卿・大夫・士(けい・たいふ・し)は、中国古代、とくに周王朝期から春秋戦国期にかけての身分秩序を示す代表的な語です。王や諸侯のもとで政務と軍事の中核を担った上層エリートを大づかみに三層に分けて表すもので、卿が最高、ついで大夫、そして基盤層としての士が続きます。いずれも血縁と家産、軍事奉仕と官職、礼制と学問が結びついた階層で、世襲性と実力主義が併存していました。やがて春秋戦国の変動で制度と呼称が変化し、官僚制が整うとともに、士は「知識と教養を備えた官僚予備軍」へ姿を変え、儒家が理想化する士君子像にもつながります。卿・大夫・士を理解すると、宗法(宗族秩序)と封建(分封)に支えられた周的世界が、官僚国家へ転じていく長い流れが見通しやすくなります。また、日本の古代~中世で「卿」「大夫」といった語が別の意味で転用される背景も、東アジアに広がる中国古典の語彙の影響として理解しやすくなります。
語の意味:礼制と軍政に根ざす三つの層
「卿」は、諸侯国の最高幹部層を指す語で、三卿・六卿などと数を定めて国政を分掌しました。大国では政務・軍事・財政・宗廟祭祀をそれぞれ担当する卿が置かれ、宰相級の権限を持ちました。卿は国君と同族であることが多く、宗法にもとづく親族秩序が正統性の根拠でした。他方で、実力で抜擢された士の上昇が重なると、卿位が非同族へ開かれる場合もありました。
「大夫」は、卿の下に位置する有力家門・功臣層で、地方統治や軍の指揮、外交の使節など実務を担いました。領邑(采地)を与えられることが多く、家臣(家士)を率いる小規模な政治・軍事単位でもありました。宗法上は卿より一段下ですが、実際の政治運営では大夫家が勢力を伸ばし、卿と拮抗するほどの実権を握る例も見られます。
「士」は、本来は戦車一台を運用する歩兵・御者・弓兵の専門職を中心に、戦闘と雑務に従事する下位の軍事エリートを指しました。周代の軍制では、卿・大夫・士がそれぞれ戦車単位の兵を率いて戦列を構成します。やがて春秋戦国の変化の中で、士は武のみならず学問・策論・外交・法術に通じる「知的実務家」という意味を帯び、諸侯に仕えて政略を献じる「食客」「説客」「遊士」の世界を生み出しました。
三層はいずれも、血統・采地・家産・礼(礼儀作法・祭祀)・軍事奉仕が結びついた身分で、単なる官職名ではありません。周禮や儀礼に描かれる衣冠・車馬・棺具の等級、葬送や婚姻の手順、祖先祭祀の規模など、生活世界の細部にいたるまで身分差が体系化されました。これらは「礼治」の理念で正当化され、秩序の安定に寄与する一方、硬直した家格意識をも温存しました。
歴史的形成:周の分封体制と宗法
卿・大夫・士の原型は、西周の分封と宗法に求められます。周王は王畿を中心に、同族や功臣を諸侯として各地に封じ、諸侯はさらに国内を卿・大夫・士に分与して統治を委ねました。分封は、軍事動員と税・貢納を可能にする地方分権の仕組みであり、宗法は嫡長子相続を原則として家産・宗廟・政治権を維持する規範でした。こうして、王—諸侯—卿—大夫—士—庶民へとおおまかに階層が連なる多層的ピラミッドが成立します。
西周末から東周の春秋期にかけて、諸侯国内で「卿大夫」の勢力が伸張し、しばしば国君を凌ぐ実力を持つようになりました。晋の六卿、斉の田氏、魯の三桓などは、卿大夫家が政権を握り、やがて国君家を置き換える政変(簒奪)に通じました。これは、家産と兵力を背景にした門閥の自立化の帰結であり、周的な分封秩序のゆらぎを象徴します。
