インドシナ共産党(Indochinese Communist Party, ICP)は、フランス領インドシナ(ベトナム・ラオス・カンボジア)で1930年に結成された革命政党で、ホー・チ・ミン(グエン・アイ・クオック)の主導の下、各地の共産主義グループを統合して生まれました。結成直後の農村蜂起(いわゆるゲ・ティン蜂起)とそれに続く弾圧、1936年以降の人民戦線期の合法活動、第二次世界大戦期の地下活動とベトミン(ベトナム独立同盟)結成、1945年八月革命とベトナム民主共和国の成立へと続く道筋に決定的な役割を果たしました。インドシナ共産党は、名目上はインドシナ全域を視野に置きつつ、実態としてはベトナム地域の組織と大衆基盤を軸に展開し、1951年にベトナム労働党へと再編、ラオス・カンボジアではそれぞれ独自の共産党(後の人民革命党・人民党)へと分化しました。植民地支配、世界恐慌、ファシズムの台頭と人民戦線、日仏協力下の占領、冷戦の黎明という外部環境の激変の中で、ICPはコミンテルンの路線と現地の民族解放要求を接合し、農民・労働者・都市中間層を動員して独立革命の器を形づくった政党です。
成立の背景と結成:植民地インドシナの危機と各派の統合
20世紀初頭のフランス領インドシナは、米・ゴム・鉱産物の輸出に組み込まれた植民地経済のもと、地租・労役・専売・監獄制度が重なり、農民と都市労働者の不満が蓄積していました。第一次世界大戦を境に徴発と税負担が拡大し、戦後の景気変動と1929年世界恐慌は米価暴落と負債の連鎖を招きます。教育の拡大は都市に新中間層を生み、民族意識と社会主義思想の受容が進みました。バクニエンやハノイでの労働争議、サイゴンの印刷・港湾労働者の動員、学生運動や新聞・読書サークルが広がり、政治化した民衆が各地に現れます。
この時期、ベトナム地域では複数の共産主義グループが並立していました。トンキン(北部)・中部・コーチシナ(南部)に、在外の留学生や帰還活動家、労働運動家が作った組織があり、互いに協力と競合を繰り返します。1930年2月、広東・香港を拠点に活動していたグエン・アイ・クオック(のちのホー・チ・ミン)が調整役となり、これら諸組織を統合して「ベトナム共産党」を結成しました。その後、同年10月にはコミンテルンの助言を受けて「インドシナ共産党」と改称し、ベトナム以外のラオス・カンボジアも視野に入れる名称と綱領を整えます。綱領は、帝国主義打倒と民族独立、封建的地代・人頭税の廃止、労働時間短縮・最低賃金、土地の再配分や小作減免、男女平等と教育の普及、民族・宗教の自由などを掲げ、民族解放と社会革命の二つの目標を結びつけました。
組織面では、党の地方委員会と細胞(セル)を基礎に、青年団・農民組織・労働組合・女性組織を付随させる形で大衆運動の器が整えられました。地下印刷・秘密連絡・安全屋(セーフハウス)・暗号通信などの技法が、植民地警察の監視と弾圧をかいくぐる日常の技術となり、海外の僑民ネットワーク(広東・香港・シャム=タイ・仏領諸都市)も連絡路として重要な役割を果たしました。
1930–31年の蜂起と弾圧、人民戦線期:大衆化の回路と合法の窓
結成直後の1930年夏から秋、ベトナム中部のゲアン・ハティン(通称ゲ・ティン)を中心に、地租減免・雑税廃止・労働条件改善を求める農民運動が、党の指導と地方の委員会主導のもとで急速に高揚しました。村役場の包囲、徴税文書の焼却、地主・官吏への圧力が広がり、一部地域では「ソヴィエト(評議会)」と呼ばれる自治組織が出現して、夜警・配給・学校運営・相互扶助までを担う試みが行われます。これがいわゆる「ゲ・ティン・ソヴィエト」です。フランス当局は戒厳令と機関銃・航空機を動員して鎮圧に乗り出し、逮捕・処刑・収監が相次ぎ、多くの幹部が獄中に送られました。
