概要
アメリカ・メキシコ戦争(Mexican–American War)は、1846年から1848年にかけてアメリカ合衆国とメキシコ合衆国の間で行われた戦争です。主戦場は、テキサス国境地帯から北部メキシコ(モンテレイ、ブエナ・ビスタ)、アメリカ西南部とカリフォルニア(ニュー・メキシコ、アルタ・カリフォルニア)、さらにはメキシコ湾岸から中央高原を経てメキシコ・シティに至るルートに広がりました。戦争はアメリカの勝利と1848年のグアダルーペ=イダルゴ条約の締結で終わり、米国はリオ・グランデ以北のテキサス国境を確定しつつ、アルタ・カリフォルニアとニューメキシコ(のちのカリフォルニア、ネバダ、ユタ、アリゾナ・ニューメキシコの大部分、コロラドとワイオミングの一部)を獲得しました。メキシコ側は国土の大きな部分を失い、国家財政と政治秩序に深い傷を負いました。本戦争は、米側では「明白な運命(Manifest Destiny)」と領土拡張の達成、奴隷制拡張をめぐる国内対立の激化、南北戦争世代の軍事的前史、メキシコ側では「米国の侵略戦争」の記憶と国家再建の出発点として歴史的意義を持ちます。
本項では、①背景と開戦、②戦争の展開、③講和と余波、④国内外の影響、⑤学習の要点と用語上の注意、の順に整理します。テキサス革命(1835–36年)と本戦争は別個の出来事であり、国境線の確定と広大な割譲という結末を生んだのは1846–48年の戦争である点に注意します。
背景—テキサス併合、国境論争、拡張主義と外交失敗
直接の発火点は、1845年のアメリカによるテキサス併合と、テキサスの国境をどこに置くかという争いでした。メキシコはテキサスの独立自体を承認せず、テキサスの南限をヌエセス川と主張しました。他方、米国・テキサス側はリオ・グランデ(リオ・ブラボ)までを領域とし、両主張の間の地域(ヌエセス—リオ・グランデ間)が係争地となりました。民主党のジェームズ・K・ポーク政権は拡張主義を掲げ、テキサス国境の確定に加え、アルタ・カリフォルニアとニューメキシコの獲得を対メキシコ交渉の目標に据えました。1845年末、スライデル使節を派遣して買収交渉を試みましたが、メキシコ側は受け入れず、外交は決裂します。
ポークはザカリー・テイラー将軍に命じてヌエセスとリオ・グランデの間の係争地へ進出させ、リオ・グランデ河畔に野営・堡塁を築かせました。1846年4月、同地域での小規模衝突(いわゆるソーントン事件)により双方の兵士が戦死・捕虜となり、ポークは「米国の領土で米兵の血が流された」として議会に戦争を要請、5月に宣戦が可決されました。野党ホイッグ党の一部や若きリンカンは大統領の主張する交戦地点の正当性に疑義を呈しましたが(スポット・レゾリューション)、開戦の流れは止まりませんでした。
戦争の展開—北部・西部・中央の三戦域
北部メキシコ戦域(テイラー軍)。1846年5月、パロ・アルトとレサカ・デ・ラ・パルマでテイラー軍はメキシコ軍を撃退し、マタモロスを占領します。秋にはモンテレイを攻略し、1847年初頭にサンタ・アナ将軍率いる主力が北上すると、ブエナ・ビスタの戦い(1847年2月)で決戦し、米軍は辛勝しました。この戦勝でテイラーは国内で名声を高め、のちの大統領選で勝利する足場を築きました。
西部・太平洋戦域(ケアニー遠征とカリフォルニア)。カーニー(スティーブン・W・ケアニー)将軍はサンタフェ街道を進み、1846年8月にサンタフェをほぼ無血で占領してニュー・メキシコを掌握しました。さらに西進してカリフォルニアへ向かい、同地では入植者の蜂起(ベア・フラッグ反乱)と米海軍(スロート/ストックトン)の沿岸占領が進んでいました。ロサンゼルス周辺では住民の反攻で一進一退となり、サン・パスカルなどの戦闘を経て1847年初頭にラス・アングストゥーラス、ラ・メサの戦いで米側が勝利し、南カリフォルニアも鎮定されました。海上では太平洋分艦隊がモントレーやサンフランシスコ(当時イェルバ・ブエナ)を確保し、補給の線を維持しました。
中央戦域(スコット軍の上陸とメキシコ・シティ進撃)。決定打となったのはウィンフィールド・スコット将軍の遠征です。1847年3月、米軍はベラクルスに大規模な上陸作戦を敢行し、包囲砲撃ののち降伏を受け入れました。内陸への進撃では、セロ・ゴルドでサンタ・アナ軍を破り、さらにコンテレラス、チュルブスコ、モリーノ・デル・レイ、チュルテペク(チャプルテペク)などの戦闘を重ね、9月にメキシコ・シティを占領します。市内外では激しい市街戦・砲撃があり、サン・パトリシオ大隊(アイルランド系移民の離反兵の部隊)など象徴的存在を含む多様な部隊が戦いました。占領後、米軍は秩序維持と補給線の確保に注力し、外交交渉の再開へと進みます。
講和と余波—グアダルーペ=イダルゴ条約、住民の地位、ガズデン購入
