エクバタナ(Ecbatana、古イラン語形 Hagmatāna/ハグマターナ、現イランのハマダーンに比定)は、古代イラン世界の高地帯に位置した都市で、メディア王国の王都として著名です。伝承では王デイオケスがここに宮城を築いたとされ、ヘロドトスは七重の城壁に囲まれた壮麗な都市として描写しました。その後、アケメネス朝ペルシアの時代には王の避暑・行宮(夏の離宮)として頻繁に用いられ、帝国北西部を統治する政治・軍事・財政拠点となりました。アレクサンドロスの征服、セレウコス朝・アルサケス朝(パルティア)の時代を通じて都市は生き続け、財庫・街道の結節点・サトラピ(総督領)中心としての性格を保ちました。高原の冷涼な気候、ザグロス山脈とイラン高原をつなぐ地理的要衝、そして「集いの場所」を意味する都市名が示す通り、人・物・権力が季節的に集中する〈集合都市〉として理解できるのがエクバタナの特徴です。
名称・位置・環境:高原の「集いの場所」
「ハグマターナ」という語は「集会の場・集合の地」を意味すると解釈され、のちにギリシア語文献で「エクバタナ」と表記されました。現在の比定地はイラン西部のハマダーンで、標高は約1800メートル級、ザグロス山脈の東麓に広がる高原台地です。冬は厳しく、夏は乾燥して涼しいため、古代王権が避暑地・行宮として選んだ合理性が理解できます。ここは、メソポタミア低地からカスピ海沿岸・イラン高原中枢(エクバタナ—ラガ—パサルガダエ—ペルセポリス方面)を結ぶ陸路の分岐点にあたり、街道の要衝でした。とくにアケメネス朝の「王の道」系統の幹線・支線が交差し、軍隊・徴税・公用通信(駅伝)の流れが集中したのです。
水資源は雪解け水と湧水に依拠し、灌漑路と貯水槽が市街の命脈でした。周辺の牧畜地帯・農耕地帯と物資の補完関係を結び、羊毛・皮革・金属製品・穀物の集散が行われました。高原都市であることは、防衛の利点も意味し、山麓の要地を見下ろす形で城郭が築かれ、周辺の峠道・谷口の監視が容易でした。
メディア王国の都:七重城壁と王権の演出
ヘロドトスによると、メディアの初期王者デイオケス(前7世紀末頃)が裁判と秩序維持で名声を得て王に推戴され、エクバタナに都城を築いたとされます。彼は中央の円丘に王宮を置き、同心円状に七重の城壁をめぐらし、各壁に色彩を配した壮麗さを演出したと伝えられます(色や金属の象徴性は古代イランの宗教観・王権観と結びつけられて語られることが多いです)。この記述がどの程度実態を反映しているかは議論が残るものの、〈多重の囲郭〉という設計思想は、高地の地形に合わせて防御と儀礼の双方を追求した古代イランの宮城建築の一典型とみなせます。
メディア王国(前7〜前6世紀)は、アッシリア帝国の瓦解過程に深く関わり、北メソポタミアからイラン高原にかけての広域を掌握しました。エクバタナはその政治的中枢であり、諸部族・諸都市の連合を統御する〈集会の場〉として機能したと考えられます。王権はおそらく移動性を保ちながらも、この都市を象徴的中心として、婚姻・盟約・裁判・徴発の儀礼を執り行いました。都城の多重区画は、王・貴族・軍事・祭祀・都市民の空間的序列を視覚化する役割を果たし、城壁の色や装飾は権威の演出装置でした。
前550年頃、キュロス2世(キュロス大王)がメディアを併合すると、エクバタナはアケメネス朝の主要都市に組み込まれ、王族の滞在地・財庫・兵站拠点としての地位を保持しました。メディア人エリートはペルシア帝国の支配層へ編入され、エクバタナは広域帝国の運営における「北西の軸」となります。
アケメネス朝からヘレニズム・パルティアへ:財庫と行宮の都市
アケメネス朝下で、エクバタナはサトラピ・メディアの中心都市に位置づけられ、王や高官が夏季に滞在する行宮として知られました。パサルガダエやペルセポリスが儀礼・祖先祭祀の舞台であったのに対し、エクバタナは北西方面の軍政・財政と密接に結びつきます。高地の涼気は、王室や官僚が書記や宝物庫を伴って移動する際に好適で、周辺の牧地は王室用馬匹の飼養にも適していました。ここには大量の貢納品・金銀・絹・染織品が集積され、帝国の「移動する財庫」の一端を担いました。
前330年、アレクサンドロス大王の東方遠征に際して、エクバタナはマケドニア軍の掌中に落ち、ここで将軍ハルパロスが財庫管理を担い、のちに彼が資金の不正で失脚する逸話も伝わります。前324年には、アレクサンドロスの腹心ヘファイスティオンがこの地で病没し、壮大な葬儀が営まれました。帝国の財庫と軍の移動・補給の結節としての機能が、ヘレニズム期にも受け継がれたことを物語る場面です。
セレウコス朝の時代、エクバタナは西イランの重要中心として位置づけられ、王の巡幸や財務機能が継続しました。さらに前3〜1世紀のアルサケス朝(パルティア)では、王権の夏の定住地・財庫所在地の一つとして重視され、後背地のエクバタナと低地のクテシフォン(ティグリス河畔)などとを使い分ける「二都・多都」運用が行われました。季節移動・家畜移動に適応した遊牧的王権のリズムが、都市の役割分担に反映されているのです。
サーサーン朝期以降も、地名と都市機能は連続性を保ち、イスラーム期にもハマダーンは地域中心都市として生き残ります。すなわち、古代メディアの王都は、政権交替を横断して〈高原の結節点〉という基層機能を保ち続けました。
