概要
アメリカ独立戦争(American Revolutionary War / War of American Independence)は、1775年から1783年にかけて、北米の英領十三植民地がイギリス本国と戦い、フランス・スペイン・オランダの介入を得ながら独立を勝ち取った戦争を指します。主戦場はニューイングランドから中部・南部の沿岸地帯、西方境界地帯(オハイオ・ヴァレー)に広がり、海上では大西洋・カリブ海・インド洋に波及しました。交戦の中心は、大陸軍(ジョージ・ワシントン総司令官)と各地の民兵、王党派(ロイヤリスト)民兵を伴うイギリス正規軍・ドイツ諸侯の傭兵(いわゆるヘッセン兵)でした。戦争は軍事衝突にとどまらず、課税と代表、法の支配、人民主権、帝国統治と自治の原理をかけた政治・思想の争いでもありました。
本項では、①開戦と独立宣言までの政治過程、②戦争の展開(北部・中部・南部・西方・海戦)、③国際化と決戦、④講和の条件と帰結・意義、の順で整理し、学習上の要点をまとめます。独立戦争は「内戦」と「対外戦争」が重なる複合事象であること、そして講和後の国家建設(連合規約から合衆国憲法へ)につながる連続過程であることを念頭に置くと理解が立体化します。
開戦の背景と独立宣言—帝国危機から人民主権へ
七年戦争(フレンチ=インディアン戦争)後、英政府は帝国財政の再建と辺境統治の強化を目指し、印紙法(1765年)やタウンゼンド諸法(1767年)、茶法(1773年)などを相次いで実施しました。これに対して十三植民地では「代表なき課税は暴政である」というスローガンの下、不買同盟や決議・暴動が広がり、ボストン茶会事件(1773年)を境に対立は決定的になります。英側の強制法(港湾閉鎖、政府高官の本国送致等)は植民地の連帯を促し、第一次・第二次大陸会議(1774・1775年)が開催されました。
1775年4月、マサチューセッツのレキシントン=コンコードで銃火が交わり、民兵と英軍の戦いが全面衝突に発展します。大陸会議は大陸軍を創設し、総司令官にワシントンを指名しました。ボストン包囲は翌1766年3月、英軍撤退(エバキュエーション・デー)で一段落するものの、英軍は大兵力で再上陸を準備します。思想面ではペインの『コモン・センス』(1776年)が王政批判と独立の正当性を簡潔に説き、世論を一気に独立へと傾けました。
1776年7月4日、第二次大陸会議は独立宣言を採択し、自然権・政府の正統性・人民主権の原理を高らかに掲げます。ただし宣言は講和や承認を自動的にもたらすものではなく、以後も長期の戦争が続きました。社会内部では、王党派(ロイヤリスト)と革命派の対立が先鋭化し、商業都市・辺境・宗派・エスニシティに応じて忠誠の線引きが複雑に分岐しました。
戦争の展開—北部・中部・南部・西方・海上の多戦域
中部戦域(ニューヨーク—ニュージャージー—フィラデルフィア)。1776年夏、ハウ兄弟率いる英軍はロングアイランドに上陸し、ブルックリンの戦いで大陸軍を撃破、ニューヨーク市を占領しました。ワシントンはハドソン川流域からニュージャージーへ後退しますが、同年12月25–26日のデラウェア渡河でトレントンのヘッセン兵分遣隊を奇襲、翌1777年1月プリンストンでも勝利して士気を回復しました。英軍は1777年秋、ブランディワイン・ジャーマンタウンで勝ってフィラデルフィアを占領したものの、大陸軍はヴァレー・フォージで越冬し、フリードリヒ・フォン・シュトイベンの訓練で規律と射撃・操典を刷新します。
北部戦域(ハドソン上流—サラトガ)。1777年、バーゴイン将軍はカナダから南下し、ハドソン上流で米側部隊に包囲されサラトガで降伏しました。この勝利は戦争の転機となり、フランスを正式な同盟へと引き込みます(1778年)。
南部戦域(カロライナ—ジョージア—ヴァージニア)。英軍は王党派の動員に期待し、1778年末にサヴァナ、1780年にはチャールストンを占領して南部重視の戦略に転じました。初期の英側優勢(カムデン)に対し、ナサニエル・グリーン将軍は正面決戦を避け、補給線を狙う機動戦で英軍を消耗させます。キングス・マウンテン(1780)やカウペンス(1781)で米側が勝利し、コーンウォリス将軍はヴァージニアへ北上してヨークタウンに拠ります。パルチザン指揮官フランシス・マリオンらの遊撃も英軍を苦しめました。
