司馬遷(しば せん/Sima Qian, 前145?–前86?)は、前漢の太史令として『史記』を著した中国史上屈指の歴史家です。父・司馬談の遺志を継ぎ、伝説時代の黄帝から前漢の武帝に至るまでの通史を、帝王中心の本紀、諸制度を論じる書、諸侯と名門を扱う世家、人物史の列伝、年表の表という五部構成で叙述しました。李陵弁護事件によって受けた重罰(宮刑)を契機に、彼は個人の屈辱と職業的使命を『史記』の筆に昇華させ、権力と人間の真実を描き出そうとしました。『史記』は文学性と史実探求の緊張に満ち、のちの正史の規範となると同時に、人物伝記の古典として東アジア全域で読み継がれています。
生涯と時代背景:父の遺志、武帝の時代、そして李陵事件
司馬遷は太史令(天文・暦法・史録を司る官)であった司馬談の子として出生し、若年から全国を遊歴して地理・風俗・古蹟を見聞しました。父談は老荘・陰陽・儒法など諸家を横断的に考察する学究で、『太史公自序』に見るように、史官の任務を「天地国是の記録」と捉えていました。前108年頃、父が病床で遷に『太史公書』(のちの『史記』)の継承を託し、遷は太史令の職を継いで編纂に着手します。
当時の前漢は武帝の強勢期で、対匈奴戦争・南越・朝鮮・西域方面への遠征、塩鉄専売や算緡をはじめとする財政・法制の強化が進みました。国家は拡張と統合の推力を増す一方、重税・徭役・法の苛烈化が社会に負担を与え、儒・法・陰陽・方術が交錯する思想環境のもとで、帝国の方向性が激しく議論されていました。
転機は李陵事件です。前99年、武帝の対匈奴作戦で将軍李陵が孤軍奮闘の末に降伏したと伝えられると、朝廷は激昂しました。司馬遷は廷議で李陵の戦いぶりを弁護し、単に「降降の罪」と断ずるのは不当だと主張します。これが武帝の逆鱗に触れ、遷は下獄され死刑相当の罪を宣告されました。彼は「必成父志」のために屈辱の宮刑を選び、獄中から出て後も沈黙と執筆を貫き、命を賭して『史記』を完成へ運びました。この体験は『報任少卿書(伯仲叔季のうちの任安への書)』に赤裸々に綴られ、個人の生存と歴史的使命の葛藤が文学的絶唱として残されています。
『史記』の構成と方法:五体の設計、資料批判、語りの技法
『史記』は全一三〇篇、約五十二万字から成り、本紀12(帝王の年代記)、表10(年表)、書8(律暦・封禅・河渠・平準など諸制度論)、世家30(周代の諸侯や秦漢の有力家の歴史)、列伝70(各時代の人物伝)という五体で構成されます。この設計により、王朝の骨格(本紀)と時代の制度(書)、地域と家門の継続(世家)、個々の人物の行状(列伝)、時間関係の一望(表)を相互参照できるようになっています。後代の「紀伝体」はこの枠組みを継承しましたが、王朝別の「正史」は基本的に一代一国史であるのに対し、『史記』は黄帝から武帝に至る「通史」を目指した点で先駆的でした。
資料面では、太史令としての官文書アクセス、諸国の国書・金石文、諸子百家の文献、口伝・民間伝承、現地踏査の記録が総動員されています。遷は各説を対照し、矛盾を抱えたまま併記する箇所も少なくありません。彼は史官の倫理として、実見・聞取・文献の三つ巴から最も合理的な線を引く態度を重視し、その判断過程を文中の小注や「太史公曰」の評論で明かします。これにより、単なる年代記ではなく、叙述と批評が一体化した「考える歴史」が形を取りました。
文体は、漢語散文の洗練と口語的な躍動が共存します。列伝では会話が生き生きと挿入され、将軍の決断、策士の弁舌、商人の算盤、侠客の義、遊士の放浪が劇的に描かれます。他方、本紀や書では簡潔な事実叙述と制度論が基調で、語りのレジスター(文体域)の切り替えが巧妙です。こうした文学性が、のちに司馬遷を「史家の史家」「史家の文学者」と称させるゆえんです。
主題と人物像:権力・財政・辺境・流通、そして人の光と影
『史記』の主題は多岐にわたりますが、いくつかの軸が繰り返し現れます。第一に、権力の生成と崩壊。殷周革命、春秋戦国の覇権、秦の一統と暴政、漢の創業と官僚制の確立など、権力の正統性・実力・制度の三者関係が描かれます。第二に、財政・経済と帝国。『平準書』にみられる国家の流通介入、塩鉄・均輸の議論、商人の活力と官の抑制、貨幣・度量衡の統一などが取り上げられ、政治と経済の相互作用が具体的に論じられます。第三に、辺境と多民族。『匈奴列伝』『大宛列伝』『朝鮮列伝』『南越列伝』など、漢帝国と周辺世界の交流・戦争・通商が客観的筆致で分析されます。使者の行路、物資、外交儀礼、婚姻政策、軍事の現実が細かく描かれ、内外の境界が動的であることが示されます。
人物像の彫塑(ちょうそ)において、司馬遷は単純な勧善懲悪を避けます。項羽は豪壮剛毅であるがゆえに破滅に向かい、劉邦は凡庸と狡知の混合で勝利者になる。商鞅は制度を立てて国を強くしたが、人心を失い悲劇的最期を迎える。蘇秦・張儀は弁舌の天才として国運を動かすが、策の反動と私生活の脆さが露呈する。司馬遷は、成敗の因果を個性と構造の絡み合いとして提示し、読者に多面的評価を促します。
