三長制 – 世界史用語集

三長制は、北魏の孝文帝期(5世紀末)に整備された基層社会の編制で、戸籍・租税・治安・徴発を効率化するために家々を小単位から段階的にまとめ、その各段階に長(リーダー)を置いた制度です。具体的には、5戸で「鄰(りん)」を作り鄰長を、5鄰=25戸で「里(り)」を作り里長を、さらに4里=100戸で「党(とう)」を作り党長を置く三段構えであったため「三長制」と呼ばれます。均田制(485年)による土地割り当て・課税・役務と、三長制(486年前後)の人別管理・連帯責任を結び付けることで、北朝政権が漢地の広域を安定的に統治するための実務基盤が整えられました。要するに、三長制は「100戸の社会をひとつの見える単位にし、その中間に25戸・5戸の目を置いて、田地・税・労役・治安を回すための仕組み」だったのです。以下では、成立背景、仕組みと運用、均田制・隋唐制度との連関、歴史的意義と評価を、要点を押さえて解説します。

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成立の背景—北魏国家の再編と戸籍・租税の可視化

北魏は鮮卑拓跋部を基盤とする北朝王朝で、5世紀には華北の広域を支配しました。遊牧・農耕が交わる多民族・多生業の空間を安定して統治するには、戸口(人)・田地(土地)・役(労働・軍役)を一体で把握する基礎台帳が不可欠です。孝文帝(在位471–499)は、都の平城(大同)から洛陽への遷都(495)に象徴される大規模な「漢化」政策を進め、その前段として485年に均田制、翌年頃に三長制を整備しました。均田制が「誰に、どれだけ土地を与えるか」を規定するのに対し、三長制は「その人々をどう束ね、誰が責任を持って税・役・治安を実施するか」を定める制度的ペアでした。

当時の華北は戦乱と移住の累積で戸籍の散逸が激しく、旧来の豪族・郷里秩序が一様に機能していたわけではありません。そこで国家は、家数を最小単位の「5戸」から積み上げる方式で網目状に再編し、最寄の住民同士に相互監督と連帯責任(連坐的性格)を課すことで、徴税逃れ・流亡・治安悪化を抑止しようとしました。この「下から組む」発想が、三長制の骨格です。

制度の仕組みと運用—鄰・里・党と三人の長の役割

単位の構成は明快です。5戸=1鄰(鄰長)、5鄰=1里(里長)、4里=1党(党長)で、合計100戸を一まとまりとして把握します。地理的な近接性や村落の境界に合わせて柔軟に編成されましたが、原則はこのピラミッドです。

三長の任務はつぎのように整理できます。①鄰長—戸口の微動(出生・死亡・移住)の把握、簡易な紛争の調停、日常の治安と相互扶助の指揮。②里長—租税の割付・徴収の取りまとめ、均田の割当・返還の実施、里内の道路・堤防・水利・公役の指揮。③党長—上級官(郡県)との連絡、徴発(兵員・労役)の配賦、越境事件への対応、里間の利害調整。三長はいずれも名望家・中堅層から選ばれることが多く、郡県官の末端補助として半官半民の性格を帯びました。

戸籍・租税・役の連動も三長制の要点です。均田制は成年男子・女子・奴婢などの身分・年齢ごとに標準的な口分田を与え、一定年限で返還させる仕組みでした。三長制の網目により、田土の配賦台帳と戸籍が日常的に照合され、徴税(穀・布など)・徭役(運搬・築堤・道路など)・軍役(兵士の選抜と補充)が同じ名簿で管理されます。鄰長が日々の異動を記し、里長が台帳をまとめ、党長が郡県へ上送する。この分業で「人と田の離反」を抑え、税源の安定を図りました。

連帯責任と監視の仕組みも欠かせません。5戸単位の鄰は、相互に扶助しつつ、脱税・逃亡・犯罪が発生した場合に連坐的な責を問われることがありました。これは住民に緊張を強いる一方、郷里の自治的な相互規範を官の枠組みに取り込む効果があり、迅速な摘発・再配分・危機対応を可能にします。国家と社会の接合点に、三長という「目と手」を多数配置した、と言い換えられます。

