シェイエス(アベ・シェイエス、エマニュエル=ジョゼフ・シェイエス, 1748–1836)は、フランス革命の出発点で強い知的影響を与えた司祭・政治思想家・政治家です。とりわけ1789年に匿名で刊行したパンフレット『第三身分とは何か(Qu’est-ce que le Tiers-État?)』によって、国民の主権と代表原理を鮮烈に主張し、第三身分(平民層)を「国民=国家の全体」と同一視する論法で旧身分制の正当性を切り崩しました。彼は1789年の三部会で第三身分代表として台頭し、国民議会の宣言、憲法制定の手続(憲法制定権)などの理論化に大きく関わりました。革命が急進化する局面では目立って演説するよりも、制度設計やクーデタの裏方として動き、1799年ブリュメール18日のクーデタではナポレオンと結びつき総裁政府の終焉を演出しました。彼の中心概念は「憲法制定権(プヴァール・コンスティチュアン)」と「制定された権力(プヴァール・コンスティテュエ)」の区別で、前者は国民に固有であり、後者は憲法によって設けられた機関にすぎないという視点です。この切り分けは、近代立憲主義と民主政の自己理解に長い影響を与えました。
生涯の輪郭――聖職者から理論家へ、そして政変の演出家へ
シェイエスはブルターニュの小都市フレジュスに生まれ、神学教育を受けて聖職に就きました。啓蒙思想と経済学(フィジオクラート)に親しみ、パリでは教会関係の行政・統計に関わりつつ、社会の生産力と代表制の問題に関心を深めました。1788年末から1789年初にかけて、彼は身分制議会(全国三部会)の招集をめぐる論戦に参入し、パンフレット『第三身分とは何か』を刊行します。文体は簡潔で挑発的で、第三身分が「国家のすべてである(Tout)」という鮮烈な定義を掲げ、貴族と聖職者の特権を「寄生的」なものとして批判しました。
1789年、彼はパリの第三身分代表に選出され、三部会での議事手続の争いにおいて、身分別審議ではなく「頭数による共同審議(vote par tête)」を主張しました。6月、第三身分が「国民議会」を自称し、続く「球戯場の誓い」で憲法制定まで解散しないと誓った際、シェイエスは手続の論理を支える起草の一翼を担いました。彼は大演説家ではありませんでしたが、議事運営、宣言文の文案、委員会政治の背後で存在感を放ちます。
1791年憲法(立憲王政)の成立後、政治は急進化と反動を繰り返します。恐怖政治期には沈黙を保って身の安全を図り、テルミドール以降にふたたび表舞台に現れました。総裁政府(ディレクトワール)下では五百人会・元老会の議員や役職を務め、制度改革のメモや憲法草案を練り続けます。1799年秋、軍人ナポレオンがエジプトから帰国すると、シェイエスは軍の威信を利用して総裁政府を平和裏に終わらせる計画をまとめ、ブリュメール18日(1799年11月9日)の政変を成功に導きました。もっとも、彼が構想した「温和な寡頭制+強い仲裁者」の制度は、ナポレオンの個人的権力拡大の前に後退し、やがて統領政府(コンスュラ)で彼は周縁化されます。
帝政下では公務から距離を置き、王政復古後は貴族院議員として余生を送りました。思想家としての名声に比べ、政略家としては「計画は巧妙だが、最後に他者に主導権を渡してしまう人物」という評価がつきまといます。しかし、彼の論法は後代の立憲主義者・革命家・植民地独立運動に繰り返し参照されました。
『第三身分とは何か』――旧体制批判と国民主権の言語
『第三身分とは何か』は、短い三つの問いかけで始まります。「第三身分とは何か?――あらゆるもの。これまで政治体において何であったか?――無であった。何を求めるのか?――何かになりたい」。この修辞は、第三身分(農民・都市の庶民・商工業者・専門職など)が税負担と生産を担いながら政治的代表から排除されている現実を鋭く突きました。彼は、国家の「活力(travail)」と「生産」の源泉が第三身分にある以上、特権身分に政治的特権を認める根拠はないと論じます。
そのうえで彼は、代表の正統性を「社会の有用な機能(fonction)」に根拠づけ、身分ではなく「国民」概念に基礎を置き直しました。国民とは、特権によって国家の一般意志から自らを切り離した集団(特権身分)を除いた、残りの全体であると定義されます。彼は、特権の廃止、身分別議決の廃止、共同審議と頭数投票、地方行政の近代化、均一な徴税制度の導入などを説き、国家の再編を手続の言語で語りました。これは感情的な「貴族打倒」ではなく、手続と制度を通じて政治共同体の所有者を国民に戻すという提案でした。
さらに彼は、革命の主体がまず「憲法を制定する権能(プヴァール・コンスティチュアン)」を自覚し、それに基づいて既存の権力(王・貴族・聖職・司法など)を設計し直す必要を強調しました。彼の言う「制定権の所在」をめぐる議論は、アメリカ独立革命の経験とも響き合い、革命の正統性を「先在する国民の意思」に求める理論の精緻化に貢献しました。
憲法制定権と制度設計――「制定する者」と「制定されたもの」の区別