同時に、士層の専門性が政治を動かす資源になっていきます。外交儀礼・法制度・軍略・兵站・占筮・記録といった高度な技術は、教育と修練を通じて蓄積され、血統に依存しない能力主義の回路を開きました。孔子は、礼と仁の修養を通じて身を立てる「士」を理想化し、孟子は民本と道義で諸侯を諫める「士君子」を語りました。こうした思想史上の「士」は、軍事エリートの原義から大きく広がり、道徳と教養を備えた社会的主体を意味するようになります。
春秋戦国の変質:官僚国家への移行と語の再編
春秋後期から戦国期に入ると、兵農分離と常備軍の整備、戸籍・田制・度量衡の統一、法令による統治(法家思想の影響)など、国家の性格が大きく変わりました。貴族的な戦車戦に代わって歩兵・騎兵の大量動員が主力となり、兵站と徴発、軍功に応じた爵位(例えば秦の二十等爵)が行政の骨格を成します。この過程で、血縁と家産に根差した卿・大夫の伝統的権威は相対化され、官僚的な職位(相・将・尉・令・丞など)と軍功爵が人材登用の主舞台になりました。
「士」は、この新秩序の中で柔軟に意味を広げます。縦横家・兵家・法家・儒家といった諸子百家の知識人は、諸侯に策を献じ、官職に就き、あるいは遊説して名望を得る「士」と自称しました。彼らは出生の低さを学問で補い、主君の保護を受けて上昇を目指します。『史記』列伝に多くの「士」の人物が描かれるのは、この時代に「士」が社会のモビリティを体現する言葉だったためです。
戦国末から秦漢にかけては、卿・大夫という呼称自体は制度上も残りつつ、意味が変容します。秦は中央に「卿」の称号を冠する高官(廷尉・奉常・郎中令などの卿職)を置き、漢では「諸卿」という語が九卿などの上級官僚を指す行政用語化を遂げました。つまり、周的な身分称ではなく、官制上の等級名としての「卿」が定着します。大夫も同様に、博士・議郎・太中大夫・光禄大夫など、位階・散官号としての色彩を強めました。こうして、古典的な身分名から、官僚制の職称・位号へと語義がシフトしていきます。
一方、士は儒学の国家学への採用とともに、科挙前史とも言える郷挙里選・察挙の人材登用制度で中心概念となり、後漢以降の「士族」形成へと連なります。学的教養と倫理的修養を備え、文筆・訟争・記録・礼儀を司る主体としての「士」は、知的中産層の原像を形づくりました。これがさらに六朝・隋唐を経て科挙制と結びつき、士大夫という新しいエリート層を生む土壌となります。
制度・文化への反映:礼・爵・采地・教育
卿・大夫・士の差異は、礼制と物的生活にも明確に刻まれました。衣冠の色や文様、車馬の台数、住居の規模、祭器の等級、葬礼の段取りに至るまで、使用を許される数や形が細かく規定され、違反は礼に悖る無礼とされました。器物や儀礼は、単なる贅沢や虚礼ではなく、統治秩序と社会的承認を可視化するメディアでした。
爵と采地は、身分維持の経済的基盤でした。功績に応じた爵位付与は、軍役・賦役の負担や、課税・司法上の扱いに直結します。大夫家や卿家は、領邑からの租税・徭役・特産の貢納を受け、家産を拡大しました。他方で、家産の細分化や相続争いは家格の維持を脅かし、家法や宗法が細密化される動機にもなりました。
教育と学問は、士の社会的上昇を支える鍵でした。周代の学校(郷学・国学)や、宗廟儀礼を通じた実地のリテラシー、春秋戦国の私学・書院の発達は、文字・計算・礼楽・射御といった技能を普及させ、家柄に依らない能力の蓄積をもたらしました。儒家は、礼を骨格とする徳治を掲げ、士の自己修養による天下秩序の再建を説きますが、実態としては法術・兵学・簿記・文書管理など実務スキルも不可欠でした。この「徳」と「術」の二本立てが、士の多面性を支えました。
東アジアへの波及と語の転用:日本・朝鮮の事例
