クディリ朝(Kediri/旧称ダハ Daha、パンジャル Panjalu とも表記)は、インドネシア・ジャワ島東部で11〜13世紀に栄えたヒンドゥー・仏教系の王国です。前王アイルランガの王国分割(11世紀半ば)を起点に、ジャワ東部の内陸都市ダハ(クディリ)を本拠とし、交易・農耕・文芸・宗教の各分野で高い成熟を示しました。王ジャヤバヤの治世に文学黄金期が訪れ、『バラタユッダ(Bharatayuddha)』などのカカウィン(古ジャワ語叙事詩)が編まれ、香料海域と中国・インド洋世界を結ぶ交易にも積極的に関与しました。13世紀初頭、シンガサリの台頭とケン・アロク(ラジャサ)による攻撃で王権は崩れますが、その文芸言語・統治手法・宗教的折衷は、のちのマジャパヒト王国に大きな遺産を残しました。ここでは、成立と地理、王統と政治、経済と国際交流、宗教・文化と社会、衰退と継承、史料と考古学的手がかりという観点から、クディリ朝の実像をわかりやすく解説します。
成立と地理:アイルランガの分割とダハ(クディリ)の内陸都
クディリ朝の前史には、カフラヴィ王朝出身とされるアイルランガ(Airlangga, r. 1019–1049頃)が築いたジャワ東部王国があります。アイルランガは戦乱を収めて地域秩序を再編し、治世末に王国を二分しました。一方がパンジャル(Panjalu=クディリ)で、もう一方がジャンガラ(Janggala)です。分割の背景には、後継問題と在地勢力の均衡、港市と内陸稲作地帯の利害調整がありました。
クディリ(ダハ)の都は、ブランタス川(Brantas)流域の内陸に位置し、灌漑稲作と河川交通の要衝でした。山地からの水源に支えられた段々田は、年間を通じて高い生産性を維持し、ブランタスの水運は内陸と海岸の港市(トゥバン、スラバヤ周辺の早期港湾)を結びました。内陸都を選んだことは、稲作税を確実に掌握できる利点に加え、沿岸勢力との距離を取って王権の自立性を保つ意図も示します。
地形と交通の条件は、行政区画や宗教拠点の配置にも影響しました。寺院群や碑文の分布は、河川の分岐点や堰・用水の管理点に集中し、宗教と水利の結びつきが強かったことを物語ります。こうした「水の政治」は、後代のマジャパヒトにも継承され、ジャワ国家の構造的特性となりました。
王統と政治:ジャヤバヤの黄金期、文学と王権イデオロギー
クディリの王統は連続的ながらも断片的に伝わり、碑文・文献によって補われます。12世紀半ばのジャヤバヤ(Jayabhaya)は、とくに文化保護と王権の安定で知られ、在位中に古ジャワ語文学が大成しました。王はしばしばヴィシュヌ(ワヤン神話のクリシュナ)や王権守護の神格と習合され、ダルマ王として正義と繁栄を体現する存在として描かれます。王名に「シリ」「シュリ」などの尊称を重ね、インド由来の王権儀礼を柔軟にジャワ化した点が特徴です。
ジャヤバヤ期には、宮廷詩人(ムプと呼ばれる学僧・文人)が活躍しました。代表作『バラタユッダ』は、インド叙事詩『マハーバーラタ』のクルクシェートラ戦争を素材に、古ジャワ語(カヴィ)が持つ韻律と比喩、政治倫理の語彙で再構成した長編詩です。編纂にはムプ・セダ(Mpu Sedah)とムプ・パヌルフ(Mpu Panuluh)が関与し、冒頭の献辞ではジャヤバヤの治世が法(ダルマ)が行われる時代として讃えられます。これは単なる文学ではなく、王の正統性を神話倫理へ接続する政治神話の役割を担いました。