講和交渉では、米側のニコラス・トリストが中心となりました。彼は一時ワシントンからの帰還命令を無視して現地にとどまり、1848年2月2日、メキシコ・シティ北方のグアダルーペ=イダルゴで条約に署名します。条約は、①テキサス南限をリオ・グランデとする国境の確定、②メキシコから米国への広大な領土割譲(アルタ・カリフォルニアとニューメキシコ)と米側の代償金1500万ドル支払い、③米国によるメキシコに対する米国民の債権(約325万ドル)の肩代わり、④割譲地住民の市民権選択・財産権保護の約定、などを含みました。翌年までの批准過程で若干の修正が加えられ、最終的に発効します。
しかし、条約上の権利保護は現実にはしばしば侵害されました。カリフォルニアでは1848年に金が発見され(ゴールドラッシュ)、大量移民の流入と土地訴訟の激増が、カリフォルニオやヌエボメヒカーノの土地所有に深刻な影響を与えました。土地裁判法や英語による手続の壁、暴力的な奪取により、条約文言とは裏腹に多くの住民が権利を失いました。国境の再調整としては、1853年のガズデン購入(ラ・メシージャ購入)で現在のアリゾナ南部・ニューメキシコ南部の一帯が追加で米国に譲渡され、南部横断鉄道構想に資する地形が確保されました。
国内外の影響—奴隷制拡張の争点化、内戦世代の前史、メキシコの記憶
米国内では、獲得領土に奴隷制を認めるか否かが政治の中心争点になります。1846年に提出されたウィルモット但し書は、メキシコから獲得するいかなる領域にも奴隷制を禁止することを提案し、成立はしなかったものの、北部と南部の対立を鮮明化させました。1848年の自由土地党の結成、1850年の妥協(カリフォルニア自由州編入、逃亡奴隷法強化等)、のちのカンザス=ネブラスカ法と流血のカンザスへと連なる連続線上に、本戦争の帰結が位置づけられます。思想面では、ヘンリー・D・ソローが人頭税拒否で投獄され『市民的不服従』を著し、正義に反する国家政策への個人の抵抗を理論化しました。ホイッグ党の多くは戦争を「不正な拡張」と批判し、若きリンカンの「地点(スポット)決議」は大統領の開戦理由を問い質すものでした。
軍事的には、将来の南北戦争で主役となる多くの将兵—グラント、リー、マクレラン、ロングストリート、ジャクソン、ボーレガードなど—が本戦争で実戦経験を積み、上陸・補給・包囲・工兵・長距離縦深進攻などの教訓が後の戦略に影響しました。ベラクルス上陸から首都占領までの作戦は、当時としては稀な本格的遠征・首都攻略の成功例として軍事史上も注目されます。
メキシコ側では、戦争は「米国による侵略(Guerra de la Invasión Estadounidense)」として記憶され、失地と占領の体験が国家意識を強化しました。サンタ・アナの権力回帰と失脚、地域軍閥・財政危機・政争の連鎖は、国家建設を困難にしましたが、同時に近代化の必要性を突き付け、自由主義改革(レフォルマ)や後続の政治再編への伏線となりました。サン・パトリシオ大隊の記憶や市民の抵抗、教会と軍の役割をめぐる議論は、社会の多層な反応を映し出します。
国境地域社会では、メキシコ系住民(テハーノ、ヌエボメヒカーノ、カリフォルニオ)が米国の法制度・言語・経済に組み込まれ、土地・水利・鉱区をめぐる長期の紛争が生まれました。先住民社会(アパッチ、ナヴァホ、ユート、パイユート等)は新たな国境線の両側で軍事圧力と条約体制に巻き込まれ、19世紀後半の移住・保留地政策へと連続します。
学習の要点と用語上の注意—年次・戦闘・条約・区別を押さえる
学習では、①年次の柱—1845テキサス併合/1846開戦・パロ・アルト/モンテレイ/1847ブエナ・ビスタ・ベラクルス上陸・メキシコ・シティ占領/1848グアダルーペ=イダルゴ条約—をまず押さえます。②戦域別に、テイラー(北部)、ケアニーと太平洋艦隊(西部)、スコット(中央)を対応づけ、主要戦闘名(パロ・アルト、レサカ、モンテレイ、ブエナ・ビスタ、セロ・ゴルド、コンテレラス、チュルブスコ、モリーノ・デル・レイ、チャプルテペク)を地図上に並べます。③条約の条項(国境=リオ・グランデ、割譲地、1500万ドル、債権肩代わり、住民の権利)と、後日のガズデン購入を区別して覚えます。④国内政治の帰結(ウィルモット但し書→1850年妥協→南北戦争前史)と思想(市民的不服従、反戦ホイッグ)を関連づけます。⑤テキサス革命とアメリカ・メキシコ戦争の区別(前者は1830年代のテキサス独立、後者は米墨国家間戦争)を明確にします。
総括すると、アメリカ・メキシコ戦争は、領土拡張・国境紛争・国内政治・国民国家形成が重なった19世紀の典型的戦争でした。勝敗の物語だけでなく、条約と権利の履行、社会の再編、歴史記憶の形成に目を配ることで、この用語は単なる「米国の領土拡大の一挿話」ではなく、米墨双方の近代史を方向づけた分岐点として立ち現れます。

