ジャルモ(Jarmo)は、イラク北部のザグロス山脈西麓に位置する新石器時代の集落遺跡で、前7000年紀前半(放射性炭素年代で概ね紀元前7000〜6000年頃)にかけて営まれた早期農耕村落として知られます。石器の磨製化、穀物の栽培化、山羊などの家畜化、定住家屋の建設、長距離交易の萌芽が一体となって確認できる点で、近東における「農業革命」の定番事例のひとつです。発掘は20世紀半ばにロバート・ブレイドウッドらによって本格化し、種子や動物骨、家屋跡と道具のセットが層位的に重なって出土したことで、狩猟採集から農耕牧畜へ、仮設小屋から耐久的住居へと移るプロセスを具体的に復元できるようになりました。チャタル・ヒュユクのような巨大都市以前、ハッスーナやサマッラの彩文土器文化以前の段階に属し、「小規模で分散的な定住の網」が地域の環境に即して生まれたことを示す好例です。以下では、位置と年代、集落構造と生業、物質文化と交易、近隣文化との比較という流れで整理します。
位置・発見・年代――ザグロス山麓の小盆地に生まれた定住
ジャルモ遺跡は、現代のイラク・クルディスタン地域(キルクーク県周辺)の丘陵地にあり、標高は平野よりやや高い台地状の立地です。ザグロス山脈からの支谷がつくる小盆地は、降雨が比較的多く、自然の牧草地と低木林、季節的に水の確保が容易な湧水点に恵まれていました。灌漑運河を必要とするメソポタミア低地と異なり、雨水農耕(ドライ・ファーミング)が可能な環境です。この「半乾燥・半山地」の立地は、野生穀物の分布域と重なり、狩猟採集の移動経路から定住へと移る際のコストを下げる条件となりました。
本格発掘は、1948年から1955年にかけて、シカゴ大学東洋研究所のロバート・J・ブレイドウッドの隊によって実施されました。彼は植物考古学・動物考古学・地質学などの専門家を早期からチームに組み込み、種子・花粉・土壌・骨格の分析を並行して進める「総合考古学」の先駆を切り開きました。放射性炭素年代測定の初期導入も相まって、層位と年代の整合が高精度で確かめられ、遺跡内の文化層が時間とともに変化する様子(家屋の建て替え、土器の増加、家畜化の進行)が段階的に描き出されました。
年代観については、出土資料の再検討と追加測定によって幅のある議論が続いていますが、概ね紀元前7000〜6000年頃の占地が中核とされます。初期の段階では土器がほとんどなく、後期になると素朴な土器の使用が見られるなど、「無土器新石器(アセラミック)から有土器新石器へ」の移行を示す痕跡が注目されます。これは、調理と貯蔵の技術革新が生活に与える影響を具体的に追う材料になります。
集落構造と生業――泥レンガの家、栽培化穀物、山羊・犬の家畜化
ジャルモの住居は、日干し煉瓦(アドベ)の矩形平面で、部屋をいくつか連結した小規模な家屋が多く確認されます。床は踏み固めた土に石膏(プラスター)を塗って平滑化し、壁際に炉や作業台、収納用の小さな区画が設けられていました。家屋は不定期に建て替えられ、古い壁を崩して再利用したり、基礎の上に新しい壁を重ねたりするため、遺丘(テル)状の微高地が形成されます。家と家の間には細い路地や作業スペースがあり、家族単位の生産と近隣の協力が並存していたことがうかがえます。
植物遺体の分析では、コムギ(単粒・二粒系)やオオムギ、レンズマメ、エンドウなどの栽培化作物が確認され、野生種に比べて脱粒性の低い穂軸(ラキサノン)や大きい種子といった「家化形質」の割合が高まっていく傾向が見られます。石臼やすり石、穀粒の炭化痕、収穫用の石刃(鎌刃)に付くシリカ光沢(シックル・グロス)は、刈り取り→脱穀→粉砕→調理という連続作業が日常化していた証拠です。ピスタチオやアーモンドなど、周辺に自生する木の実も併用され、農耕・採集のミックス経済が想定されます。
動物骨格の比率からは、野生のガゼルやイノシシ、シカなどの狩猟が続く一方、山羊の家畜化が進行していたことが明らかになりました。角の切断痕や性・年齢構成(若い雄の高い淘汰率)は、群れの管理が行われていたことを示し、放牧と囲い込みを使い分ける初期牧畜の姿が浮かび上がります。羊の導入はやや遅れる傾向があり、地形と植生が山羊に適していた可能性が指摘されます。犬の骨も見つかっており、狩猟や家畜管理の補助として人間の生活空間に組み込まれていました。
食料の安定は、出生率や定住性の上昇を通じて人口の緩やかな増加をもたらし、家屋の密度と再建サイクルの短縮につながります。他方で、作付けの失敗や病害、干ばつなどのリスクに備えるため、貯蔵用の穴や甕の使用が進み、近隣集落間の交換関係(種子・道具・婚姻)を広げる動機も強まりました。ジャルモは、まさに「生計技術と社会的ネットワークの拡張」が同時進行する段階を代表しています。
