夷狄 – 世界史用語集

「夷狄(いてき)」は、中国古典で自文化の外側にいる人びとを指す呼称として用いられた語で、もともとは地理的な方角によって区分された呼び名の一部です。東の「夷」と北の「狄」を並べたもので、西の「戎(じゅう)」、南の「蛮(ばん)」と合わせて「四夷(しい)」とも言います。中国(華)を文明の中心とみなし、周辺を段階的に位置づける「華夷秩序(かいちつじょ)」の言語表現として働きました。歴史の中では、実際の民族名や国家名ではなく、〈中心から見た外部〉を指す相対的・通称的なラベルとして使われます。多くの場合は相手を下位に置く語感を伴うため、現代日本語では差別的な含みが強い古語と理解し、史料や歴史説明の範囲に限定して用いるのがふさわしい語です。本項では、語の由来と用法の変遷、東アジア諸地域での受容、近代以降の転換と現代の扱いを整理します。

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語の由来と基本イメージ――四方を名づける語から「華夷」の枠組みへ

古代中国では、世界を中心=「中国(ちゅうこく)」と四方の辺境から成ると観念し、東西南北の四方に対応する名辞が発達しました。東の「夷」、北の「狄」、西の「戎」、南の「蛮」です。これは特定の固定的民族を指すのではなく、中心から見た方向カテゴリーとしての性格が強いのが特徴です。たとえば同じ集団でも移動や政治状況によって呼び名が変わり、史料の側の視点が強く反映されます。

同時に、これらの語は文明観とも結びつきました。周代以降の政治思想では、礼と楽、文字や礼儀、農耕・定住を中心文明の印とみなし、これに従う者を「夏(華)」、従わぬ者を「夷狄」「四夷」と区別する語法が整えられます。後に「華夷秩序」と呼ばれる世界観では、中心は徳と文を以て周辺を教化し、周辺は朝貢・冊封という儀礼のネットワークに参加することで文明の秩序に組み込まれると捉えられました。このとき「夷」「狄」は、単なる方位名を越えて、徳の普及の外側/礼を欠く側を象徴する語として機能します。

ただし、この区別は固定的ではありません。古典の文には「夷狄にも王あり」「徳あらば夷狄といえども従う」といった、徳や秩序の有無で評価を揺らす文脈が見られ、道徳的優劣と地理的区分が重ね書きされながらも、相手を全面否定せず関係可能性を残す揺れが存在しました。つまり「夷狄」は単なる罵倒語ではなく、「中心と周辺の関係を規定する枠組みの語」としても働いたのです。

歴史的用法の変遷――古代から清末・近代へ

春秋戦国期には、北方の遊牧・半農半牧勢力や東方の諸集団を指して「狄」「夷」が頻出しますが、同時に華夏系諸国の内部でも礼の乱れや武断が批判され、「礼を失えば華も夷に同じ」といった価値判断が語られました。漢代に入ると、北方の匈奴、西域の諸国、南方の百越などが具体的な固有名で登場し、同時に総称としての「夷」「胡」「戎」などが使い分けられます。ここでは、実地の軍事・交易と観念上の文明区分が交錯し、用語の幅がさらに広がります。

唐・宋期は、草原帝国や周辺諸政権との往来が増し、冊封・朝貢と商業の結節点としての都城が整いました。史書や詩文では、周辺の諸民族・国家が固有名で記されつつ、文脈によって「夷狄」と総称されることがあり、科挙の経書教育がこの語感を再生産しました。宋代の士大夫の議論には、対外関係や軍事政策をめぐって「夷を以て夷を制す」「夷を用いる可否」などの用法が見え、現実主義と道義・名分のはざまで語義が揺れます。

元・明・清の時代になると、北アジアから内陸アジアにかけての支配者が漢字文化圏の中心を占める局面が続きました。モンゴルの元や満洲の清は多民族帝国としての統治理念を構築し、清朝は満洲語・モンゴル語・チベット語・漢語の多言語行政を運用しましたが、それでも科挙と経書の規範語が広く通用し、文人言語では「夷狄」が慣用として残りました。清代の対ヨーロッパ認識でも、初期には西人を「紅夷」「泰西夷」などと呼ぶ例が見られます。やがてアヘン戦争以後、条約・外交の実務が国際法(万国公法)の枠を取り込み、文書表現は段階的に「夷」から「国」「外洋」「洋人」へと改まっていきます。この言い換えは、相手を上下に配する儀礼語から、相互主権の言語へ移行する過程を映しています。

