清仏戦争 – 世界史用語集

清仏戦争(しんふつせんそう)とは、19世紀後半、清朝中国とフランスがベトナム(安南)・中国南部をめぐって衝突した戦争で、主に1884〜1885年に戦われた武力紛争を指します。表向きの戦場はベトナム北部(トンキン)や台湾・広西などでしたが、その本質は「衰退しつつあった清朝が、東南アジアに進出する西欧帝国主義とどう向き合ったか」を示す出来事でした。この戦争で清朝は決定的な敗北こそ免れたものの、結果的にはフランスによるベトナム保護国化を認めざるをえず、中国の伝統的な朝貢圏は大きく後退しました。

世界史の教科書では、清仏戦争はしばしば「アロー戦争(第二次アヘン戦争)→太平天国の乱→洋務運動→清仏戦争→日清戦争」という流れの中で登場します。つまり、アヘン戦争以後の清朝が「近代外交と軍事技術にうまく適応できず、列強との局地戦争でじりじりと不利な立場に追い詰められていく過程」の一コマとして位置づけられます。清仏戦争自体は日清戦争ほど大きく扱われませんが、この戦争を通じて、清朝の軍事力と外交力の限界、フランスによるインドシナ支配の確立、中国南部社会の動揺など、さまざまな重要なポイントが見えてきます。

清仏戦争という用語を押さえるときは、「ベトナムをめぐる清朝とフランスの戦争」「清朝が名目上は勝利を主張しつつ、実質的にはフランスのインドシナ支配を認めた戦争」「洋務運動の限界が露呈した局面」といった観点を合わせておくと、全体像が理解しやすくなります。

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戦争の背景:ベトナムをめぐる勢力争い

清仏戦争の背景には、ベトナムをめぐる伝統的な朝貢関係と新たな帝国主義的進出の衝突がありました。長いあいだ、ベトナム(阮朝)は形式上、清朝に朝貢する属国と位置づけられていました。実際には、ベトナムは独自の王朝と行政を持つ独立国でしたが、外交儀礼の上では清皇帝への朝貢を通じて、「中華世界」の一部であることを認めていました。この構図は、東アジアの伝統的な国際秩序の一つのパターンでした。

一方、19世紀半ば以降のフランスは、ナポレオン三世の時代からインドシナ半島への進出を強めていました。カトリック宣教師の保護や自由貿易の確保を名目として、フランスは南ベトナムのサイゴン(現在のホーチミン)などを拠点に軍事介入を行い、1860年代までにコーチシナ(ベトナム南部)の植民地化を進めます。その後も、メコン川流域やラオス方面への進出を視野に入れ、ベトナム全域を自国の勢力圏に組み込みたいと考えるようになります。

こうした中で問題となったのが、ベトナム北部トンキン地方の扱いでした。トンキンは紅河デルタ地帯で、ハノイを中心とする地域です。ここは、清朝雲南・広西地方との交易ルートともつながっており、中国商人も多く出入りしていました。清朝にとって、トンキンは「朝貢国ベトナムの一部」であると同時に、「自国南西部と経済的・軍事的に直結する重要な緩衝地帯」でもありました。

1870年代から80年代初頭にかけて、フランスはトンキンへの影響力拡大を進め、ベトナム阮朝と不平等条約を結んで保護国化を図ろうとします。これに対して、ベトナム宮廷内には親仏派と反仏派が分かれ、反仏派は中国からの支援を求めました。清朝側も、完全にベトナムを見捨てるわけにはいかず、広西の旧ソンタイ軍や黒旗軍(清仏戦争の際に重要な役割を果たした中国系民兵)を通じて、トンキンでフランス勢力と対立する構図が生まれていきます。