中国古典の語彙は、朝鮮・日本・ベトナムなどに広がり、それぞれの制度の中で意味が再配置されました。日本では、律令制下で太政官の中枢に列する「卿」(大臣・大納言などの唐名的称呼)や、平安・中世における「卿」(公卿)という語が用いられ、宮廷貴族の高位を指しました。これは周的な卿とは直接には異なりつつ、古典語彙の権威づけが働いた用例です。「大夫」もまた、雅楽や神職、芸能の世界で位階を示す語として残り、「たいふ/だいぶ」と読まれて文化的称号化しました。
朝鮮半島でも、中国官制の受容とともに、卿相・大夫といった語が文書語として使われ、科挙(科田制)によって選ばれた士大夫が社会の中核を占めました。ここでの「士大夫」は、宋以降の中国と同様に、学問と官僚職を兼ね備えた支配層を指し、古典的な卿・大夫・士の三層とはすでに異なる編成です。つまり、古代の身分秩序を表す語は、中世以降では学術・位号・敬称へと意味を移し、文化的権威を帯びて存続しました。
このような転用や継承を追うことで、語の表面だけを同一視する危うさと、逆に語彙が長期的に制度の正統性を支える機能を果たす事実の両面が見えてきます。卿・大夫・士は、単なる古語ではなく、東アジアの政治文化における「身分・職分・教養」をめぐるキーワードとして、時代ごとに新しい意味を纏い続けたのです。
史料にみる具体像:列国の事例と人物群像
晋の六卿は、智・范・中行・知・趙・魏・韓などの有力家が権力を分有し、ついには国君に拮抗しました。斉では田氏が卿大夫から台頭して姜氏を圧倒し、田斉として王位を得ます。魯の三桓(季・孟・叔の三家)も、卿大夫家として国政を左右し、孔子の政治改革が挫折する背景になりました。これらの事例は、卿大夫の家格と実力、宗法秩序と現実政治のずれを示す典型です。
人物像としての「士」は、孔子の弟子群、孫武・呉起の兵家、韓非・商鞅の法家、張儀・蘇秦の縦横家などに体現されます。彼らは、知と弁舌、法と術、兵と策を携えて諸侯を渡り歩き、功名を競いました。『左伝』『戦国策』『史記』に描かれる説客や遊士の姿は、身分と出生を超えたモビリティが開かれた時代精神をよく物語ります。ここに、古い「士」=下位軍事エリート像と、新しい「士」=知の担い手という二面性が重ね合わさっています。
秦漢における「九卿」は、廷尉(司法)・大鴻臚(儀礼・外交)・太常(宗廟礼)・衛尉(宮城警備)など、国家機構の中枢を担う高級官です。用語は古風ながら、内実は高度に専門分化した官僚制でした。漢代の「光禄大夫」や「太中大夫」は、学識と功績に対する名誉称号として授与され、文化・政治の指導層に象徴的な権威を付与しました。ここでも、語の伝統と制度の革新が重ねられています。
用語理解のコツ:身分名と官職名、理念と実態のズレ
卿・大夫・士という語に向き合う際は、三つの観点を押さえると理解が滑らかになります。第一に、身分名(家格)と官職名(役割)の区別です。周代の三層は本来、家格に紐づく呼称でしたが、春秋戦国以降は官制用語へ変容し、同じ語でも意味の焦点が変わります。第二に、理念(礼・徳)と実態(権力・軍事)のズレです。儀礼や徳による統治が理想として語られる一方、家門の兵力・財政・同盟が政治を左右しました。第三に、長期的な語義の移動です。秦漢以降、科挙と儒学の台頭で、士は教養エリートを示し、卿・大夫は名誉号・官職名として再編されました。時代ごとにコンテクストを置き換えて読むことが大切です。
こうした視点を踏まえると、卿・大夫・士は、単なる古代中国の身分ラベルではなく、東アジアの政治文化における「権威の言語」であることが見えてきます。語の持つ権威性が、制度の正統性を支え、人々の自己理解(自らを士と称する、卿・大夫の家格を誇る)に影響を与えてきました。言葉が制度を作り、制度が言葉を変える――その往還を示す好例が、この三語なのです。