西方境界とスペインの作戦。オハイオ川流域ではジョージ・ロジャース・クラークが英軍とその同盟先住民拠点を攻略し、西部国境の既成事実を積み上げました。スペイン領ルイジアナ総督ベルナルド・デ・ガルベスは、1779年以降ミシシッピ下流—モービル—ペンサコラを攻略し、英領西フロリダを制圧します。これにより英軍はメキシコ湾岸の足場を失い、カリブの補給網に打撃を受けました。
海戦とカリブ。仏艦隊の参戦後、海上は多国間戦争の様相を呈しました。ジョン・ポール・ジョーンズの私掠・通商破壊、仏西によるカリブ海での艦隊戦、インド洋方面での英仏の争奪は、英海軍の世界的負担を増やします。通商の混乱は、英軍の北米作戦にも影響を与えました。
国際化と決戦—チェサピークの制海権、ヨークタウン包囲、そして講和
フランスは1778年に正式参戦し、資金・装備・顧問団に加えて本格的な艦隊を投入しました。1781年、ロシャンボーの仏陸軍部隊がワシントン軍と合流し、南下してヴァージニアの決戦を狙います。決定的だったのは同年9月、ド・グラース提督の仏艦隊がチェサピーク湾口で英艦隊を撃退したことでした(チェサピーク海戦)。この海上優勢により、英軍はヨークタウンの救援を断たれ、10月、米仏連合軍の包囲砲撃の前にコーンウォリス将軍が降伏しました。これが実質的な戦争終局点となります。
ただし戦闘は即座に止んだわけではありません。ニューヨークや南部沿岸では英軍がなお拠点を保持し、海上戦も続きました。英国内では戦費と挫折への不満から政権が交代し、講和の動きが本格化します。交渉代表のフランクリン・ジェイ・アダムズらは仏の仲介を活用しつつも英と直接交渉し、合衆国に有利な国境と漁業権を勝ち取りました。
1783年のパリ条約は、①合衆国の独立承認、②北は五大湖・西はミシシッピ川・南は三十一度線を基本とする国境画定、③ニューファンドランド沿岸の漁業権、④戦時債務の支払い・ロイヤリスト財産への一定の配慮、を定めました。同年、英西仏間のヴェルサイユ条約ではスペインがフロリダを回復します。英軍は順次撤退し、ニューヨークのエバキュエーション(1783年11月)で占領は終息しました。
戦後、ワシントンは軍の私権化を拒み(ニューバーグ陰謀の沈静化)、自ら退任して文民統治の原則を示しました。連合規約のもとでの財政難・通商調整の不全・対先住民外交の課題は、やがて1787年の憲法制定へとつながります。北西条例(1787年)は新領域の編入手続きを整え、西方拡張の制度枠を提供しました。
帰結と意義—国家誕生の光と影、学習の要点
独立戦争は、人民主権・権利・共和政の理念を掲げる新国家の誕生をもたらしましたが、同時に矛盾も残しました。北部では漸進的奴隷解放が進む一方、南部では綿作の拡大とともに奴隷制が強化され、先住民は講和の交渉主体から排除されて土地喪失が加速しました。ロイヤリストは迫害や財産没収に直面し、多くがカナダ・英領へ移住します。女性は物資生産・看護・家政の維持などで戦時動員を支え、「共和母性」の理念が教育参加を後押ししましたが、政治的権利拡大は遅れました。経済面では、通商の再編と国内市場の形成が進み、金融・税制・通貨制度の再設計が急務となります。
学習の要点として、①年次の柱—1775レキシントン=コンコード/1776独立宣言・ニューヨーク失陥・トレントン/1777サラトガ/1777–78ヴァレー・フォージ/1778仏参戦/1780チャールストン失陥・カムデン/1781カウペンス・チェサピーク・ヨークタウン/1783パリ条約—、②人物—ワシントン、ハウ、バーゴイン、コーンウォリス、グリーン、ロシャンボー、ド・グラース、ラファイエット、フランクリン、ジェイ、アダムズ、ガルベス—、③戦域—北部・中部・南部・西方・海戦—、④文書—独立宣言・パリ条約・北西条例・連合規約—を対応づけて覚えると効果的です。加えて、内戦性(ロイヤリストと愛国派)、先住民・黒人・女性の経験という社会史の視角を年表に並走させることで、用語の理解は一段深まります。
総括すると、アメリカ独立戦争は、軍事史・外交史・思想史・社会史が交錯する長期過程でした。戦場での勝敗だけでなく、同盟・補給・訓練・情報・宣伝、そして講和交渉の巧拙が勝利の構成要素でした。理念の高みと現実の矛盾を併せて視野に入れることが、この戦争の意味を的確に捉える最良の方法です。

