カブラル – 世界史用語集

「カブラル」は、通常ポルトガルの航海者ペドロ・アルヴァレス・カブラル(Pedro Álvares Cabral, 生没年不詳・1467/68頃?–1520頃?)を指し、1500年に大西洋を横断して南米の海岸(のちのブラジル)に到達した人物として知られます。彼の艦隊は、本来はインドへの第2次派遣として出帆しましたが、アフリカ西岸沖から「ヴォルタ・ド・マール(順風回帰航路)」を大きく西へ取り、4月に現在のバイーア州沿岸に接岸しました。ここでポルトガル王名において領有を宣言し、のちにトルデシリャス条約線の論理で正当化されます。上陸の模様は書記官ペーロ・ヴァス・デ・カミーニャの長文書簡に克明に記録され、現地の人びと(トゥピ系の諸集団)との最初期の接触、自然・資源、宗教儀礼の描写を伝えます。その後、艦隊は喜望峰を回ってインドのカリカットへ進み、武力衝突・商館設置・艦隊損耗を経験しつつ帰国しました。カブラルの航海は、大西洋世界とインド洋世界がひと続きの政治経済空間として結び付いていく転回点の一つでした。以下では、出帆の背景と航海計画、ブラジル到達と記録、インド航路での活動と帰国、名称・領有・その後の植民地化、そして評価と記憶の問題を整理して解説します。

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背景と航海計画――エンリケ航海王子以後の「海の国家」

15世紀のポルトガルは、エンリケ航海王子の後押しでマデイラ・アゾレスの開発、アフリカ西岸沿いの探検・交易・要塞設置を積み重ね、喜望峰(1497–99のヴァスコ・ダ・ガマ)を迂回してインドへ至る航路を開きました。香辛料(こしょう・肉桂など)の直接交易は、ヴェネツィア—アレクサンドリア—紅海—インドという既存の回路に対抗する国家プロジェクトであり、王室・豪商・騎士層・技術者(天文航法・造船)が一体となった半官半民の事業でした。

カブラルは大貴族出身の騎士で、1499年に王マヌエル1世からインド派遣の総司令に任命されました。艦隊は13隻前後・約1200名規模と推定され、物資・交易品・聖職者・工匠を含む「移動する商館・軍隊」の性格を持っていました。航法の要は、アフリカ西岸を南下後、南東貿易風をつかむために大西洋の沖合へ大きく張り出してから喜望峰方面へ折り返す「ヴォルタ・ド・マール」です。この操船は、風系・海流・緯度高度の観測(北半球では北極星、南に入ると南十字や太陽高度の計算)を組み合わせた、当時最先端の天文航法に裏打ちされていました。

1494年のトルデシリャス条約により、カーボ・ヴェルデ沖の子午線を基準に西はカスティーリャ(スペイン)、東はポルトガルの「勢力圏」とされていましたが、実際の経線位置・距離の測定には大きな不確定が残っていました。王室と航海士たちは、航路の安全確保と風を利するための西方偏位が、同時に「未知の土地」への接触を生む可能性を理解していたと考えられます。意図的探索か偶然かという議論は続いていますが、少なくとも制度的・技術的条件は両義性を孕んでいたのです。

ブラジル到達と最初の記録――ポルト・セグーロの十字架とカミーニャ書簡

1500年4月、カブラル艦隊は陸影を認め、やがて砂浜と森の広がる海岸に接近しました。今日のバイーア州南部(ポルト・セグーロ周辺)が比定地とされ、艦隊は錨を下ろし、十字架を立ててミサを捧げ、王の名の下に領有を宣言しました。この地は「ヴェーラ・クルス島(真の十字架)」、のちに「サンタ・クルスの地」と呼ばれますが、16世紀半ば以降は染料材パウ=ブラジル(ブラジルウッド)の交易が主となり、「ブラジル」という呼称が定着していきます。

現地の人びと(トゥピ=グアラニー系を中心とする海岸の諸集団)との接触は、贈与と観察の交互で進みました。赤い帽子や鏡、鈴などの小品を渡し、彼らの装身・身体描画・住居・食物・舟・楽器などが観察・記述されました。最重要史料は、艦隊の書記官ペーロ・ヴァス・デ・カミーニャが王に宛てた長文の報告書簡で、自然の豊かさと人びとの温和さ、裸身であることや戦闘の様子、宣教師の身ぶりに対する反応、金属の所有状況や染料材・綿花など経済的関心が、15世紀末のカトリック的世界観と商業的実用の混交として描写されています。

この「最初の遭遇」は、友好的な贈与と宗教儀礼の共有(ミサの見学)という表層の和やかさの背後に、領有宣言・採算対象の選別・労働力と資源の把握という植民の論理を孕んでいました。カブラルは長逗留を避け、数日間の停泊ののち、海岸に十字架を残してインドへ向けて帆を上げます。彼の首要任務は香辛料回廊の確保であり、大西洋岸の新発見は、当面のところ「将来の関与可能性」として王室に預けられました。

インド洋での活動と帰国――カリカットの衝突、商館、損耗

南大西洋から南緯へ深く下り、偏西風帯で東へ押し出されると、艦隊は喜望峰を回航します。この途上で激しい嵐に遭遇し、複数の船を失いました。東アフリカ沿岸では友好港で補給・修理を受け、のちインド西岸のカリカット(コーリコード)に到着します。ヴァスコ・ダ・ガマが開いた関係を引き継ぎ、商館設置と香辛料の購入を進めますが、現地のムスリム商人の既得権やザモリン王の統治との摩擦が激化し、商館は襲撃を受け、多数の死者が出ました。

