『使徒行伝』 – 世界史用語集

『使徒行伝』(伝統的表記。近年の訳では『使徒言行録』)は、新約聖書の第五書で、イエスの昇天後からおおむね1世紀半ば〜後半にかけての初期キリスト教の展開を叙述した歴史叙述作品です。著者は一般に『ルカ福音書』と同一の編集者(通称ルカ)とされ、二巻本として読まれることから「ルカ=使徒言行録」と総称されます。語りはエルサレムの共同体誕生、ペトロを中心とするユダヤ圏での活動、パウロの回心と地中海都市ネットワークでの宣教へと移り、最後はローマに到着したパウロの投獄下の宣教で終わります。単なる教会史ではなく、聖霊(霊)の導きと宣教(ミッション)、ユダヤ人と異邦人の普遍的共同体の成立を主題化する神学的・文学的作品であり、古代史の一次史料としても極めて重要です。

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成立・作者・性格:古代歴史叙述としての『使徒言行録』

本書は『ルカ福音書』に続く第二巻として、同じ献呈者テオフィロに宛てて書かれています。文体・語彙・神学的関心の連続性から共通の著者・編者が想定され、医師でパウロの同行者とする古代伝承がある一方、現代の多くの研究者は、パウロの直接の弟子よりも、パウロ伝承と諸資料を編集した後代の教養あるキリスト者と見なします。成立年代は一般に80〜90年代説が有力ですが、70年代後半〜2世紀初頭まで幅を持って議論されています。エルサレム神殿破壊(70年)の影がどの程度反映されているか、パウロ殉教(伝承ではネロ期)への言及がない点をどう評価するかが鍵です。

genre(文芸類型)の面では、古代の歴史・地理・航海記(例えばクセノポンやポリュビオスの伝統)に連なる散文で、固有名詞・道程・地方官の称号・法廷手続・船旅描写など、現地的ディテールがふんだんに用いられます。他方で、回心譚の反復(パウロの回心が三度語られる)、演説の構成(ペトロ・ステファノ・パウロ)、奇蹟や釈放のモチーフなど、神学的・修辞的配慮が明白です。従って、本書は「宣教の成功物語」と「古代の現場記録」の二重性を持ち、その扱いには文学批評と史料批判の双方が求められます。

本文伝承には、アレクサンドリア型と「西方型」(コデックス・ベザ Cantabrigiensis など)に代表される異伝があり、西方型は叙述が長く神学的強調が強いとされます。現代の校訂本(Nestle-Aland など)は、より短いアレクサンドリア系を基調にしつつ主要異文を注記します。翻訳の表題は日本語では長く「使徒行伝」が慣用でしたが、言葉と行い(言行)をともに強調する趣旨から「使徒言行録」の表記も広まりました。

物語の構成と主要場面:エルサレムからローマへ

序章と聖霊降臨(1–2章):冒頭でイエスは昇天し、弟子たちは祈りと選挙でユダの後継にマティアを選びます。五旬祭(ペンテコステ)の日、聖霊が降り、諸言語での宣教が始まります。「エルサレム→ユダヤとサマリア→地の果てへ」(1:8)のプログラム句は、全体構成の指針です。ペトロの説教と共同体の生活(共有・喜び・パン裂き)が描かれ、洗礼者が増加します。

エルサレム共同体と初期の迫害(3–7章):神殿の乞食の癒し、サンヘドリンでの弁明、共同体内部の秩序(アナニア夫妻の逸話)などを経て、七人の奉仕者(ディアコニア)選出がなされます。ステファノは長大な救済史的演説を行ったのち石打ちで殉教し、迫害が拡大、信徒がサマリア・シリア方面へと散って宣教が広がります。

周縁への拡大(8–12章):フィリポがサマリアで宣教し、エチオピア高官の受洗を記します。ダマスコ途上でのパウロ(サウロ)の回心・洗礼・宣教開始が語られ、ペトロはヤッファでのタバサの蘇生、百人隊長コルネリウスの家への訪問で、異邦人への洗礼を容認する転機を迎えます。アンティオキア教会が成立し、「キリスト者」という名称がここで初めて言及されます。ヘロデ・アグリッパ1世の迫害、ペトロの奇跡的な脱出もこの部に含まれます。

パウロの宣教旅行と会議(13–21章):アンティオキアから派遣されたパウロとバルナバは、小アジア・ギリシアの都市(ピシディアのアンティオキア、イコニオン、リステラ、テサロニケ、ベレア、アテネ、コリント、エフェソなど)を巡ります。ユダヤ人と異邦人に向けた講壇での説教、会堂での論争、市場での対話、職人ネットワーク(天幕作り)を基盤にした共同体形成が描かれます。重要な転換点がエルサレム会議(15章)で、割礼・食律をめぐる論争に、最低限の規定(偶像崇拝・不品行・血・絞め殺し肉の忌避)という妥協案が示され、異邦人の律法受容が緩和されました。

逮捕・弁明・ローマ行(21–28章):エルサレム帰還後の騒擾でパウロは逮捕され、総督やアグリッパ王の前で複数回の弁明演説を行います。カエサルへの上訴によりローマ行きが決まり、船旅の詳細な航海記、暴風と難破、マルタ島での越冬が描写されます。最後にローマでの二年間の軟禁下宣教が語られて物語は閉じます。パウロの裁判結末や殉教は記されず、開かれた終止形は、福音が帝都にまで届いたという象徴的達成を強調しつつ、読者に継続を促す構図と読まれます。