ジャヤバヤの後、カメーシュヴァラ(Kameçvara)と王妃キランタンガの時代には、ムプ・ダルマジャの『スマラダハナ(Smǝaradahana)』が宮廷文学の輝きを増しました。恋と欲望の神カーマ(スマラ)と妃ラティの物語を通じて、王と王妃の美徳、宮廷礼儀、宇宙秩序の調和が讃えられ、愛欲と統治の均衡という王権イデオロギーが詩的に提示されます。文学は娯楽にとどまらず、王朝の規範を示す鏡でした。
政治制度の実務面では、在地首長(ラクヤット/ラクサなどと総称される地方エリート)と僧院・寺院ネットワークを通じた統治が行われ、寺院経済(シマと呼ばれる免租地)の設定、灌漑施設の保守、祭礼の主催が王権の可視化に役立ちました。碑文には、罪人の赦免、土地寄進、課税免除の布告が刻まれ、王の慈愛と威厳を演出する文言が並びます。
経済と国際交流:稲作・香料・海上交易の三位一体
クディリ経済の土台は灌漑稲作です。ブランタス川とその支流に築かれた堰・用水路の網が、コメの安定供給と徴税基盤を支えました。内陸の富が王都と寺院の建設、祭礼、文芸の patronage を可能にし、余剰は交易へと振り向けられます。
対外的には、11〜12世紀のシュリーヴィジャヤ海上勢力の相対的後退を背景に、ジャワ内陸勢力が港市経済と結びつきを強めました。東ジャワ沿岸の港からは、コメ・砂糖・木材・棟梁・陶器のほか、マルク諸島のナツメグやメース、マラッカ海峡経由の胡椒と結びついた流通に参加しました。中国宋代の文献には、ジャワ産品と港の名が記録され、藍・藤・蘇木などの染料や薬材、香木、金属、陶磁器の交換が活発だったことがうかがえます。
この時期の貨幣は、金銀の重宝や中国銭の流入、秤量貨幣と布貨・穀物による代替決済が併存しました。市場の管理、度量衡の標準化、交易税の徴収は在地首長と王権の協同で行われ、寺院は寄進・祭礼・宿泊の拠点として経済循環に参与しました。内陸の稲作—沿岸の港市—外洋の香料回路という三位一体の連鎖が、クディリを中間者として機能させたのです。
宗教・文化と社会:ヒンドゥー=仏教の折衷、ワヤンとカカウィン
クディリ社会は、ヒンドゥー教(シヴァ派・ヴィシュヌ派)と仏教(大乗)の折衷が進んだ宗教景観を持ちました。王はシヴァ神やヴィシュヌの化身とされつつ、仏教的功徳を重視し、寺院・僧院への寄進で二つの伝統を接合しました。後代に「シヴァ・ブッダ」的合一と呼ばれる思想は、この頃の実務的な折衷の上に成立したと考えられます。
芸術面では、カカウィン文学が宮廷文化の中心で、修辞と韻律の高度な技巧が洗練されました。ワヤン(影絵芝居)の語りは、クディリ期に古ジャワ語の語彙を整え、マハーバーラタやラーマーヤナの物語を地域社会へ浸透させました。楽器アンサンブル(ガムラン)は祭礼・宮廷儀礼の音楽として発達し、詩の韻律と音楽の拍節が呼応して、言葉と音の共同体を形づくりました。
社会構造は、王族・貴族・在地首長・僧侶・職人・農民・商人が重層をなし、村落共同体は水利と祭礼の単位として機能しました。女性の地位については、碑文や文学の断片から、王妃や貴族女性が宗教寄進や文芸保護に関与した事例が知られ、婚姻が政治同盟の媒介となったことがうかがえます。衣服・装身具では、金銀細工や宝石を用いた髪飾り、バティックに先行する幾何学的文様布が用いられ、身分表示と美意識が交差しました。
衰退と継承:シンガサリの台頭、クディリ復辟、そしてマジャパヒトへ
13世紀に入ると、東ジャワでシンガサリ(Singhasari)が台頭します。伝説的な創業者ケン・アロク(Ken Arok、のちの王名ラジャサ)は、在地豪族と宗教権威を巧みに取り込み、1222年のガンテルの戦いでクディリ王クルタジャヤ(Kertajaya)を破り、クディリ王権は崩壊しました。以後、クディリはシンガサリの支配下で一地方拠点となりますが、13世紀末に一時的な復辟が起きます。
