概要
アメリカ連合規約(Articles of Confederation and Perpetual Union)は、アメリカ独立戦争期に十三州が採用した最初の中央政府の基本文書で、1777年に大陸会議が採択し、各州の批准を経て1781年3月1日に発効した憲章です。名称に「永久の同盟」とある通り、主権を保持する州が緩やかな連合を形成することを旨とし、単院制の連合議会を中心に最小限の共同統治を定めました。外交・戦争・条約・貨幣鋳造などの権限は連合に委ねられましたが、課税権・通商規制権・常備行政機構は極めて弱く、改正にも全州一致が必要でした。規約の下で連合議会は独立戦争の遂行、1783年パリ条約の締結、西方領土の編入手続(1785年土地条例・1787年北西条例)などの重要な成果を挙げる一方、財政難・州間通商の混乱・対外的威信の低下に苦しみました。これらの経験は1787年のフィラデルフィア会議と合衆国憲法の制定につながり、アメリカの連邦制と三権分立を生む土台となりました。
本項では、①制定過程と構造、②運用と成果、③限界と危機、④憲法への転換と歴史的意義、⑤学習の要点と用語上の注意、の順に整理します。独立革命の制度史として、規約の「弱さ」を単なる失敗ではなく、次段階の制度設計を導いた実験として読み解くことが大切です。
制定過程と構造—州主権の同盟と単院制議会
起源は独立運動のまっただ中にあります。1776年夏、独立宣言と並行して各州代表が「新たな連合の枠組み」起草に着手し、ディキンソン草案(ペンシルベニアのジョン・ディキンソンが主導)が基礎となりました。戦時の緊急性から、中央政府の権限は最小限に抑え、州の主権・自由・独立を確認する方向で議論が進みます。1777年11月15日、大陸会議は最終案を採択し、各州批准へ回付しました。州の領土要求や西方土地の帰属をめぐる調整に時間を要し、最後発のメリーランドが大規模領有州に西方領土の連合への譲渡を約束させた後、1781年に全州一致が整い発効しました。
規約は前文と13条から成り、骨格は次の通りです。第一に、各州の「主権・自由・独立」の確認と、連合への権限委任の限定です。第二に、単院制の連合議会を設け、各州は1票を持ち(代表人数は2〜7人で調整)、重要案件は9州の賛成を必要としました。第三に、外交・戦争・条約締結・貨幣鋳造・度量衡・郵便・インディアンとの関係などを連合の所管とし、課税・州内通商・司法・民兵の多くは州に留保しました。第四に、規約の改正は全州一致を要し、常設の行政府や全国裁判所を置きませんでした(特定の委員会・省庁的ボードは臨時に設置)。この設計は、王権的な中央権力への不信と、州の多様性・自律を尊重する感情の産物でした。
財政の仕組みも特徴的でした。連合議会は「割当(requisition)」方式で各州に戦費・運営費の分担金を請求できますが、強制徴収の手段を持ちませんでした。通貨発行(大陸紙幣)は戦時には不可欠でしたが、インフレを招き、戦後の信用危機を増幅させます。執行装置の薄さ、改正の硬さ、州間の利害対立が制度の脆弱性を構造的に埋め込んでいたのです。
運用と成果—戦時外交と条約、西方土地制度の確立
それでも連合規約期の政府は重要な役割を果たしました。第一に、独立戦争の終盤を統括し、同盟外交を維持したことです。フランス・スペイン・オランダとの関係調整、対英講和交渉を進め、1783年のパリ条約で合衆国の独立と国境(北=五大湖、西=ミシシッピ、南=三十一度線)、ニューファンドランド沿岸での漁業権などを獲得しました。これにより、新国家の国際的承認が制度上も確固になりました。
第二に、西方領土の処理で先例を築いたことです。バージニアやマサチューセッツなど大規模領有州が、革命協力の見返りとしてオハイオ川以北の広大な土地を連合に譲渡し、連合議会はこれを「国有地」として管理する方針を確立しました。1785年の土地条例は、直交座標の区画測量(タウンシップ方式)に基づく売却・入植手続を定め、公共教育のための区画留保という原理(1区画=学校)を導入しました。1787年の北西条例は、領域を準州として行政化し、人口・制度の条件を満たすと州として連邦に編入する段階的昇格制度を整備するとともに、同地域での奴隷制禁止、信教・陪審・適正手続などの権利保障を明記しました。これは後の合衆国拡張の標準モデルとなり、連邦制度の空間的運用を明確にする制度革新でした。
第三に、財政・金融の基礎的取り組みです。戦費調達と債務管理のため、ロバート・モリス(財務総監)が改革に当たり、商業銀行の先駆であるノース・アメリカ銀行(1781年)の設立や関税(インポスト)計画を提案しました。後者は全州一致要件のため成立しませんでしたが、後に合衆国憲法下で財政・通商権限を中央に集中する論拠となります。
限界と危機—財政破綻の恐れ、州間通商の摩擦、治安の動揺