また、下層・異端・少数の声を拾い上げた点も特筆されます。刺客列伝・游侠列伝・滑稽列伝・酷吏列伝・貨殖列伝など、正統史観では周縁に置かれがちな人々が「主役」として登場し、社会のエネルギーと矛盾が照射されます。『貨殖列伝』の市場観・利潤観は、倫理だけでは測れない経済の論理を示し、儒家的主流の偏見から距離を取る司馬遷の眼差しを象徴します。
自己意識と「太史公書」の倫理:報任少卿書と太史公曰
『報任少卿書』は、司馬遷が己の受刑と『史記』執筆の意義を弁じた有名な書簡です。彼は、古来の壮士・賢人が屈辱に耐え志を遂げた例を引き、個人の名誉よりも事業の完成を選んだ己の決断を、激烈な言葉で正当化します。ここには、史官として「天下後世の是非を定むる」責務への純粋な執念が宿っています。
本文中の「太史公曰」は、叙述者の姿が前面化する場所です。司馬遷は、功利的成功の表象に騙されることなく、人物の言行・時勢・結果を併置して短く剛直な判断を下します。彼の価値観は、儒家の仁義礼智信を軸にしつつ、法家の現実主義・陰陽家の宇宙観・道家の無為自然からの影響も見えます。多元的な知の折衷と、実際の政治の観察が結び付いた「史官の倫理」が、ここに結晶しています。
伝承・版本・受容:東アジアに広がる『史記』
『史記』は漢末から流布し、裴駰『集解』、司馬貞『索隠』、張守節『正義』など唐宋の注が定本化を助けました。宋刊本の整備、元明の彫版本、清の校勘により、テクストは安定度を増し、科挙・書院教育を通じて士人の必読となります。日本では飛鳥・奈良期の史書編纂に間接的影響を与え、中世以降は『史記抄』『史記評林』などを通じて武士・僧侶・町人にまで浸透しました。朝鮮でも訓点本・評点本が普及し、人物評価と政治文化の参照枠が共有されました。
文学的受容としては、唐宋以降の詩文が『史記』の語彙・典故を豊富に吸収し、明清小説・戯曲も項羽・劉邦・張良・韓信などの人物像を大胆に再解釈しました。近代以降、司馬遷は「自由な精神の史家」として再評価され、制度史・社会史・経済史の観点から『史記』を読み替える試みも盛んです。
評価と誤解の整理:正史の祖か、文学者か、告発者か
司馬遷への評価は、時代や立場で揺れます。彼はしばしば「正史の祖」と呼ばれますが、厳密には『史記』は後代の国家編纂による「国史・実録」とは異なる民間寄りの著作です。だからこそ、体制の枠に縛られない大胆な構成と批評が可能でした。文学性を強調する見方もありますが、司馬遷の文体は史実の骨格を損なわない限度での演出であり、脚色のための虚構化を基本的に避けています。李陵弁護ゆえの「怨恨史観」との批判もありますが、彼は敵対者・嫌悪する人物にも長短を併記しており、個人的怨嗟に溺れた筆ではありません。
しばしば見られる誤解を三点指摘します。第一に、「列伝=逸話集」という理解。実際には、列伝は政治・社会史の断面を人物を媒介に精密に切り出す章で、制度論「書」と相補的です。第二に、「本紀=皇帝だけ」。『史記』の本紀には夏后氏・殷周の王に加え、秦始皇本紀・項羽本紀のように、王朝の正統を超える存在も含まれ、権力の実態と正統観念の緊張が意識的に仕込まれています。第三に、「史記=漢のプロパガンダ」。むしろ司馬遷は、武帝の強圧と政策の功罪を冷静に記し、時に痛烈な皮肉を投げかけます。
比較視野:班固・范曄・司馬光と司馬遷
後継の『漢書』(班固)は、同じ「紀伝体」ながら一王朝史として制度的整合を重視し、散文の典雅と注の充実で官撰正史の規範を確立しました。『後漢書』(范曄)は文采豊かで人物批評が鋭く、司馬遷の人物中心主義をさらに尖鋭化させた面があります。編年体の『資治通鑑』(司馬光)は、年次順の政治判断の連鎖を示し、司馬遷の人物像と制度・事件の因果の見取り図を別の角度から補います。これらを併読すると、東アジア史叙述の三つの型(通史的紀伝体、一代史的紀伝体、編年体)が互いに補完関係にあることが理解できます。
司馬遷を読むための視角:テクストと地理、制度と人物の往復
『史記』の読解では、(1)五体の相互参照――たとえば『平準書』と『貨殖列伝』、『匈奴列伝』と『漢武帝紀』を往復して、政策と現場の齟齬を可視化すること、(2)地理の把握――現地踏査を重んじた司馬遷に倣い、関中・河西回廊・中原・嶺南・東夷の空間配置を地図で確認すること、(3)文体の層――本紀・書と列伝の語りの差を受け止め、叙述の焦点の移動に注意すること、が有効です。こうした読みは、司馬遷の「人物を通して制度を描く」方法を追体験することにつながります。
結語:屈辱を越えて書かれた、通史と人間学の古典
司馬遷は、史官という公的使命と、個人の身体と尊厳の破壊という極限状況を、壮絶な執筆によって橋渡ししました。『史記』は王朝の盛衰を描くと同時に、人が名誉と利益、信義と計算、勇気と恐れのあいだでどう判断し、どう生きたかを問う「人間学」の書でもあります。彼の筆は、勝者にも敗者にも等しく光と影を当て、その混淆のなかに歴史の真実を見出そうとしました。だからこそ『史記』は、単なる古典にとどまらず、権力と倫理、制度と個人の永遠の問題を私たちに考えさせ続けるのです。

