新聞 – 世界史用語集

新聞(しんぶん)とは、本来「世の中で起こった新しい出来事について、多くの人に伝えるためにまとめられた情報」を意味し、近代以降は、とくに印刷された定期刊行物(デイリー・ペーパーや週刊紙など)を指す言葉として定着しました。世界各地で発達してきた新聞は、単なるニュースの寄せ集めではなく、「情報を共有し、世論をかたちづくり、政治や経済・文化を動かすメディア」として重要な役割を果たしてきました。現代ではインターネットやテレビなど多様なメディアが存在しますが、その多くは新聞の仕組みや価値観を受け継いでいます。

世界史の流れの中で見ると、新聞は、①手書き・口伝え中心の情報伝達から印刷メディアへの転換、②市民社会や国民国家の成立と「世論」の誕生、③言論の自由・検閲とのせめぎ合い、④19〜20世紀の大衆社会とマスメディアの発達、⑤21世紀のデジタル化による変容、といった大きなテーマと深く結びついています。「新聞」という言葉を学ぶときには、単に紙の媒体としての新聞だけでなく、「人びとが情報をどう共有し、社会をどう議論してきたか」という広い視点から考えると理解しやすくなります。

この記事では、新聞の起源と発展、政治・社会との関わり、そして近現代における役割の変化を、世界史的な視野からたどっていきます。

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新聞の起源:印刷術と「ニュース」の誕生

新聞の歴史をさかのぼると、まず「ニュース(新しい知らせ)」を人びとがどう伝えてきたかに行き当たります。古代から中世にかけて、王や皇帝は勅令・公告を布告し、商人たちは市場の情報を互いに交換し、旅人は遠くの土地の話を語りました。こうした情報は、口頭で伝えられることが多かったのですが、一部は文書として残され、配布されることもありました。

たとえば、古代ローマには「アクタ・ディウルナ(毎日の出来事)」と呼ばれる公的な掲示板があり、元老院の決定や裁判の記録、重要な出来事が書き出されて、市民が閲覧できるようにしていたと伝えられます。また、中国の宮廷では、官僚向けに政務や地方の報告をまとめた「邸報(ていほう)」のような文書が配布されていました。これらは、現代の意味での「新聞」ではありませんが、「公的な情報をある範囲の人びとに伝える定期的な文書」という点で、新聞の祖先の一つと見ることができます。

しかし、広範な一般市民に向けてニュースを伝える「新聞」が本格的に登場するのは、近代ヨーロッパにおいてです。15世紀後半、ヨハネス=グーテンベルクによる活版印刷術の発明と普及によって、文字情報を大量に、比較的安価に複製することが可能になりました。これにより、宗教改革のパンフレットや政治的ビラ、商業広告など、多様な印刷物が流通するようになります。

16〜17世紀のヨーロッパでは、商人や金融業者を対象に、定期的に発行されるニュース・シート(ニュース・レター)が現れました。戦争や外交、商業取引の情報をまとめたこれらの印刷物は、主に都市の上層市民や商人層に読まれました。やがて、こうしたニュース・シートが、より一般市民を対象とした「定期刊行物」として整えられ、「ガゼット」と呼ばれる新聞が各地で生まれていきます。

17世紀初頭、ドイツやオランダ、イギリスなどでは、週刊あるいは隔週刊の新聞が発行されるようになりました。これらは主に政治・外交ニュースを扱い、価格も高かったため、読者は都市の商人や知識人が中心でしたが、「定期的に出るニュースの印刷物」という意味で、近代新聞の原型と見なされています。

こうした新聞を可能にしたのは、単に印刷技術だけではありません。都市経済の発達、識字率の上昇、郵便制度や交通網の整備、政治への関心の高まりなど、社会全体の変化が背景にありました。つまり、新聞は「印刷技術+都市市民社会」の産物だったと言えます。

近代新聞の発展:市民社会と世論の形成

18〜19世紀に入ると、新聞はヨーロッパとアメリカを中心に急速に発展していきます。市民革命や国民国家の形成とともに、「人びとが政治や社会問題について議論し、意見を持つ」ことが重視されるようになりました。このとき、新聞は「情報を伝える道具」であると同時に、「意見や主張を表明する場」としても重要性を増します。

フランス革命期には、多数の政治新聞・パンフレットが発行され、ジャコバン派・ジロンド派など、各勢力が自らの立場を主張し、世論に訴えました。革命期の新聞はしばしば激しい扇動的な表現を用い、敵対勢力を攻撃しましたが、それだけ「紙の上の言論」が政治を動かす力を持つようになっていたことを示しています。