物質文化と交易――石器・土器・小像・黒曜石が語る世界の広がり
石器は、打製の刃部を磨製柄部に装着する複合工具が一般的で、細長い剥片から作る石刃(ブレードレット)、掻器、スクレイパー、穿孔具、鎌刃などが家庭の基本セットとして出土します。磨製石斧やノミは木工に用いられ、家屋の建て替えや柵の設置に役立ちました。とりわけ鎌刃の使用痕は明瞭で、穀草の繊維を切断した際に付く微小磨耗が、収穫の反復を可視化します。大形の石臼・すり石は、共同で使用された可能性が高く、家屋間での貸し借りや作業の分業が想像されます。
土器は遺跡の後期層で増え、薄手の素地に簡素な線刻や押捺を施したものが中心です。煮炊き・貯蔵の効率化は、栄養の抽出と保存期間の延長を通じて生活の変動リスクを下げました。まだハッスーナやサマッラ文化のような彩文土器は少なく、地域色の弱い「実用器」が主役です。土製の小像(フィギュリン)やスタンプ印章も見つかっており、豊穣・家畜・家族といった身近な対象への祈願、あるいは物品・容器の識別に用いられたと考えられます。女性像は誇張された腰腹部を持つことが多く、生命力や再生の象徴として解釈されますが、具体的な儀礼は確定できません。
特筆すべきは、黒曜石と貝類の出土です。黒曜石はアナトリア東部(例えばビンギョルやムシ地方)の原産地と化学組成が一致する例があり、数百キロメートルを超える長距離交換の回路がすでに機能していたことを示します。黒曜石は鋭利な刃を供給するだけでなく、希少価値のある装飾材としても用いられ、社会的関係を媒介する「贈与の品」として働いた可能性があります。貝はペルシャ湾沿岸由来が想定され、ビーズや飾りとして利用されました。これらの外来素材は、ジャルモの住民が山麓の環境に根差しつつも、はるかな遠方と結びついたネットワークの一員であったことを物語ります。
動植物以外の資源では、瀝青(ビチューメン)の利用も指摘されます。接着剤や防水材として、石器の柄付けや籠・容器のコーティングに使われ、技術の細部に「化学的知恵」が組み込まれていました。こうした微小技術の積層が、定住の持続可能性を底支えしたのです。
比較と意義――「小さな村としての革命」と近隣文化の連鎖
ジャルモは、レヴァントのナトゥーフ文化やPPN(無土器新石器)遺跡群、アナトリアのチャタル・ヒュユク、北メソポタミアのハッスーナ・サマッラ、後続するウバイド文化と連続・対比されながら理解されます。チャタル・ヒュユクのような壁画や巨大人口は見られないものの、ジャルモの価値は「大規模都市以前の、普通の村の合理性」にあります。すなわち、降雨に依存する畑作、山羊中心の牧畜、泥レンガの家、石臼による加工、黒曜石の流通という、後のメソポタミア北部に広く拡張する生活モジュールが、既にバランスよく揃っているのです。
このモジュールは、気候の揺らぎや人口圧に応じて柔軟に拡大・縮小でき、同質の村落が点在しながら相互に婚姻・交換を行う「ネットワーク型社会」の基盤になりました。やがて気候が安定し、人口が閾値を超え、技術(灌漑、畜群管理、土器生産、石器製作の専門化)が進むと、より大きな拠点(ハッスーナ、サマッラ、ハラフなど)へと連結されます。ジャルモはその前段階に位置づけられ、「農耕・牧畜・定住・交易」の四位一体が、巨視的な国家形成よりはるか前に地域スケールで完成していたことを示すのです。
考古学史の観点でも、ジャルモは重要です。ブレイドウッドの学際的チームは、後の環境考古学・考古植物学・骨学・化学分析の標準を先取りし、発掘現場での細かなサンプリングや浮選法の導入を通じて、微小遺物の収集を制度化しました。この方法論は、単なる遺物のコレクションではなく、「暮らしのプロセス」を復元する学問へと考古学を押し出しました。今日、気候変動や土地利用の問題を考える際にも、ジャルモで見られる小規模生業の柔軟性やリスク分散の工夫は、長期的な人間−環境関係を考えるヒントを与えてくれます。
総じて、ジャルモは「革命」を劇場型の大事件ではなく、家の中の炉、畑の畝、家畜の群れ、石臼のリズム、遠方から届く黒曜石など、日常の積み重ねとして示してくれます。この静かな変化の集合が、新石器の世界を形づくり、後の文明世界の前提を整えました。華やかな壁画や巨大神殿がない代わりに、ジャルモの地層には、普通の人びとの手つきと判断の痕跡が、丹念に刻まれているのです。

