サカ族(Saka)は、古代ユーラシア草原に広がったイラン系遊牧民の総称で、ギリシア・ローマの文献にいう「スキタイ(Scythai)」と広く重なり合う存在です。アケメネス朝ペルシアの王碑は彼らを一括して「サカ」と呼び、地域や生活形態の違いによって複数の区分名(例:haumavargā=ハオマ飲用のサカ、tigraxaudā=尖帽のサカなど)を与えました。騎馬と複合弓、移動式住居、草原の交易・略奪・傭兵としての機能、そして動物文様(アニマル・スタイル)に彩られた工芸と墳墓(クルガン)文化は、黒海北岸から中央アジア・アルタイ・タリム盆地へ連なる広大な帯を共有しています。東方では月氏や匈奴、西方ではサルマタイやギリシア・ペルシア世界と境を接し、南方へはバクトリア・ガンダーラ・インド北西部にまで進出して「インド・スキタイ(インド・サカ)」の王権を打ち立てました。以下では、呼称と史料、社会と生活、考古学と美術、移動と政治史の四つの窓から、サカ像を丁寧に描き直します。
呼称・史料・分布:ペルシア碑文の「サカ」とギリシアの「スキタイ」
「サカ」は、アケメネス朝の楔形文字碑文(ベヒストゥン碑文ほか)に頻出する民族名称です。ペルシア王たちは、王の支配に服する周辺諸族の中にサカを明確に位置づけ、貢納・兵役・討伐の記事と結びつけて記録しました。そこでは、例えばハオマ(ソーマ)を宗教儀礼に用いる群、尖った高帽(尖頭帽)をかぶる群、さらには海の彼方(東方の草原)にいる群など、地理・風俗・装束で見分けられます。ギリシア語史料では「スキタイ」がより包括的な傘の語として使われ、黒海北岸の遊牧民を中心に、東方の諸族までを緩やかに覆います。古典古代世界の観察者にとって、彼らは「弓騎兵の民」であり、「遊牧」「交易」「傭兵」「略奪」という多面的機能をもつ周縁のプレイヤーでした。
分布は時代とともに変動します。西ではドニエプル・ドン以東の草原地帯、中央ではアラル海・シルダリヤ・アムダリヤ流域、東ではセミレチエ(七河)、ジュンガリア盆地、アルタイ・サヤン山麓、さらにタリム盆地のオアシスにまで、サカ系の出土品・墓制・人骨・碑文が追跡できます。民族名は固定的なシールではなく、権力の興亡・移動・同化・連合のたびに重層化しました。ヘロドトスの語るマッサゲタイ、サルマタイとの境界は、実地の接触と観念上の総称が混じる領域で、現代研究は考古学・言語学・DNAの三位一体で輪郭を描き直し続けています。
言語の面では、サカは東イラン語群に属すると推定され、仏教文書で知られるコータン・サカ語(タリム盆地南縁)などの資料が、その末裔的系譜を伝えます。人名・王号・地名に残るイラン語要素は、アケメネス朝の行政用語やヘレニズム期の貨幣銘文とも共鳴します。
社会・生活・宗教:騎馬民の技術と草原の倫理
サカの基底は、騎馬と家畜群(馬・羊・ヤギ・牛・ラクダ)に支えられた移動生活です。季節移動(トランスヒューマンス)に応じて牧草地を転々とし、フェルトと木骨の可搬式住居(のちのユルト型に連なる骨組)で生活しました。女性・子どもを含む家族単位の移動が基本で、冬営地・夏営地の循環は、家畜の再生産と交易の季節リズムを決めます。衣服は毛皮・フェルト・皮革が中心で、騎乗を妨げないズボン(袴)と長靴が標準装備でした。尖頭帽や三角帽は身分・軍事単位の識別に役立ち、王侯は金具・宝飾で威信を示します。
軍事技術では、反りの強い複合弓(木・角・腱の積層)と短い合板柄の槍、アイソクリティックな騎射(走りながらの背面射、いわゆる「パルティアン・ショット」)が核です。近接戦闘ではサーベル状の刀、長柄槍、時代が下ると重装騎兵(カタフラクト)も登場し、鎖帷子や鱗鎧を用います。馬具の改良(鐙の普及はさらに後世だが、鐙以前の鞍・腹帯・胸繋の工夫)は、弓騎兵の安定性を高めました。戦争は略奪・威信・家畜・水場の確保と結びつき、同時に交易と傭兵契約は重要な収入源でした。
社会組織は氏族・部族の重層からなり、首長・王侯は戦利と分配の能力で支持を得ます。墳墓の規模や副葬品は、富の集中と政治的地位の可視化装置でした。女性戦士像は、ギリシア神話のアマゾン像と結びつけて語られがちですが、実際に女性の埋葬から武器が出土する例もあり、家父長的秩序と軍事共同体の重なりは地域ごとに幅があります。
宗教・儀礼では、火と太陽、祖先祭祀、そして飲料ハオマ(ソーマ)に関わる儀礼が各所で記録され、イラン系宗教の広がりと土着の自然崇拝が重なります。葬送では、木室・丸木棺・石室を備えたクルガン(盛土墳)が標準で、馬の殉葬、金製・フェルト製の装飾、肉塊・乳製品の供献が確認されます。死者が草原を走り続けるための馬具・武器の副葬は、来世観と戦士倫理を映します。