都市構造と考古学:テペ・ヘグマタネ遺丘と城郭の重層
現地の主要遺跡は、ハマダーン市街北部の「テペ・ヘグマタネ(Hegmataneh)」と通称される大規模遺丘です。広大な範囲にわたって土塁・城壁基礎・区画道路・住居址が確認され、方形区画を格子状に並べる計画的都市の痕跡が報告されています。地表近くの層はパルティア〜サーサーン朝・イスラーム期の遺構が優勢ですが、下層にアケメネス朝期と考えられる区画・建築材の痕跡が認められ、さらに古いメディア層の可能性が検討されています。遺丘の規模からして、古代文献が伝える「多重城壁都市」の核がこの地域に存在した蓋然性は高いとみられます。
発掘・地中レーダー・表面採集では、日干し煉瓦(マドブリック)の壁体、版築土塁、石造基礎、柱礎、舗装舗面、排水溝の跡などが見つかっています。出土遺物には、青灰色〜褐色の土器群、鉄器・青銅器の小片、印章・封泥、貨幣(ヘレニズム〜パルティア期を中心)などが含まれ、都市が長期にわたり占拠され続けたことを示します。宗教施設の確定は容易ではありませんが、火壇や祭祀区画を示唆する遺構の報告もあり、ゾロアスター教的要素をもつ祭祀空間が都市に併存していた可能性が指摘されています。
都市の周縁には、帯状の城壁・堡塁・壕の重層が推定され、各時代の防衛需要に応じてラインが更新されてきたと考えられます。とくにメディア—アケメネス朝—ヘレニズム—パルティアという連続の中で、軍政・財庫保全・街道防衛の観点から防御施設の改築が繰り返されました。街区配置は、王宮区/貴族・行政区/工房・倉庫区/市民居住区というおおまかな機能分化を示し、高原都市に典型的な〈中心の高まり+段丘状の居住〉という地形適応がうかがえます。
考古学上の課題は、都市の大半が現代都市の直下にあり、広域発掘が難しい点にあります。そのため、限られたトレンチ調査・救済発掘・非破壊探査の成果をつなぎ合わせ、文献史(ギリシア・ローマ・イランの諸資料)と地名学・歴史地理学を総合して復元が試みられています。七重城壁の実在性、王宮の精確な位置、貯蔵施設の規模、駅伝路の正確なルートなどは、なお検討を要する論点です。
街道・財政・軍事:結節点としての機能
エクバタナの価値は、第一に街道結節点としての機能にありました。メソポタミア低地(スサ・バビロン)からザグロスを越えてイラン高原へ上る幹線は、峠道の安全と補給に依存します。エクバタナはこの通過点で中継・補給・徴税・関門の役割を担い、帝国の駅伝制(王の道の支線)に組み込まれました。冬季閉塞時の迂回路、夏季の水補給ポイント、軍隊の越冬・夏営のための施設が整備され、王命・税袋・人員が正確に流れるよう制度化されたのです。
第二に、財政・貢納の集積です。西イラン・ザグロス周辺の農牧産物、金属資源、工芸品がここに集められ、王室財庫に納められました。アケメネス朝では、各サトラピが納める地租・貢ぎが、金銀秤量貨幣と物納で管理され、エクバタナは北西ブロックの出納所として機能したと推定されます。ヘレニズム期には貨幣経済の浸透が進み、銅・銀貨の鋳造・流通が活発化し、パルティアでは地方都市群の連携により、交易と財政が結びつきました。
第三に、軍事の動員・配備です。ザグロス山脈の防衛線、アルメニア方面への出兵、カスピ海沿岸やパルティア草原への展開に際し、エクバタナは兵站の軸でした。王の親征・大規模遠征の際には、馬匹・車両・糧秣・矢材が集中し、軍用工房で武具の修理・製作が行われました。地勢の優位を活用し、峠の斥候・烽火の通信・駐屯軍のローテーションを通じて、周辺支配の安定を支えたのです。
記憶される都市像:古代史叙述と後世の受容
エクバタナは、古典古代の著者たちにとって「異国の王都」の代表的イメージでした。ヘロドトスの七重城壁譚、クテシアスやポリュビオスの繁栄描写、アレクサンドロス遠征記に現れる財庫と葬儀の記述は、都市の壮麗さと富を強調します。一方で、これらは旅人の伝聞・政治宣伝・文学的誇張を含むため、考古学資料と突き合わせる批判的読解が不可欠です。とはいえ、古典文献が伝える「高地の都」「多重城壁」「財庫と行宮」というキーワードは、地理・気候・経済・政治を総合した都市の実像をおおむね射抜いています。
イスラーム期以降、ハマダーンは学者・詩人(イ本・シナー〔アヴィセンナ〕の墓所が近郊にあることでも知られます)を生んだ都市としての顔も獲得し、古代の王都は知の記憶地図の中でも位置を占め続けました。近代考古学の誕生とともに、ハマダーンの遺丘は探査の対象となり、都市考古学・歴史地理学・古代イラン研究の交点として研究が進展しています。
総合すると、エクバタナは、地理的要衝・気候的利点・政治的演出・財政・軍事・交通という多層の要素が重なって長命化した都市です。メディア王国の王都としての記憶がきっかけで注目されがちですが、実際には、アケメネス朝・ヘレニズム・パルティア・サーサーン・イスラームへと続く長い時間の中で機能適応を繰り返し、〈集い〉という語が示す通り、様々な時代の人と物と権力が集束する結節点であり続けました。現在のハマダーンの街並みに重なる見えない層を意識しながら、古代の都市像を復元的に思い描くことが、エクバタナ理解の近道になります。