この間、「夷狄」という総称の下に包摂されてきた相手は多様でした。北方遊牧・騎馬勢力(匈奴、鮮卑、契丹、女真、蒙古)、東北・東部の諸集団(扶余・高句麗・濊貊など)、南方の百越系、さらに後世には欧米勢力までが文脈によって同じラベルで呼ばれ得ます。つまり「夷狄」は対象の自己呼称ではなく、漢文世界が外部に向けて与えた相対的名であり、その政治的・文化的力学を読み解く鍵語だと言えます。

東アジアでの受容――日本・朝鮮・ベトナム・琉球の語法と現実

日本では、古代以来、対外表現や漢文公文書の語彙として「夷狄」「蛮夷」が用いられました。中世には武家が「夷狄の振る舞い」を自嘲的に引く用例もあり、中心の規範から外れる粗野をさす比喩としても機能しました。近世に入ると、儒学教育が普及し、古典語彙としての「夷狄」は学問語に残りつつ、現実の対外関係では相手を固有名で呼ぶのが通例になります。他方、幕末には尊王攘夷のスローガンの下で西洋勢力を「夷」と呼ぶ政治語として復活し、攘夷論・航海遠略策・条約改正論の応酬の中で語義が政治動員の装置として再利用されました。明治維新後、国際法(万国公法)・条約秩序の受容が進むと、公的表記では「夷狄」は古語化し、外交・法制の語彙からは後退します。

朝鮮(李氏朝鮮)では、儒教国家としての名分論が強く、対女真・対倭(日本)などの文脈で「夷狄」「倭夷」の語が見られます。とくに中華(明・清)に対する「小中華」意識のもとで、自己の文明性の強調と周辺の位置づけに語が用いられました。ただし、倭や女真が台頭し、交易・外交が不可避になると、実務では固有名や官称が併用され、文藻としての「夷狄」と現実の名称が使い分けられます。近代以後は、日本と同様、国際法的秩序のなかで「国家—国民—民族」の語彙が前面に出て、「夷狄」は古典語の範疇へ退きました。

ベトナムでは、中国古典の語彙を取り込みつつ、自己を文明中心とし周辺の山地・海上の集団を「蛮夷」と呼ぶ語法が見られました。これは、漢字文化圏内部で互いが互いを「夷」と呼び得る相対性を示します。琉球や東南アジアとの関係でも、冊封を介した儀礼秩序と、現実の通商・海民の往来という二層がからみ、史料上の語彙はその二層性を反映します。結局のところ、「夷狄」はだれか特定の民族を永遠に固定するラベルではなく、主体の側の自己定義(華)と他者定義(夷)の可変的連動を表す言葉でした。

近代以後の転換と現代の扱い――国際法・民族概念・差別表現としての自覚

19世紀後半以降、条約体制や国際法(万国公法)がアジア各地に広がると、外交文書で相手を同等の主権主体として扱うための語彙が整備され、「夷」「蛮」といった上下を含意する語は公的表現から急速に退きました。新聞・学術・教育制度の近代化は、人類学・言語学・民族学の諸概念(民族・言語・文化・国家)を導入し、具体的名称で相手を記述することが求められるようになります。近代国民国家の成立は、相手を「国」や「民族」として呼ぶことを常識化させ、「夷狄」のような〈中心と周辺〉の序列語を古語の棚へ押し戻しました。

現代日本語において「夷狄」は、史料の引用・概念史の説明・古典の読解に限って用いるべき語です。現実の集団や国家に対して使用すれば、歴史的背景を知らぬまま差別・侮蔑の意図と受け取られる危険が非常に高いからです。授業や解説では、(1)当時の語の用法が示す世界観(華夷秩序)と、(2)その語が現代の価値や国際規範と相容れないこと、(3)具体名で記述することの重要性、の三点を明確に区別して伝える配慮が必要です。翻訳でも、原文の〈夷狄〉に直訳の「蛮族」などを当てるより、「周辺諸族」「外部勢力」など中立的な語を選ぶ工夫が行われます。

最後に、用語の読み替えの視点を補います。近年の歴史研究は、「夷狄」と呼ばれた側の主体性に光を当て、交易・婚姻・軍事同盟・宗教交流などを通じて中心文明に影響を与えた事実を明らかにしてきました。草原・山地・海上のネットワークは、しばしば政治の境界と文化の境界を跨いで動き、中心と周辺を一方向に序列化する図式では説明しきれません。文書に現れる「夷狄」の背後には、実際には多言語・多文化の交渉が折り重なっていたこと、そして名称は権力の言葉であると同時に、歴史叙述の責任を問う鏡でもあることを、私たちは意識して読む必要があります。