規約政府の限界は、平時に入ると鋭く露呈しました。最も深刻なのは財政です。州からの割当金が滞りがちで、連合政府は兵士の給与・年金や対外債務の返済に窮しました。紙幣の信用は低下し、州ごとに通貨・関税・債務対策が乱立して、国内市場の統合は進みませんでした。州境での関税・通行税は州間通商を阻害し、輸出入の交渉力も各州バラバラで弱体化しました。対英関係では、条約で約した王党派財産の保護や債務の返済をめぐって国内履行が不徹底で、英軍が五大湖沿岸の一部要塞から撤退しない事態も生じ、外交上の威信低下を招きました。対スペインではミシシッピ河川航行の自由が制約され、西方開拓民の不満が高まります。
治安の面では、1786〜87年のマサチューセッツにおけるシェイズ反乱が象徴的です。農民・退役兵が税負担と差押えに抗議し、地方裁判所の閉鎖を試みる事態となりました。これは地方財政と信用危機、農村経済の疲弊を背景にしつつ、連合政府が迅速に秩序回復の兵力と資金を動員できない制度的弱さを露呈しました。州民兵と私的資金で鎮圧されたものの、秩序と信用の確立には、より強固な中央権限が必要だという認識が広がります。
制度面の硬直も問題でした。規約改正には全州一致が必要で、関税(インポスト)権限付与や通商調整権の創設、司法制度の整備といった最低限の改革案すら、1州の反対で頓挫しました。行政の連続性と統合調整機能が弱いため、外交・軍事・財政のいずれも長期的戦略が立ちにくく、州の短期利害に左右される傾向が強まりました。
憲法への転換と歴史的意義—「弱い連合」から「強い連邦」へ
危機への処方箋として、1787年にフィラデルフィア会議が招集されました。当初は規約の改良が目的でしたが、実務家・思想家たちは根本設計の見直しに踏み込み、連邦と州の権限を再配分し、立法・行政府・司法の三権分立を備えた新憲法案を起草しました。新憲法は、課税・通商・通貨・軍事・条約の中央集権化、上院・下院の二院制、行政府(大統領)と独立した連邦裁判所の創設、改正手続の現実性(連邦議会3分の2提案+州の4分の3批准)などで、規約の弱点を体系的に克服する構造を採用しました。
この転換は、単に「権限の強化」ではなく、広域市場と国家信用を維持しつつ、州の多様性と自治を包摂する「連邦主義」の制度化でした。規約期の経験がなければ、こうした精緻なバランス設計は生まれにくかったと評価できます。実際、北西条例の州昇格手続や権利保障の理念は、新憲法下の領土編入・権利章典に直接つながります。規約は短命でしたが、国家建設の「実験段階」としての歴史的価値は大きいのです。
政治思想の面でも、規約は「人民主権」と「州主権」の調停を試みた最初の制度でした。中央権力の抑制と自由の確保に重きを置く一方、公共財供給や外部効果の調整(通商・財政・治安)には不十分であるという教訓を残しました。これが連邦派・反連邦派の論争を触媒し、『連邦主義者論集』などの制度理論を生み出したことは、世界の立憲主義史の上でも重要です。
学習の要点と用語上の注意—条文骨子・年次・土地条例をセットで
学習時は、次の骨子を押さえると理解が早まります。①年次:1777採択→1781発効→1783パリ条約→1785土地条例→1786–87シェイズ反乱→1787北西条例・フィラデルフィア会議。②制度:単院制連合議会/各州1票/重要案件9州同意/改正は全州一致/連合の外交・戦争権限と、課税・通商・司法が弱い点。③財政:割当方式と紙幣インフレ、モリスの改革、インポスト案の挫折。④西方:領土譲渡→測量(タウンシップ)→準州→州という昇格モデルと奴隷制禁止(北西)。⑤危機:州間関税・対外威信の低下・治安の動揺と、強化された中央の必要性。これらを年表と地図(西方領土の帰属・測量区画)に重ねると、規約の抽象的条文が具体像を伴って理解できます。
用語上の注意として、第一に「連合規約(Articles of Confederation)」は「合衆国憲法(Constitution)」とは別文書で、制度の階梯が異なることを明確に区別します。第二に、規約の下でも「連合議会(Congress)」という名称が用いられますが、今日の連邦議会とは権限も選出法も異なる点に注意します。第三に、北西条例は規約政府の立法であるにもかかわらず、その精神が新憲法期の連邦制に継承されたことを押さえます。第四に、「弱さ=無意味」ではなく、「弱さが示した限界」が次段階の設計原理(課税・通商・司法・執行)を鍛えたという歴史的文脈を忘れないことが重要です。
総括すると、アメリカ連合規約は、革命期の不信と希望、州の自律と共同体の必要の間で揺れながら、独立の軍事・外交を乗り切り、西方拡張の制度枠を描いた「過渡期の憲章」でした。その不完全さは、合衆国憲法の連邦主義と三権分立を生んだ出発点であり、近代国家が自由と効率の均衡点を探るプロセスの実例として、現在も学ぶ価値があります。