シェイエスの持続的な貢献は、憲法制定権(pouvoir constituant)と制定された権力(pouvoir constitué)の峻別にあります。彼によれば、憲法は「国民が自らに課すルール」であり、憲法によって設けられた機関(立法・行政・司法・地方行政など)は、国民の原初的意思に従属します。したがって、既存の機関が憲法を変更する権限を当然に持つわけではなく、憲法改正は特別の手続と主権者の同意を要します。この視点は、憲法の硬性化、改正手続の規定、権力分立の設計といった近代立憲主義の技法に理論的根拠を与えました。
1795年の総裁政府期、彼は二院制・執政府の分割などを含む憲法案を練り、権力集中の回避と行政の安定を両立させようとしました。彼は「仲裁者(ジュリー・コンスティチュショネル)」と呼ばれる合憲審査的な機関を想像し、立法と行政の衝突を法の次元で調停させる構想を抱きました。実際に導入された合憲審査制度は限定的でしたが、後世の憲法院・憲法裁判所の発想につながる先駆的提案でした。
ただし、彼の制度設計はしばしば「エリート主義的」と批判されます。民意の直接表出よりも、教養を備えた代表者による濾過(フィルトラージュ)を重視し、幅広い直接民主主義や急進的平等には慎重でした。恐怖政治の記憶があったとはいえ、この姿勢は「国民主権」を唱えた初期の熱情と対照的で、革命期の思潮の揺れを映しています。
ブリュメール18日のクーデタ――理論家の実務とその帰結
1799年秋の政変は、シェイエスの「制度を劇的に入れ替える技術」の集大成でした。彼は総裁政府の機能不全(汚職・財政難・戦争疲弊)を理由に、立法議会を郊外のサン=クルーへ移し、軍の保護の下で憲法改正のための非常手続きを進めるという筋書きを描きました。ナポレオンは軍の威信と個人的カリスマを提供し、議場の混乱を力で収めました。政変後の「統領政府」では、三人の統領のうち第一統領に実質権限が集中し、シェイエスが想定した調停機関や均衡は脇に追いやられました。
この経験は、彼の政治的限界を示すと同時に、理論が実務に入るときのズレを教えてくれます。すなわち、手続の巧妙さと制度の均衡だけでは、カリスマ的個人と軍の力学を制御できないという現実です。以後、ナポレオンの権威主義的統治が強まると、シェイエスは政界から後退しました。とはいえ、政変の「合法化」のために用意された法技術のレパートリーは、19世紀のクーデタや憲法改正の実務に影響を残しました。
著作・語彙・受容――近代政治言語への残響
シェイエスの著作は、パンフレットのほか、憲法に関する覚書、選挙制度・地方行政・代表原理についての短論が中心です。『第三身分とは何か』の修辞は、国民国家の時代の政治言語に深くしみ込み、特権の否定、等税・平等、代表の正統性、行政の統一などの語彙を整えました。彼の「国民」「代表」「機能」といった語の結びつけ方は、単なるスローガンではなく、経済と行政の実務を視野に入れた手続の言語でした。
受容史を見ると、19世紀の自由主義者・保守主義者・社会主義者はいずれも、彼の一部を継承し一部を批判しました。自由主義は国民主権と立憲主義の分別を高く評価し、保守主義は秩序の重視と反急進性を好意的に読み、社会主義は「国民」の語が階級不平等を隠しやすい点を批判しました。20世紀の憲法学では、カール・シュミットをはじめ多くの論者が「憲法制定権」を理論化する際にシェイエスを参照し、民主政と非常権力の関係をめぐる議論で彼の名が再浮上しました。
文化的記憶としては、『第三身分とは何か』の冒頭の三連句と、国民議会成立・球戯場の誓いを支えた理論家という像が定番です。同時に、ブリュメールの策動家、ナポレオンに利用され後景化した人物という二面性も語られます。革命の「声の大きな英雄」ではなく、「手続を設計する陰の技術者」としての姿が彼の個性でした。
用語整理――理解のためのキーワード
・『第三身分とは何か』:1789年刊。第三身分=国民の全体という定式で旧体制を批判したパンフレットです。
・第三身分/特権身分:フランス旧体制の身分区分。第三身分は平民層、特権身分は聖職者・貴族を指します。
・憲法制定権(pouvoir constituant):国民に先在する原初の権能。憲法を制定・改正する権利で、国家機関に優越します。
・制定された権力(pouvoir constitué):憲法によって作られた政府諸機関。制定権に従属します。
・頭数投票(vote par tête):身分別ではなく個々の代表の数で議決する方式。国民議会成立の要でした。
・ブリュメール18日:1799年11月の政変。総裁政府を倒し統領政府を樹立。ナポレオン台頭の節目となりました。
・仲裁者/合憲仲裁(jury constitutionnaire):立法・行政の衝突を調停する機関を構想した概念です。
総じて、シェイエスは、革命の情念を「手続のことば」に翻訳した人物でした。彼は国民主権を空疎なスローガンにせず、代表・選挙・行政・合憲性という装置に落とし込もうと努めました。演説家でも軍人でもなく、クーデタの最後は他者に主導権を奪われましたが、憲法制定権と代表制の理論が残した影響は長く、19世紀以降の立憲秩序の設計図に刻まれ続けています。彼の文章は短く、譬喩は鋭く、手続は冷静です。その冷静さが、熱狂と暴力に揺れる革命のただ中で、政治を制度へ戻す力を発揮したのだと評価できます。