19世紀前半、リベラルな憲法が広がるにつれ、新聞の発行自由をめぐる争いが各国で起こりました。王政復古のフランスやドイツ諸邦、ロシアなどでは、政府が新聞を厳しく検閲し、反政府的な記事を書く新聞社を弾圧しました。それに対して、新聞人や知識人は「言論の自由」「報道の自由」を訴え、弾圧と抵抗のせめぎ合いが続きました。

同じ頃、イギリスやアメリカでは、新聞の大衆化が進みます。印刷技術の向上と紙の大量生産、鉄道や郵便制度の発達により、新聞の大量印刷と広域配布が可能になりました。アメリカでは1830年代に「ペニー・ペーパー」と呼ばれる安価な新聞が登場し、労働者や庶民層にも手が届く価格でニュースが提供されるようになります。犯罪記事や事故、娯楽情報なども扱うようになり、新聞は「政治エリートだけのもの」から「大衆の読み物」へと変貌していきました。

19世紀後半には、新聞は「第四の権力」と呼ばれるほどの影響力を持つようになります。立法・行政・司法に対し、新聞は社会の監視者・批判者として振る舞い、不正を暴いたり、世論を喚起したりすることによって、政治に圧力をかけました。反面、新聞自体が特定の政党・企業・勢力に強く結びつき、偏った報道や煽動的なキャンペーンを行う問題も生じました。

国民国家の形成という点では、新聞は「国民」をつくりあげる重要な装置でした。共通の言語で、国内の政治・経済・文化ニュースが日々報じられることで、「同じニュースを同じタイミングで知る」経験が、人びとに「私たちは同じ国民だ」という感覚を育てました。ベネディクト=アンダーソンが述べた「想像の共同体」としての国民は、新聞や小説といった印刷メディアを媒介に成立したとされますが、その代表例がまさに近代新聞です。

日本とアジアにおける新聞の受容と展開

日本や東アジアでも、19世紀後半から新聞が急速に広がりました。日本では、幕末に文明開化の一環として洋式新聞が伝わり、明治維新前後にかけて「新聞紙」が次々に創刊されました。『横浜毎日新聞』(1870年)は日本初の日刊新聞とされ、以後『東京日日新聞』『読売新聞』『朝日新聞』などが相次いで登場し、政治・経済ニュースに加え、啓蒙記事や娯楽記事を掲載して大衆に訴えました。

明治初期の新聞は、「言論の自由」を求めて政府批判を展開する一方で、政府側からは「新聞紙条例」などによる検閲・弾圧の対象となりました。自由民権運動の盛り上がりとともに、多くの新聞が政府攻撃や民権思想の普及に貢献しましたが、同時に処罰や発禁処分も相次ぎました。ここには、「新聞=市民社会の声」と「国家権力による統制」の緊張がはっきり現れています。

日清戦争・日露戦争のころになると、日本の新聞は戦争報道を通じて、国民的熱狂を高める役割を果たしました。戦況速報や戦場美談を大きく取り上げ、講談調の派手な記事を載せることで、読者を引きつけました。一方で、戦争に批判的な意見や政府の失策を報じることは制限され、新聞は「国民統合と戦意高揚のメディア」として使われました。近代国家において、新聞は権力に対して批判的な役割も果たしうる一方で、国家が新聞を利用して世論を操作する道具にもなりうることがよくわかる例です。

中国では、19世紀後半の洋務運動の中で、上海などの開港場を中心に西洋式新聞が創刊されました。最初は外国人居留民向けの英字紙や中国人向けの商業新聞が多く、政治批判は抑えられていましたが、次第に改革派や革命派の言論活動の場としても機能するようになります。康有為・梁啓超らは新聞・雑誌を通じて立憲君主制や近代国家の理念を広め、孫文ら革命派もまた新聞を用いて清朝打倒と共和国構想を宣伝しました。

インドや東南アジアでも、植民地支配と近代教育の普及を背景に、現地語の新聞が発展していきました。これらの新聞は、しばしば宗主国政府の検閲を受け、抗議運動や独立運動の記事が問題視されましたが、それでも民族意識を高める重要な媒体となりました。ガンディーが刊行した新聞や、ベトナムのファン=ボイ=チャウらの新聞・パンフレットは、その代表例です。