このショックは、党に二つの教訓を刻みました。第一に、農民蜂起の潜在力と組織化の必要性です。党は農村細胞の再建と学習サークル、互助組の整備に力点を置くようになります。第二に、弾圧に耐える統一的指導と柔軟な戦術の重要性です。以後、ストやデモだけでなく、請願・選挙・新聞・合法団体の活用など、多様なレパートリーを併用する路線が模索されます。
1936年、フランス本国で人民戦線内閣が成立すると、政治囚の一部 amnesty と言論の緩和が進み、インドシナでも合法の「窓」が開きました。ICPとその周辺は、新聞・雑誌の発刊、労働組合の公然化、住民大会の開催、議会への請願、自治体選挙の活用などを通じて大衆基盤を拡大します。サイゴンでは工場・印刷・港湾の労働者が賃上げと労働時間短縮を勝ち取り、北部でも教育と地租軽減を求める運動が進展しました。女性・青年の動員も顕著で、文化サークルや識字教育、劇や歌を通じたプロパガンダが広がります。
もっとも、人民戦線の後退とともに再び弾圧は強化され、1939年に戦争が始まると、植民地政体は治安法を再稼働して党と関連団体を非合法化します。党は多数の幹部を失い、地域ごとに分断された地下活動へ回帰せざるを得ませんでした。
戦時期の転換:日本進駐、ベトミン結成、八月革命へ
1940年から41年、フランス領インドシナには日本軍が進駐し、ヴィシー政権の協力下で日仏協定に基づく二重支配が成立しました。これは一方で弾圧の強化を意味しましたが、他方で宗主国フランスの権威が低下し、民族運動に「対外支配の裂け目」を生みました。ICPはこの状況を利用して戦術を調整し、民族統一戦線の形成を急ぎます。
1941年5月、ベトナム北部の山中(パクボ)で党の第8回拡大会議が開かれ、ホー・チ・ミンの主導で「ベトナム独立同盟(ベトミン)」が結成されました。ベトミンは政党の枠を越えた統一戦線で、農民・労働者・学生・愛国者・少数民族・宗教者など幅広い層を包摂し、抗日・抗仏の民族解放を掲げました。党はベトミンを通じて山岳地帯に根拠地を築き、ゲリラ部隊の編成、連絡路の確保、徴発と配給、宣伝工作と識字教育、民兵組織の整備を進めます。飢饉(1945年初頭の北部の大飢饉)への救援活動は、党とベトミンが農村で信頼を獲得する契機となりました。
1945年3月、日本はクーデターで仏軍を武装解除して直接統治に踏み切りますが、8月の敗戦で権力の空白が生じます。ICPとベトミンは全国的な蜂起を号令し、地方政権の掌握、行政委員会の設置、武装解除、治安・食糧・交通の管理に乗り出しました。ハノイ・フエ・サイゴンなどの都市で群衆が行政庁舎を占拠し、同年9月2日、ホー・チ・ミンがハノイでベトナム民主共和国の独立を宣言します。これがいわゆる「八月革命」です。ここに至るまでの政治・軍事・宣伝・救援の組織化は、党の地下活動と統一戦線の運用が結晶した成果でした。
同時に、ICPはラオス・カンボジアにも工作と連絡線を持ち、各地で民族組織の形成を支援しました。ラオスではラーオ・イサラ(自由ラオス)や後のラーオ・イサラ政権の登場に際して、ベトナム人活動家や軍人が重要な役割を果たし、やがてラオス人民党(1955、後のラオス人民革命党)へとつながる社会主義勢力の礎が築かれます。カンボジアでも、抗仏運動と共産主義者の小グループが形成され、1951年のカンボジア人民革命党(後のカンボジア人民党)の母体が育ちました。ただし、各国の民族主義と社会構造の違いから、ICPの直接的指導は限定的で、戦後はそれぞれの党が独自の路線とリーダーシップを確立していきます。
再編と継承:1951年の党再建、ラオス・カンボジアの分化、思想と政策