つまり、清仏戦争前夜のベトナムは、「清朝の伝統的な朝貢圏」と「フランスの新たな植民地支配構想」がぶつかる場所となっていました。清朝内部でも、「ベトナム問題でどこまでフランスと対決するべきか」をめぐって意見が割れ、洋務派官僚たちは慎重な対応を模索しつつも、現地軍の暴走や世論の圧力に引きずられていくことになります。

戦争の経過:トンキンから台湾・広西へ

清仏戦争の直接の発火点は、1882〜84年ごろのトンキンでの軍事事件でした。フランスはベトナム宮廷との条約を根拠に、トンキンに軍隊を派遣して拠点を確保しようとしますが、そこに清朝の支援を受けた黒旗軍や現地勢力が抵抗し、フランス軍との戦闘が発生しました。清朝政府は表向きには黒旗軍などを「自国の正規軍ではない」と主張しつつ、実際には彼らを後援し、フランスの進出を妨げようとします。

1884年、フランスと清朝は一度講和交渉を行い、「天津条約(中仏天津条約)」という予備的な合意に達します。この合意では、清朝がベトナムに対する宗主権的立場を事実上放棄し、フランスの保護国化を黙認する代わりに、フランス軍の一時撤退などが約束されました。しかし、この条約の内容が現場の軍隊に十分伝わらなかったことや、清側現地指揮官の強硬姿勢などが重なり、トンキンの山岳地帯でフランス軍と清軍が衝突してしまいます。これを「北黎事件」と呼びます。

北黎事件でフランス軍に大きな損害が出ると、フランス国内では「清朝が約束を破り、陰からベトナムでフランス軍を攻撃している」として対中強硬論が高まりました。こうして、1884年夏、フランスは正式に清朝に対して宣戦布告し、清仏戦争が本格化します。戦場は、ベトナム北部だけでなく、台湾や中国南部沿岸にも広がっていきました。

フランスは海軍力を背景に、福建沿岸の馬尾(マウウェイ)に停泊していた清国艦隊を奇襲し、大きな勝利を収めます(馬尾海戦)。この敗戦は、洋務運動で整備されたはずの清国近代海軍の脆さを露呈しました。また、フランス艦隊は台湾北部の基隆や澎湖諸島を攻撃・占領し、中国沿岸貿易に圧力をかけます。一方、陸戦では、雲南・広西方面からトンキンに進出した清軍とフランス軍が山地・要塞をめぐって激しい戦闘を繰り広げました。

1885年初頭には、広西方面でもフランス軍と清軍のあいだで戦闘が発生し、両軍ともに大きな損害を出します。特にランソン方面の戦いでは、フランス軍が補給線の問題から一時撤退するなど、戦局は必ずしも一方的なものではありませんでした。フランス本国では、この戦役をめぐる軍事的混乱が政局にも影響し、内閣が倒れる「トンキン事件(危機)」を引き起こします。

しかし、総合的に見れば、海軍力と兵站の面で優位に立つフランスが清朝に対して圧力をかけ続け、中国経済にも打撃を与えていました。清朝政府内では、「これ以上の戦争継続は財政的・軍事的に困難である」との認識が強まり、やがて講和交渉再開への動きが加速していきます。

天津条約(中仏新約)と戦争の結果

1885年4〜6月、清朝とフランスは再び講和交渉を行い、新たな条約が締結されました。これを「中仏天津条約」あるいは「中仏新約」と呼びます。この条約によって、清仏戦争は正式に終結しました。

中仏天津条約の最も重要な内容は、清朝がベトナムに対する宗主権を放棄し、フランスによるベトナム保護国化を認めたことです。これにより、ベトナム(阮朝)は名目上は王朝を維持しつつも、実質的にはフランスの支配下に置かれ、のちにカンボジアやラオスを含む「仏領インドシナ連邦」の一部となっていきます。清朝にとって、これは長年の朝貢関係にもとづく東南アジアへの影響力が、大きく後退したことを意味しました。

