光州(クワンジュ)事件 – 世界史用語集

光州(クワンジュ)事件、すなわち「光州民主化運動(5・18)」は、1980年5月に韓国の光州広域市で起きた民衆抗争です。非常戒厳下で学生デモの鎮圧が暴力的に行われたことを契機に、市民が広く合流して地域全体の抵抗へと拡大し、約10日間にわたり行政・治安の空白を埋める自主管理が試みられました。軍の武力投入によって多数の死傷者を出しつつ鎮圧されましたが、その経験はのちの民主化運動の象徴となり、1990年代以降は国家的な再評価と法的名誉回復が進みました。光州は、権威主義体制の下で言論が遮断される中、市民が連帯して公共性を守ろうとした稀有な事例であり、今日に至るまで韓国社会の記憶と価値観を形づくる重要な事件として語り継がれています。

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背景――戒厳拡大と権威主義、情報遮断の中で

1979年10月の朴正熙大統領の暗殺後、韓国社会は「ソウルの春」と呼ばれる民主化への期待を一時的に膨らませました。しかし同年12月、全斗煥を中心とする新軍部(当時の保安司など)による権力掌握(通称「12・12」)が起こり、政治は再び軍事的統制の色合いを強めます。翌1980年5月にかけて、政府は非常戒厳を全国に拡大し、国会閉鎖、政治活動の禁止、大学の休校、報道検閲の強化、主要政治家の拘束など、広範な統制を敷きました。野党指導者であった金大中(キム・デジュン)らの逮捕は、南部地域、とくに湖南(ホナム)で強い反発を生み、光州の学生・市民運動は緊張の度を増していきます。

経済的・社会的背景としては、急速な工業化の中で広がった地域格差と労働現場の抑圧、地方都市の政治的周縁化への不満が積み重なっていました。光州は教育水準が高く学生人口も多かったため、大学を起点にした集会やデモが頻発し、市民の支持を得やすい土壌がありました。他方、全国一斉の検閲と報道統制により、外部に正確な情報が伝わりにくい状況が生まれ、事態のエスカレーションに拍車をかけました。

治安面では、戒厳軍に動員された空挺部隊などが、デモ鎮圧において過剰な暴力を行使したとの証言が多く、至近距離での殴打・刺突・銃撃、病院内での逮捕や搬送妨害などが問題化しました。この初期対応の苛烈さが、学生だけでなく商店主・労働者・運転手・主婦など、幅広い層を抗議行動に巻き込み、事態を「学生運動」から「市民運動」へ転換させる分岐点になりました。

経過――5月18日から27日、抗争の拡大と「解放空間」

1980年5月18日、光州の全南大学の門前で学生と戒厳軍が衝突したことを皮切りに、市中心部の錦南路や旧道庁前へと抗議の輪が広がりました。翌19日、20日とデモは拡大し、バス・タクシーの車列が抗議の象徴として市街を走行、参加者は負傷者の救護や食料の供出を自発的に行いました。鎮圧は過酷さを増し、棍棒・銃剣・実弾の使用が報告され、流血が市民の怒りを一層高めます。

21日午後、旧道庁前の銃撃を契機に状況は質的に変化します。市民側の一部は武器庫から銃器を入手し、武装の度合いが上がりました。夕刻には軍が一時撤退し、市中心部は市民の手に委ねられます。22日から26日にかけて、光州は行政と治安の空白を埋めるべく、臨時の市民対策委員会や収拾委員会が形成され、救護・交通・配給・治安・交渉などの担当を分担しました。病院・学校・教会が救護拠点となり、献血や炊き出しが行われ、略奪を禁じる戒めや夜間の見回りなど、市民自治の「解放空間」が出現します。

この間、外部との連絡は遮断され、国営放送や主要紙の報道は戒厳当局の発表に依拠しました。光州側の要求は、戒厳解除、政治犯釈放、責任者処罰、犠牲者の真相究明などでしたが、政府側は武装解除と無条件解散を求め、交渉は難航します。地域外の支援は情報統制の壁に阻まれ、現地の孤立感が強まりました。

