囲田(いでん)は、中国華南を中心に発達した干拓・治水型の農地で、河口や海岸の低湿地、湖岸やデルタ地帯を堤防(囲=周囲の土手や石垣)で囲い、潮汐や洪水を遮りつつ排水・淡水化して耕地化した田を指します。英語で言えばポルダー(polder)に近い構造で、宋〜明清期にかけて珠江デルタ(広東)や閩江・福州平野(福建)、長江下流域の沿海部などで広く築かれました。米を中心に、甘蔗(砂糖)、桑・果樹、蔬菜、あるいは養魚と組み合わせた複合経営に用いられ、人口の集中と商品作物の需要拡大を支える基盤となりました。囲う(圍)ことは単に土木の行為にとどまらず、権利と負担、共同管理という社会的仕組みを同時に作ることでもありました。以下では、囲田の成立背景、技術と営農のしくみ、社会・経済と水利組織、環境・地域史への影響という観点から、わかりやすく解説します。
成立の背景――南方への人口集積、低湿地の前線化、干拓の必然
囲田が広がった最大の背景は、南宋期以降の経済重心の南移と人口の増大です。華中・華南では二期作稲の普及、長距離交易の活発化、都市市場の拡大が進み、沃土の平地は早くから開発し尽くされました。そこで次に目を向けられたのが、洪水と潮汐のはざまにある低湿地や河口デルタです。これらは肥沃な沖積土と水利の利点を併せ持つ一方、高潮・洪水・塩害のリスクが高い「難地」でした。囲田は、この難地を人為的にコントロールして生産空間へ変換する技術的・社会的な解決策として誕生しました。
地域的には、広東省の珠江デルタが典型です。複数の河道がつくる扇状の沖積面は、堤を築けば肥沃な畑地・水田に変わる潜在力を秘めていました。明清期、砂糖・米・桑・果樹(龍眼・荔枝など)、野菜の大産地として栄え、江海の通商網に乗って広域市場へ供給されます。福建の沿海部や台湾西岸、長江下流の沿海平野、広西・湖南の湖沼沿岸にも同系の干拓田が見られます。これらはそれぞれ地形・潮汐・河勢が異なりますが、「囲って排し、淡水を入れ、作付を多様化する」という原理は共通しています。
社会的には、宗族(同姓一族)や郷紳、商人資本、寺廟などが囲田開発の主な担い手でした。資金を出し合って堤防・水門を築き、維持管理のための基金(義倉・水利倉)を設け、用益権や地代分配の取り決めを定めました。荒蕪地の開発は国家にとっても税源拡大の機会であり、囲田は租税台帳に特別の区分で登録されることがありました。国家と在地社会、そして市場が結びつくところに囲田はあります。
技術と営農のしくみ――堤・閘門・排塩、複合経営としての「基塘」
囲田の心臓部は、堤防(囲)と閘門(しゅんせつ・潮門)です。まず海岸線や河口近くの湿地周縁に堤を築き、潮の満ち引きと洪水の直撃を遮ります。堤の材は地域ごとに、土盛に柳束や竹簀で補強、石垣やレンガの護岸など多様です。要所には閘門を設け、潮汐の干満を利用して排水し、洪水時には逆流を防ぎます。内側の排水は、掘り割りや水路の網を張り巡らし、人力・畜力の水車(竜骨車・踏車)や後世にはポンプで補助します。排塩は重要な工程で、造成初期は浅い耕起と真水の繰り返し、塩分を含む上層土の搬出などを行い、徐々に作物が育つ土に調えます。
作付は稲作を軸に、地域と季節に応じて多角化されました。珠江デルタや福建では、湿地の土壌特性と気候を生かし、稲—甘蔗の輪作、麦・豆・菜の裏作、桑や果樹の栽培が組み合わされます。とくに広東では、堤の高まり(基)に桑や果樹を植え、低地を池(塘)として養魚に用いる「基塘」システムが発達しました。日本語では「桑基魚塘(そうきぎょとう)」とも呼ばれ、桑葉は養蚕に、養魚の排泄物は肥料に、池泥(塘泥)は畑の改良土に、枝葉は飼料や燃料に回るという循環が構築されます。囲田の内側で立体的に養蚕・園芸・畜養・稲作が連結され、土地当たりの生産性を高めました。
治水の運用は季節律に敏感でした。雨季には堤の監視と水門操作が最優先で、高潮・台風・上流の増水に備えます。乾季には堤の補修、内水路の浚渫、畦畔の補強を行い、塩水の浸入を防ぐための土木が続きます。囲田は一度囲えば終わりではなく、「守り」「掘り」「流す」日常の連続が生命線です。大規模な堤防の破堤は一夜にして耕地と村を水没させ、塩害を残すため、共同の労役や資金の積み立てが制度化されました。
道具や技術の側面では、在地技術の柔軟な組み合わせが見られます。水位差を利用した板落としの閘門、潮汐の位相に合わせた開閉、簡易な逆止弁、竜骨車・桶車・踏車・風力ポンプなどの併用が典型です。近代以降はディーゼルポンプや電動ポンプが普及し、干満に頼らない迅速な排水・取水が可能になりましたが、同時に外海からの高潮リスクは増しており、高規格堤防と内水排除の能力をどう両立させるかが新たな課題になりました。
社会・経済と水利組織――宗族と共有地、地代・小作、国家と税、都市との結節