軍事動員との関係では、北魏後期から西魏・北周へ至る兵農一致的な動員(のちの府兵制の前段)と、三長制の基礎台帳が連動したと考えられます。100戸=1党という規模は、役夫や兵士の割当て・物資輸送の隊列編成に適しており、実務上の利便がありました。

均田制・隋唐里坊制との連関—前提・継承・変奏

三長制は、均田制の「人間面」を支える制度でした。均田制が配分の原理(「年齢・性別・身分ごとに定額の田」)を定めても、現場でその田が誰の手にあり、収穫がどれほどで、誰がどれだけ税・役を負うかを確定させる管理の眼がなければ、制度は空回りします。三長制はその眼と手を末端に作り、郡県官が少数でも広域統治を可能にする人的インフラとなりました。

その後、隋・唐の里坊制・里正制に継承される面もあります。隋唐都市の里坊制(都城の居住区画管理)と、農村戸籍の「里」・「里正」は、名称や単位規模・機能を変えつつも、戸籍・課役を里単位で把握し里の長が責任を負うという構図を基本的に保ちました。唐代には租庸調制のもとで、里単位の台帳が徴税・労役・兵士の選抜に用いられ、里長(あるいは里正)が末端行政のキーパーソンとなります。つまり、三長制は北朝の工夫として登場し、隋唐で制度環境に応じて翻訳・再編された、と見ることができます。

さらに長期で見ると、宋以降の保甲制(王安石の新法に含まれる十家・保・大保の編成)や、明清の里甲・保甲など、家々を連帯で束ねる制度の源流として三長制を位置づけることも可能です。もちろん具体の単位数・任務・権限は時代により異なりますが、「小さな単位から積み上げ、連帯責任と自主管理を行政化する」という思想は堅牢に連続しています。

歴史的意義と評価—国家の掌握と地域社会の再編、その明暗

第一に、三長制は行政コストの削減と情報の即地化に寄与しました。郡県官の少人数体制のもとでも、三長を媒介に戸籍・租税・治安の情報が迅速に上がり、命令が末端へ下りる。これは広域を支配する北朝国家にとって決定的な強みでした。三長は地元の言語・慣習に通じ、災害・飢饉・疫病などの非常時にも、里内・党内での割当・再配分を柔軟に行えます。

第二に、三長制は社会の組み替えを促しました。豪族や門閥の私的支配に依存せず、国家が定めた単位で人々を束ね直すことで、旧来の権威の下で生じていた偏りや不公平(課役の肩代わり・隠田・戸籍操作)を是正する狙いがありました。5戸という極小単位は、富貧・血縁の異なる家々を横断して束ね、「新しい近隣共同体」を国家主導で作り出します。これにより、農村の自治に国家の規範が浸透し、一定の公平性・透明性が担保されました。

第三に、相互監視と連坐という性格は明暗を分けます。制度は徴税逃れや犯罪を抑止する反面、濫用されれば住民の自由な移動や生業選択を縛り、社会に萎縮をもたらします。役負担の偏在、三長の職権の私物化、偽籍(戸籍の偽り)をめぐる紛争も起こりえます。つまり、三長制は「よく機能すれば地域を守るが、運用次第で抑圧にもなる」二面性を内在させました。

第四に、軍事・財政の観点からは、三長制が動員のフレームを提供しました。100戸=1党という単位は、軍需輸送や土木動員の割当てに適し、兵員の補充表を現実に落とし込みます。北魏後半の政情不安や6世紀の再編過程でも、こうした基層組織の存在が国家の粘り強さを支えました。

総括すると、三長制は北魏が打ち出した画期的な「基層行政の技術」であり、均田制とペアで人と土地を結びつけ、国家と社会の接合面に数多の小さな「目」を作ることで、広大な華北を統治可能にしました。その発想は隋唐以降の制度にも形を変えて生き続け、東アジアの地方編成史に長い影を投げかけています。歴史の現場で働いたのは、条文ではなく、鄰長・里長・党長という人々の判断と手腕でした。彼らの活動こそが、戸籍台帳の数字を現実の徴税・治安・公共事業へと変換し、国家を日々運転していたのです。