5月27日未明、軍は大規模な鎮圧作戦(通称「興政作戦」など)を発動し、旧道庁などの拠点を一斉に制圧しました。短時間のうちに抵抗は崩れ、指導的役割を担った市民は多数逮捕されます。死傷者数については統計に揺れがありますが、数百人規模の死亡、数千人規模の負傷、広範な拘束・拷問の事例が確認されています。事件は軍事的には終息したものの、光州の記憶は地下に潜って市民社会に保存され、その後の全国的な民主化運動の象徴として力を持ち続けました。

反応と再評価――民主化、真相究明、法的名誉回復

事件直後、政府は「暴徒鎮圧」「北からの扇動」などの枠組みで事態を説明し、厳しい情報統制を続けました。しかし、光州出身者や宗教者、医療関係者、学生たちは地下出版(サミズダット)や証言の記録化を通じて、別の物語を紡ぎ始めます。1987年の市民抗争(6月民主抗争)によって直接選挙が回復すると、社会は光州の再評価へと大きく舵を切りました。

1990年代以降、事件の真相究明と法的処理が制度化されます。国会調査、政府の公式報告、特別法の制定により、被害者の認定と補償、名誉回復が進展しました。全斗煥・盧泰愚ら新軍部の責任についても、軍事反乱や内乱陰謀などの罪で起訴・有罪判決が出され、後に恩赦が与えられたとはいえ、法廷の記録は国家の責任を可視化しました。光州には国立墓地や記念公園、資料館が整備され、毎年5月には追悼式典と市民の行事が行われています。

言論空間では、映画・文学・ドキュメンタリー・音楽など多様な表現が光州を題材に取り上げ、若い世代にも記憶が共有される回路が形成されました。市民の自発的秩序、救護のネットワーク、交渉の努力、暴力の連鎖を止めようとする葛藤など、単純な英雄譚でも悲劇譚でもない、多面的な人間の経験として語り直される試みが続いています。

論点と意義――数字、責任、国際的文脈、そして公共性

光州をめぐる論点の一つは犠牲者数と被害の範囲です。武力鎮圧の過程で記録や遺体の取り扱いに不透明な点があったため、公式統計と市民側の推計に差が生じ、長期にわたり検証作業が続けられてきました。もう一つは、指揮系統の責任の特定です。どの部隊がどの命令系統で発砲・殴打・拘束を行ったのか、誰が法的・政治的責任を負うべきかは、法廷記録や証言、当時の文書の精査によって段階的に明らかにされました。

国際関係の観点からは、当時の米韓関係や在韓米軍の権限構造がしばしば議論の対象になります。冷戦構造のもとで治安維持と反共政策が優先された結果、どのような情報共有と判断がなされたのか、また、それが現場の暴力の抑止あるいは助長にどの程度影響したのかは、歴史研究と外交史料の公開によって今も検討が続けられています。いずれにしても、光州は国内政治だけでなく国際政治の力学が市民の生活に直撃した事件であり、国家主権と市民の権利の境界を問い直しました。

もう一つの論点は、市民の武装化をどう評価するかです。初期の過剰鎮圧がエスカレーションの因となったこと、武装化の範囲と目的が防衛・抑止にあったこと、同時に武器の拡散が事態を複雑化させたことなど、複数の要因が指摘されます。市民対策委員会が略奪禁止・救護・交渉を重視したことは、武力に頼らない公共性の維持努力を示していますが、極限状況での判断の難しさもまた、光州の教訓の一部です。

意義を総括するなら、光州は「情報が遮断された権威主義下でも、市民が連帯と公共性で秩序を立て直しうる」ことを実証した点にあります。地域が孤立しても、病院・宗教施設・学校・メディアの断片が互いに情報と資源を融通し、暴力の連鎖を抑えようとした経験は、後の災害対応や市民運動のモデルにもなりました。民主化後に国家が責任を認め、補償と記念化を進めたプロセスは、「過去の清算」と「社会的和解」の具体的な技法を示す事例とされています。

今日、光州の記憶は韓国国内にとどまらず、アジアの民主化史の文脈で参照され続けています。地域格差・権力の集中・言論統制・警察/軍の暴力・情報の非対称性といった問題群は、時代と場所を越えて反復しうる課題です。光州は、そのような課題に直面したとき、人々がどのように立ち上がり、交渉し、支え合い、記録を残し、後世に引き渡すのかを示した歴史の証言と言えます。