第一インドシナ戦争(1946–54)の開戦と長期化の中で、ICPは組織の再編を迫られました。1945年末、ホー・チ・ミンは国内外向けに党の「解散」を宣言しますが、これは弾圧回避と統一戦線の幅を広げるための戦術的措置で、実際には「研究グループ」「文化協会」などの名義で党の骨格は維持されました。1951年2月、正式に「ベトナム労働党」(後のベトナム共産党)として再建され、ラオス・カンボジアでもそれぞれ独自の共産党が形成・公表されます。こうして、インドシナ共産党としての枠組みは歴史的役割を終え、三国の共産党体制へ継承されました。
思想と政策の面で、ICPは「民族解放を先行させ、社会革命(土地改革・生産組織化)は段階的に」という二段階革命論を実践しました。1930年代の綱領は、地主制の打破と土地の再分配を掲げつつも、統一戦線期には小農・中農・民族資本家・知識人との協力を重視し、当面の目標を対外支配の打倒に絞り込む柔軟性を示しました。戦後、労働党期には土地改革が本格化し、生産関係の再編が推し進められますが、その過程では過剰な闘争や誤りの是正が公表されるなど、実務と政治の緊張も露わになります。
国際関係では、コミンテルンとの連携と中国革命の影響が大きく、理論・組織・軍事の各面で学習が進みました。抗日・抗仏戦の戦術、山岳ゲリラの運用、政治工作と宣伝、統一戦線の設計、党—軍—政の三位一体運営、幹部学校や幹部養成の仕組みなどは、ICP—労働党の遺産として戦後の北ベトナム国家の基礎をなしました。
ラオス・カンボジアでは、民族運動の担い手と社会構造が異なり、党組織の大衆基盤や指導層の構成、宗教・民族関係の扱いに固有の課題がありました。ラオスの山岳民族とメコン低地の関係、タイ語系多数派と少数民族のバランス、カンボジアの仏教僧団と農村社会の関係といった要因が、党の組織戦術に影響し、戦後の内戦と国家形成の軌跡に独自性を与えました。ICPの「インドシナ」構想は名目的には三国を束ねましたが、実際にはベトナム中心であり、戦後は三つの党と国家が異なる歴史を歩むことになります。
評価と歴史的意義:民族解放の器としての党、地域分化とその後
インドシナ共産党の歴史的意義は、第一に、植民地支配の下で分散していた抵抗の諸潮流—農民の生活防衛、労働者の権利要求、知識人の民族主義—を、統一した政治綱領と組織構造に結びつけたことにあります。これは、農村の地縁・宗教・血縁の世界と都市の近代公共圏を横断する、稀有な組織技術の獲得でした。第二に、コミンテルンの国際路線(統一戦線、反ファシズム、段階革命論)を現地化し、柔軟に運用した点です。ゲ・ティン・ソヴィエトの教訓、人民戦線期の合法の窓、戦時の統一戦線とゲリラの組み合わせは、その具体例です。第三に、八月革命へ至る政治—軍事—宣伝—救援の総合戦を編み上げ、新国家の建設へ直結させたことです。
同時に、ICPの限界も見逃せません。インドシナ全域の党を名乗りつつ、実態はベトナム中心で、ラオスとカンボジアにおける組織化は戦後に各党へと分化せざるを得ませんでした。また、党の規律と統一の維持はしばしば内部批判と粛清の緊張を生み、農村動員では地主—小作関係の複雑さが過度な対立と誤判を招くこともありました。統一戦線の名の下での多様な政治勢力との協力は効果的でしたが、独立後の政権運営では意見の多元性と党の指導性のバランスが恒常的な課題として残ります。
それでも、ICPを理解することは、東南アジアの20世紀史、特にベトナム革命とインドシナ戦争の構図を理解する鍵になります。植民地の都市と農村、国際共産主義運動と民族主義、合法政治と地下組織、社会改革と戦争という複数の軸が、どのように一つの党の中で組織化され、時に矛盾し、時に相乗したのか。インドシナ共産党は、その動的な綱渡りを体現した存在でした。1951年の再編で党名は消えましたが、その組織文化と戦術の遺産は、ベトナム労働党—ベトナム共産党、ラオス人民革命党、カンボジアの諸党に引き継がれ、地域の政治史に長い影を投げ続けています。