このように、アジアにおける新聞の歴史は、「西洋起源の技術と媒体を、植民地支配や近代国家形成の中でどう利用し、抵抗や改革の手段に変えていったか」という視点から見ると、非常にダイナミックに理解できます。

20世紀の大衆新聞とプロパガンダ

20世紀に入ると、新聞はさらに大衆化し、巨大な発行部数を誇る「マス・メディア」となりました。技術面では、輪転機や写真印刷、電信・電話・無線電信の発達によって、ニュースを迅速に集め、大量の新聞を毎日配ることが可能になりました。都市の街角では新聞売りが声を張り上げ、通勤電車の中では多くの人が新聞を広げる光景が一般的になります。

この時期、多くの国で新聞は企業として大規模化し、資本を持つメディア・コングロマリットの一部となりました。広告収入が重要な財源となり、新聞の紙面にはニュースだけでなく、商品広告や娯楽記事、スポーツ欄、漫画など、多様なコンテンツが並びました。新聞は、「政治を動かす言論の場」であると同時に、「娯楽と消費文化の媒体」としても機能するようになります。

一方で、20世紀前半は、世界大戦と全体主義体制の時代でもありました。第一次世界大戦・第二次世界大戦では、各国政府が新聞を通じて戦意高揚や敵国への憎悪を煽るプロパガンダを展開しました。戦況に不利な情報や政府への批判は検閲され、新聞は「国家の声」を代弁する役割を強く担わされました。ドイツやイタリア、日本などのファシズム・軍国主義国家では、新聞はほぼ完全に政権の統制下に置かれ、反対意見は締め出されました。

ソ連や東欧の社会主義国家でも、新聞は「党の機関紙」として機能し、マルクス=レーニン主義に基づく公式イデオロギーを広める役割を担いました。そこでは、「報道の自由」ではなく、「革命の利益に奉仕する報道」が求められました。このような体制下では、新聞は情報源であると同時に、権力が世論を管理するための重要な装置でもあったのです。

それでも、世界の多くの地域では、20世紀後半にかけて民主化とともに新聞の自由が拡大し、「調査報道」「内部告発の報道」など、権力の不正を暴くジャーナリズムが発展しました。ウォーターゲート事件を暴いたアメリカの新聞報道は、現職大統領を辞任に追い込むほどの影響力を持ち、「新聞の監視機能」の重要性を象徴する出来事としてよく取り上げられます。

デジタル時代の新聞とその意味

20世紀末から21世紀にかけて、インターネットとデジタルメディアの急速な普及により、新聞は大きな転換点に立たされています。オンラインニュースサイトやSNS、ブログ、動画配信など、新しい情報媒体が次々と登場し、多くの人びとがスマートフォンやパソコンを通じてリアルタイムにニュースを受け取るようになりました。

その結果、紙の新聞の発行部数は多くの国で減少し、広告収入もインターネット広告や検索エンジン・SNSに奪われるようになりました。新聞社は、紙とネットの二本立て、あるいはオンライン版中心のビジネスモデルへの移行を迫られています。「新聞を読む」といったとき、それがかつてのように紙の新聞を広げることを意味するとは限らなくなりました。

しかし、デジタル時代になっても、「信頼できる情報を集め、整理し、検証し、編集して社会に届ける」という新聞的な役割はなくなっていません。むしろ、SNS上で真偽不明の情報やフェイクニュースが大量に流れるなかで、確かな取材にもとづく報道の重要性は高まっているとも言えます。多くの新聞社は、オンライン版で詳しい解説記事やデータ分析、調査報道を展開し、紙面では伝えきれない情報も含めて提供しようとしています。

世界史の視点から見ると、新聞の形は変わっても、「情報を共有し、社会を議論する場」という機能自体は、さまざまなメディアに受け継がれています。古代の公示板から近代の新聞、ラジオ・テレビ、そしてインターネットへと続く系譜の中で、新聞は一つの重要な段階でした。その役割は、国家・企業・市民が情報と権力をめぐってどのように向き合うかという問題と切り離せません。

「新聞」という用語に出会ったときには、単に紙の媒体としての新聞社・新聞紙を思い浮かべるだけでなく、印刷技術、市民社会、言論の自由、検閲やプロパガンダ、大衆社会、デジタル化といったキーワードをあわせて考えてみてください。そうすることで、新聞が単なるニュースの束ではなく、「近現代社会そのものを映し出す鏡」であることが、よりはっきり見えてくるはずです。