考古学と美術:パジリクからイシクへ—動物文様の世界
サカ文化を具体に見せるのは、凍土や高地乾燥地に保存された墳墓群です。アルタイのパジリク墳墓群では、凍結状態で保存されたフェルト敷物、刺繍、入れ墨の人物皮膚、馬具、戦車が見つかり、鮮烈な赤・金・黒の配色と動物闘争文(鹿・虎・鷲・グリフォン)が、草原の想像力を語ります。カザフスタンのイシク(エシク)古墳からは、「黄金の人(ゴールデン・マン)」として知られる若き王侯の全身黄金装束が出土し、尖頭帽・金箔の鹿・雪豹・鳥のモチーフが、王権と自然の力の結合を象徴します。アルジャン、タスクルガン、サラズム周辺の出土品も、地域差と共通性を浮かび上がらせます。
美術様式の核は「アニマル・スタイル」です。疾走する鹿の巻角、猛禽が草食獣に爪を立てる瞬間、交錯する獣の身体。これらは単なる自然写生ではなく、草原の世界観—捕食と循環、力と威信、護符としての動物—を凝縮した記号でした。金製のプレート・ベルト金具・馬具装飾・鏃・杯にまで彫金・打ち出し・象嵌が施され、携帯品が同時に権力の可視化装置となりました。フェルトと木工、革細工の高度な技術は、可搬性と耐久性の両立を目指した合理性の産物でもあります。
交易の証拠も豊富です。ギリシア・バクトリアの貨幣、アケメネス風のモチーフ、中国系の絹片、インダス・ガンダーラ由来の玉・ガラスは、オアシスと草原の「縦糸(隊商路)と横糸(牧地移動)」が織りなすネットワークを物語ります。草原は「空白」ではなく、情報と物資が高速で循環する回廊でした。
移動・接触・政治史:ペルシアの周縁からインド・スキタイへ
アケメネス朝は、北東境でサカとたびたび接触・交戦し、時に傭兵として取り込みました。クセルクセスの軍中に弓騎兵として従軍したサカの姿は、浮彫や碑文に刻まれています。東方では、紀元前2世紀以降、匈奴の圧力と月氏の移動が草原世界の人口地図を揺らし、フェルガナ・ソグディアナ・バクトリアで勢力の再編が起こります。この過程で、サカ系の一派がインド北西部に進入し、いわゆる「インド・スキタイ(インド・サカ)」の王朝群を樹立しました。彼らはパルティア系支配者やクシャーン(大月氏系)と競合・融合しつつ、ガンダーラ・シンド・グジャラートなどで在地勢力と政略結婚・貨幣発行・宗教保護(仏教・ヒンドゥー・ゾロアスター)を通じて正統性を確立します。
インド・スキタイの著名な王として、マウエス(Maues)、アゼス1世・2世(Azes)らが知られ、貨幣銘文にギリシア語・カローシュティー文字が併記される複言語環境が見て取れます。西インドでは「西方クシャトラパ(西方太守)=西方サトラップ」の称号で知られるサカ系太守家が、1~4世紀にかけて長く存続し、交易都市の保護と寺院造営で地域社会を支えました。今日のインドの公式暦「シャカ紀元(Saka Era, 78年起点)」は、その起源をめぐって議論が残るものの、在地の政治文化にサカの名が深く刻まれた事実を象徴します。
北西域では、サカはしばしばパルティア(アルサケス朝)・後のサーサーン朝、さらにクシャーンと三つ巴の関係に置かれ、傭兵・婚姻・同盟のたばで生き延びました。東方では、オアシス都市(コータン・ヤルカンド・カシュガル)にサカ系の言語共同体が形成され、仏教文献や行政文書が残ります。これらはやがて、突厥・吐蕃・唐の時代に再編されますが、草原—オアシス—山地の連結という地理の骨格は、中世イスラーム期に至るまで脈動し続けました。
最終的に、黒海北岸ではサルマタイ・ロクソラニらの台頭とローマの押し返し、中央アジアではクシャーンとサーサーンの覇権が、サカの政治的独立を次第に圧縮していきます。しかし、騎射の技術、動物文様、クルガンの葬送、騎馬民族の社会倫理は、後続の遊牧帝国(匈奴・突厥・モンゴル)や在地社会の軍事と美術の土壌として受け継がれました。
総じて、サカ族は固定した国境や単一の王朝で把握できる「国家」ではなく、移動・連合・同化を繰り返す草原のネットワーク社会でした。彼らは周辺の帝国にとって脅威であると同時に、交易と軍事の不可欠なパートナーであり、ユーラシアの東西南北をつなぐ回路の担い手でもありました。ベヒストゥン碑文の固い文字から、アルタイの凍土に眠るフェルトの柔らかな肌合いまで、サカの像は多層です。文献と考古学、言語と美術、地理と生態の交差点に彼らを置くとき、草原史のダイナミズムが立ち上がってきます。サカを知ることは、ユーラシア古代世界が「周縁の動力」によってどれほど形を変えられてきたかを理解する最短の入口なのです。

