、イスラームの多様な世界に触れると、旧称に閉じない立体的な理解が得られます。
総じて、「回教」という言葉は、東アジアから見たイスラームの歴史的影を映す鏡でした。交易・学知・移民の往来、帝国と国家、宗教と共同体、外名と自己名—これらが交錯する中で、言葉は時に誤解を生み、時に橋にもなりました。旧称の背後にある人びとの生活と祈り、都市と砂漠、海と隊商路の記憶をたどるなら、現代の私たちは、より適切な言葉を選びながら、豊かな他者理解へと歩みを進めることができるはずです。