カブラルは報復として港内で敵対船舶を拿捕・焼却し、交渉を断ち切って南下、コーチンやカナノールなどザモリンの対抗勢力と交易関係を結び直しました。艦隊は分派して帰途につき、香辛料を積んだ船の一部は無事リスボンに帰還、王室の計画にとって一定の成果をもたらしますが、人的・物的損耗は大きく、カブラル自身の評価は後任者(アルメイダ、アルブケルケ)ほどの光彩を放ちませんでした。彼はのちに宮廷を離れ、半ば隠棲的に余生を送ったと伝えられます。

それでも、彼の遠征が示した事実は重いものでした。すなわち、大西洋の「西の岸辺」とインド洋の「東の香辛料都市」を同一の艦隊運用で結び、ポルトガル王室が両海域に同時に利害を持つ体制を実証したことです。これによって、以後の半世紀にわたり、ブラジル木・砂糖・奴隷・金銀・宝石・染料・木材と、インド洋の香辛料・テキスタイル・陶磁・馬・銀が、同じ国家財政・海軍・商館網の下で相互に資金繰りされる「大回路」が回り始めます。

名称・領有・植民地化――トルデシリャス、パウ=ブラジル、砂糖と奴隷制

カブラルが「聖十字」と呼んだ地は、16世紀中葉には「ブラジル」の名で定着します。これは、ヨーロッパで赤色染料として高値で取引されたパウ=ブラジル(brazilwood, 団扇楓に似たマメ科樹木)の荷札名が地名化したものです。ポルトガルは初期には沿岸の「航海商権」を私商に与え、木材伐採と積み出しのための交易拠点(フェイトリア)を設置しました。やがてフランスなど他国の密貿易・海賊化への対抗、内陸資源と農業開発への関心の高まりから、王室はより直接的な統治を志向します。

1530年代、王室は「ドナーターリオ制(恩貸領主制)」の下で沿岸を複数の区画に分け、貴族・功労者に世襲の開発権を与えました。これが十分に機能しなかったため、1549年にはトメ・デ・ソウザを初代総督として派遣し、サルヴァドールに総督府を置きます。砂糖プランテーションの拡大は、先住民の労働力動員(と抵抗・逃散)と、のちのアフリカからの奴隷移入を伴い、17世紀には大西洋三角貿易の一角としてブラジルが編み込まれていきます。カブラルが記録した最初期の友好的接触から、植民地社会の形成に至るまでの約半世紀は、交易から領有、そして本格的植民へと段階的に進む時期でした。

領有の法的正当化には、1494年のトルデシリャス条約が援用されました。実測が不確かなままに引かれた子午線は、ブラジル東岸の一部をポルトガル側に含む結果となり、スペインとの摩擦を最小化しました。のちの条約改定や境界画定で修正が加えられるにせよ、「西に突き出たポルトガル領南米」という地図像は、カブラル以後の歴史が固定化していく重要な前提となりました。

評価と記憶――偶然か計画か、そして二人の「カブラル」

カブラルの航海については、ブラジル到達が意図された迂回だったのか、風流に従った結果の偶然だったのかをめぐる議論が長く続いてきました。資料的には、王命の具体的文言や艦隊の操船判断を決定的に示す一次史料は少なく、航法上の必然(西へ振るほうが安全で速い)と政治的思惑(条約線の西に未知の土地があるかもしれない)を重ね合わせて理解するのが妥当とされます。重要なのは、偶然性の度合いではなく、遭遇を領有へ、領有を制度へ転じる国家の速度と能力でした。

カブラル個人の生涯は、ヴァスコ・ダ・ガマやアルブケルケほど派手な軍事的・行政的成果を持たないため、伝記的影は薄くなりがちです。しかし、大西洋—インド洋複合回路の初期を担った点、ブラジルという巨大な歴史世界への「最初の扉」を開いた点で、象徴的な意味は極めて大きいと言えます。ブラジル国家は19〜20世紀にかけて4月の到達日を「発見」の記念日として祝し、教育・記念碑でその名を刻みました。他方で、先住社会の視点から見れば、それは外来権力の到来の端緒でもあり、カミーニャ書簡を含む初期史料の語りを、植民の言説として批判的に読む姿勢が今日では重視されています。

なお、世界史用語としての「カブラル」には、もう一人、20世紀のギニア=ビサウ/カーボヴェルデ独立運動の指導者アミルカル・カブラル(Amílcar Cabral, 1924–1973)がいます。彼はポルトガル帝国末期の植民地解放運動を理論と実践で牽引し、アフリカ現代史で大きな足跡を残しました。文脈によってはどちらの「カブラル」かを区別する必要がありますが、日本の教科書で単に「カブラル」とある場合は、通常ペドロ・アルヴァレス・カブラルを指します。

総じて、カブラルの名は「偶然と必然の交差点」に置かれています。航法・風系・条約線・王権・商業・宣教という複数の力が、1500年の春に一つの海岸線で交わり、そこから五百年以上の歴史が分岐しました。大西洋世界の形成、ブラジル社会の多層性、インド洋での衝突と共存—そのすべてのプロローグに、カブラル艦隊の白帆が翻っていたのです。彼を学ぶことは、単なる「発見者」の英雄譚でも、偶然の逸話でもなく、近世世界のつながり方を理解する入口になります。