1289年、シンガサリ王カルタナガラ(Kertanagara)が外征のさなかに、クディリの貴族ジャヤカトワン(Jayakatwang)に背後を突かれて滅ぼされ、クディリ系の政権が短く再興しました。しかし1292年、元朝の遠征と、その混乱を利用したラーデン・ウィジャヤ(Raden Wijaya)が勢力をまとめ、1293年にマジャパヒト王国を創建します。こうして、クディリの政治的独立は終わりを告げますが、文学語(古ジャワ語)と王権儀礼、水利行政、寺院経済の枠組みはマジャパヒトに強く継承され、14世紀の「ジャワ帝国」の文化的基層を形づくりました。
史料と考古学:碑文・写本・遺構が語るクディリ
クディリ朝を知る一次資料は、ブランタス流域に点在する碑文(銅板・石碑)と、後世に筆写されたカカウィン写本群です。碑文には、免租地(シマ)の設定、寺院への寄進、灌漑施設の維持命令、罪人赦免などが記され、年号(サカ暦)と王名が王統の復元に役立ちます。文学写本は、ジャワ—バリの写本文化の中で伝えられ、文体・語彙・韻律の分析から成立年代や宮廷の趣味が推定されます。
遺構の面では、東ジャワ各地にクディリ末〜シンガサリ初期に属するレンガ造寺院や祠堂が残り、神像・レリーフの様式分析から、シヴァ像・ヴィシュヌ像・仏像の混在や、ジャワ的な穏やかな表情・柔らかな衣文表現が識別されます。水利施設跡と集落遺跡の分布は、王都ダハの都市形態と物流ネットワークの推定に資します。さらに、中国陶磁の出土は交易の広がりを物語り、宋元の青白磁・青磁がクディリ期の消費文化に浸透していたことを示します。
世界史的意義:内陸—沿岸—外洋をつなぐ編集力
クディリ朝の意義は、第一に、ジャワ内陸の稲作国家が海上世界と結びつく仕組みを整えた点にあります。内陸の安定した徴税と灌漑の管理、寺院経済の制度化、港市との分業は、東南アジアの「陸と海」の結節モデルの早期完成形でした。第二に、カカウィン文学とワヤンの整合は、インド叙事の翻案を通じて王権イデオロギーを地域語で表現する技法を確立し、後世のマジャパヒト文化に直結しました。第三に、宗教折衷の実務(ヒンドゥーと仏教の協働)は、東南アジア島嶼世界に特有の寛容と統治のデザインを示しています。
クディリを学ぶことは、東南アジア史における「内陸国家と海上交易の連結」「文学と言語による政治」「宗教折衷の統治」という三つのテーマを一望することにつながります。地図の上では小さく見える内陸都ダハが、言葉・水・道を編んで広域世界と接続した姿は、地域国家が世界とつながる技術の原型を伝えているのです。
まとめ:水と詩と交易が支えた東ジャワの王権
クディリ朝は、ブランタス川の水利に根ざした稲作経済、港市との交易連携、宮廷文学とワヤンに象徴される文化の力、そしてヒンドゥー=仏教の折衷という柔軟性で成り立っていました。ジャヤバヤの黄金期に鍛えられた王権イデオロギーは、やがてシンガサリの軍事的台頭に押されますが、政治形態が変わっても、言語・儀礼・水利・文芸の技術は消えず、マジャパヒトの基盤として生き続けます。川のように、時代の流れは形を変えても同じ流域を潤し続けるのです。クディリは、その流れの要所に築かれた堰であり、橋であり、歌でした。歴史の表舞台に立つ時間は短くとも、その下を通り抜ける水と人と物語は、今日まで途切れずに響いています。