神学的テーマと文学技法:聖霊・普遍化・連続性・演説

本書の神学的中心は聖霊です。降臨は共同体誕生の印であり、宣教・癒し・大胆な証言を可能にします。ペンテコステの多言語現象は、バベルの物語の逆転として読まれ、民族語の多様性が普遍的福音の媒体となるという象徴的意味を持ちます。神の導きは、幻や天使の介入、くじ引き、祈りの合意など多様に示され、地理移動と物語進行の駆動力となります。

普遍化(異邦人の受け入れ)は、コルネリウス受洗とエルサレム会議を軸に描写されます。ユダヤ律法に基づく聖性境界が、聖霊の先行(先に降る)によって乗り越えられ、共同体は民族宗教から普遍宗教へと転じます。この転換は、地中海都市ネットワークでの家の教会と食卓の交わりを通じて制度化されていきます。

連続性のモチーフも顕著です。イエスの言行と使徒たちの行いが平行構造で描かれ、ペトロとパウロの奇蹟・迫害・法廷弁明は、受難と復活の証言を継承する者としての等位性を示します。神殿・律法・ローマ法への態度は、連続と新生の二重性のうえに整理され、ローマ当局はしばしば秩序の保護者として描かれます(これは護教的・弁証論的配慮とも読めます)。

文学技法として、演説は構造の要です。ペトロのケリグマ(イエスの生涯・死・復活・主メシアの宣言・悔い改めの招き)、ステファノの救済史的朗読、アテネ・アレオパゴスでのパウロの自然神学的弁論(「知られざる神」)などが代表例です。また、物語の一部に一人称複数の「わたしたち」文(we-passages)が挿入され、同行記録の体裁をとります。これを著者の実見の印とする伝統的見解と、資料の引用・文学的装置とする見解が対立します。

史料性・年代・論争点:パウロ書簡との関係と歴史復元の注意

『使徒言行録』は、パウロの生涯・旅程・同労者・地方行政の人名称号など、古代地中海世界の具体情報に富み、碑文・パピルス・ローマ法と照らして高い妥当性を示す箇所が少なくありません。他方、パウロ自身の書簡(ローマ、一・二コリント、ガラテヤ、フィリピ、一テサロニケ、フィレモン)と照合すると、エルサレム会議の経緯、アンティオキアでのペトロとの衝突、旅程の順序や同伴者名などに叙述差が見られます。ルカは調停的・統合的視点を採り、パウロは論争の当事者として鋭い主張を記すため、両者の資料価値は相補的に評価するのが適切です。

年代比定では、ガラテヤ書2章の会談と使徒15章の会議の同一性、クーディキオン地震やガリオン碑文(コリントの総督ガリオンの在任年)との照合、フェリクス・フェストゥスらの人名年表が糸口となります。一般的な復元では、パウロの第二回伝道旅行は50年代半ば、三回目が後半、ローマ到着は60年代初頭と見積もられますが、細部は学説が分かれます。

テクスト批判では、西方型本文(コデックス・ベザ D など)が挿入を含んだ長文傾向を示し、神学解釈の差に影響し得ます。神学的読解では、律法観・ユダヤ人への約束の継続・イスラエルと教会の関係、ローマ帝国への態度(護教か批判か)、財産共有の記述の性質(理想化か部分的実践か)が論点です。最後のローマ滞在の「開かれた結末」を、普遍宣教の継続性の合図と読む立場が有力ですが、逆に裁判結果の不在を史料的限界とみる立場もあります。

要するに、『使徒言行録』は、文学としての構成美と、歴史史料としての具体性を併せ持つ稀有な文書です。世界史学習の観点では、(1)ローマ帝国の道路・港湾・官僚制が宗教運動の拡散基盤となった事実、(2)都市ごとの会堂・市場・家の教会がネットワーク化していくダイナミクス、(3)法廷と市民権(パウロのローマ市民権)が宗教・政治の交錯点となった事情、の三点を押さえると、宗教史・政治史・社会史の接点が鮮明になります。

学習のコツ・誤解と整理:名称・範囲・資料の読み分け

まず、邦訳名の違いに注意しましょう。教団・版によって『使徒行伝』『使徒言行録』が混在しますが、内容は同一です。次に、十二使徒の「行伝」だからといって、全員の伝記ではありません。物語は初期にペトロ、後半はパウロに比重が置かれます。さらに、プロテスタント系注解ではパウロ書簡の優先、カトリック・正教系では『使徒伝承』と教会制度の連続性強調など、伝統による読みの差が生じます。複数の注解を併読し、本文の異文や史料の性格を意識して読むと、イデオロギー的単純化を避けられます。

最後に、年表と地図を併用して、(1)エルサレム(誕生)→アンティオキア(派遣)→小アジア・ギリシア(拡大)→ローマ(到達)の大きな矢印、(2)エルサレム会議という政策転換点、(3)法廷弁明と市民権の法制史的背景、を整理すると、単なる宗教物語を超えた初期地中海世界のモビリティ史が浮かび上がります。『使徒言行録』は、信仰の文書であると同時に、帝国と都市、制度とネットワークが織りなす世界史の教科書でもあるのです。