フランス側は、当初要求していた巨額の賠償金などについては、国際情勢や財政事情を考慮して譲歩し、清朝に対して大規模な賠償を課すことはしませんでした。その結果、清朝政府は「賠償金を払わずに済んだ」ことをもって、「実質的な敗北ではない」「名誉はある程度守られた」と国内向けに宣伝する余地を得ます。しかし、実際には重要な属国を失い、国際政治の舞台では、清朝の弱体さが改めて印象づけられました。

条約では、貿易や辺境管理に関するいくつかの取り決めも含まれていましたが、本質的には「ベトナムをフランスの勢力圏と認める代わりに、これ以上の直接的衝突を避ける」という政治的取引でした。清朝は、洋務運動で整備しつつあった軍事力と財政基盤を、ここで無理に使い尽くすよりも、内政整備に回したいという現実的判断に傾いたとも言えます。

戦争終結後、中国国内では、戦争の責任をめぐって激しい批判と議論が起こりました。特に、清仏戦争における軍の指揮・装備の不備、沿岸防衛の甘さ、外交交渉の弱さなどが指摘され、「洋務運動は本当に国を強くしたのか」という疑念が強まりました。これは、のちに日清戦争での敗北と結びつき、「表面的な『中体西用』では近代列強には太刀打ちできない」という反省につながっていきます。

清仏戦争の歴史的意義

清仏戦争の歴史的意義は、単に一つの戦争の勝敗にとどまりません。第一に、東アジア・東南アジアの国際秩序の変化を象徴する出来事でした。伝統的な朝貢体制のもとで、中国は形式上、多くの周辺諸国に対して「宗主国」の立場をとっていましたが、清仏戦争でベトナム宗主権を失ったことは、その体制が欧米列強の帝国主義的侵出の前に崩れつつあることを、はっきりと示しました。

第二に、フランスによるインドシナ支配の確立という点です。清仏戦争後、フランスはベトナム・カンボジア・ラオスをまとめて仏領インドシナ連邦として再編し、植民地支配を強めていきます。この枠組みは、20世紀半ばのインドシナ戦争・ベトナム戦争に至るまで、地域の政治地図を規定し続けました。つまり、清仏戦争は、のちのベトナム近現代史の前提条件を作った一つの節目でもあったのです。

第三に、清朝内部の改革論争への影響です。清仏戦争での苦戦と曖昧な決着は、「洋務運動による軍事・工業の近代化は不十分である」との認識を強めました。戦争から10年後の日清戦争では、日本が近代国家として組織的な軍制・財政・産業を整えていたのに対し、清朝は旧来の官僚制と地方軍閥的な軍事構造を引きずり、惨敗を喫します。清仏戦争は、ある意味でその「予行演習」的な警告だったにもかかわらず、十分に受け止められなかったとも評価されます。

第四に、中国南部社会への影響です。清仏戦争の戦場の一つとなった広西・雲南・台湾などでは、戦争による被害に加え、軍隊の移動や徴発、難民の流出などが社会不安を増大させました。台湾では、フランス軍の基隆・澎湖占領を契機に、清朝による台湾統治の再編や防衛意識の高まりが見られ、のちの日本による台湾割譲(下関条約)をめぐる議論にも影を落とします。

最後に、清仏戦争は、「限られた範囲での局地戦に見えて、実は世界システム全体の再編と結びついていた」ことを示す事例でもあります。一見するとベトナム北部の山地や台湾の港町での戦闘に過ぎないように見えますが、その背後には、フランス本国の政治(第三共和政)、イギリスとの勢力バランス、インドシナの資源と市場、そして清朝の存亡が絡み合っていました。

世界史を学ぶとき、「清仏戦争」という用語は日清戦争・アロー戦争ほど目立たないかもしれませんが、その前後関係や結果を意識しておくと、19世紀後半の東アジアと東南アジアがどのようにつながっていたのか、そして清朝中国がどのように「半植民地化」への坂道を転がり落ちていったのかを、より具体的に理解することができます。