囲田の開発と維持は、家族単位を超えた共同体の組織力に依存しました。広東・福建の宗族社会では、同姓集団が祠堂(祖廟)を中心に土地・基金・文書を管理し、堤防や水門の維持を宗族規約で定めました。囲田の所有形態は混合的で、宗族の共有地(祠堂田・学田)と個人持分、寺廟や郷約の持地が重なり、収益は儀礼・教育・貧困救済に充てられることも少なくありませんでした。宗族の名望家や郷紳は、資金調達・紛争調停・対外交渉のハブとなり、公共財としての堤防を維持しました。
経営の現場では、租佃関係が広がりました。開発資金を出した地主層が囲田を区画し、小作に貸し付け、地代(現物・銀)の取り決めを結びます。稲—甘蔗—桑—魚の複合経営は、労働の季節分散と現金収入の多様化をもたらし、商人資本の進出を促しました。砂糖は加工・輸送に資本を要し、製糖所や運送業者、問屋といった都市の商人と農村の囲田が連結されます。囲田の産物は広州・福州・泉州などの港市と直接結びつき、海外交易(南洋・日本)とも通じました。
国家との関係では、囲田の登録・課税が重要です。干拓による新開地は当初、一定期間の減免や低税率が与えられ、その後は常課に編入されるのが通例でした。明清の税制では、土地台帳(賦役黄冊・魚鱗図冊)への編入、地等級の査定、堤防維持費(塘工糧)や水利賦の割当など、囲田特有の費目が設定されることがありました。水利組織は、官(県の水利官)と民(堤塘の会=水利会)が役割分担し、破堤・内水氾濫の損害負担、修復の労役・資金の割り振りを細かく決めます。これらの取り決めは、しばしば碑文・契約文書として残され、地域秩序の規範となりました。
囲田の社会性は、治安・紛争とも無縁ではありません。堤防や水門の管理は、上流と下流、上流の村と下流の村、囲の内と外の利害を鋭く対立させます。取水・排水の優先順位、洪水時の閘門操作、堤防の負担配分をめぐる争いは、宗族間・村落間の抗争(械闘)を誘発することがありました。逆に、定期的な共同労役(修堤)と慶事・儀礼の結合は、地域の連帯を育てる機会ともなりました。囲田は、物理的構造であると同時に、利害調整の政治空間でもあったのです。
環境と地域史への影響――デルタの変貌、都市化と養殖化、他地域との比較
囲田は、自然環境を人為的に作り替えるため、その影響は多面的です。河口や海岸の干潟は、囲田化によって湿地生態系が縮小し、魚介の産卵場・鳥類の休息地が失われる一方、内側の池・水路網は別種の生物多様性を生みました。堤防が河道の流速や土砂堆積を変え、デルタの地形を長期的に変化させることもあります。塩水の遡上を止めることで農地は安定しますが、洪水時には内水の滞留が深刻化し、排水能力を超えると長期湛水や塩害が発生します。気候変動と海面上昇が現実味を帯びる現代では、堤防の再設計や遊水地の確保、ポンプ能力の増強、湿地の回復が議題となっています。
20世紀後半以降、珠江デルタなどでは急速な工業化・都市化が囲田の景観を大きく変えました。かつての稲—甘蔗—桑—魚の複合経営は、輸出向けの養殖(海老・淡水魚)や園芸、施設栽培へと転換し、囲田の内側は大型の養殖池や温室に改造される例が増えました。道路・工場・住宅地が囲田を貫き、排水路の連続性が断たれると、洪水リスクは逆に高まります。香港新界の一部では、伝統的な塩田や囲田が保全対象となり、景観・文化遺産としての価値が見直されています。干拓地の歴史を単なる「過去の農業」とせず、現代の水環境管理・地域防災の文脈で活用する動きが広がっています。
比較の視点から見ると、囲田は世界各地の干拓・潟湖開発と多くの共通性を持ちます。オランダのポルダー、日本の有明海や江戸前の新田開発(干拓新田)、ベトナムの紅河・九龍江デルタの堤防(ダイク)と稲作、バングラデシュのクテム(堤囲い)などが、それぞれの自然条件と社会組織を反映した親類です。共通するのは、堤防・水門・排水路という土木の三点セットと、共同の維持管理、そして市場との結びつきです。他方、宗族や郷約といった東アジア固有の社会組織、桑・魚・砂糖という組み合わせ、潮汐の大きい沿海での淡水化技術など、囲田には地域的特質が色濃く刻まれています。
囲田は、単なる「田」の種類名ではありません。自然のリズムを読み、共同で堤を築き、季節ごとに水をさばき、複数の生産を循環させる総合システムです。そこには、技術・制度・文化の積み重ねが可視化されており、碑文や祠堂、水門の銘、堤の曲線、村落の配置にその痕跡が残ります。歴史を学ぶとき、地図の上で囲田の輪郭を追い、堤と水路の向き、村落と市場の位置関係を確かめることは、教科書だけでは捉えにくい地域社会のダイナミズムを手触りとして伝えてくれます。囲田は、過去の遺制でありながら、今なお水と土地の暮らし方を考えるための参照枠なのです。

