広州国民政府 – 世界史用語集

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成立背景と段階――軍閥割拠の南端で芽生えた国家中枢

広州国民政府(こうしゅうこくみんせいふ)は、中国国民党(孫文系)が広州(広東)を拠点として樹立・運営した革命政権の総称で、1921年の非常政府から1925年の正式な「国民政府」樹立、1926年の北伐出発まで、複数段階の編制と性格の変化を含みます。辛亥革命後の中華民国は北洋軍閥の支配と各地軍閥の割拠に揺れ、北京の「合法政府」は実質的統合能力を欠いていました。こうした中で、孫文は南方の広東に基盤を求め、革命の政治・軍事・組織の再出発点として広州を選んだのです。

第1段階は1921年、広東軍閥の陳炯明の支援を背景に、孫文が広州で「非常大総統」就任を宣言し、非常国会を組織した局面です。これは北京政府の正統性に対抗する政治宣言であり、南北分裂下での「第二政権」に相当しました。しかし翌1922年、陳炯明が自治・聯省を掲げて離反(反孫)し、孫文は一時香港へ退避、広州政局は瓦解します。

第2段階は1923年の帰広・再建です。孫文はソ連との接近(連ソ)と中国共産党との協力(容共)、労農の組織化(扶助工農)を掲げ、党の再建と軍の近代化を進めます。この過程でソ連顧問ボロディンが到来し、党組織・宣伝・幹部学校の設計、軍の政治工作の導入などが始まりました。

第3段階は1925年、孫文逝去(3月)ののち、広州に国民政府(National Government)が正式に樹立され、常務委員会・各部・監察機構・軍政機構を備える統一中枢へ移行した局面です。汪兆銘(汪精衛)らが政治の前面に立ち、軍事面は蔣介石が力を伸ばします。翌1926年、広州を根拠地として国民革命軍が北伐を発動し、広州国民政府は全国統一運動の司令塔となりました。

政治体制と路線――党国体制の萌芽、連ソ・容共・扶助工農

広州国民政府の政治体制は、国民党一党主導の党国体制(党治)の初期形態でした。1924年の国民党第一次全国代表大会(いわゆる「一大」)は、連ソ・容共・扶助工農を掲げ、民主集中制に類する組織原理を採択、党が国家と軍を指導する構造を明確にしました。これに即して、広州では国民党の中央執行委員会と国民政府(行政)・軍政部(軍事)・宣伝部(世論)・組織部(人事)が密接に連動し、政策と人事の一元化が図られました。

連ソは、資金・軍事顧問・教育資源の導入を可能にしました。ボロディンらの助言で、各級党部の整備、宣伝機関紙、労働・農民運動のフロント組織化、幹部学校の設置が進みます。容共は、中国共産党員の個人資格での入党と国民党内での活動を認め、戦時における広範な統一戦線を志向するものでした。扶助工農は、労働争議・農民組合の保護、階級矛盾の調停を通じて革命的動員を高める方針で、広州国民政府はこれを都市・農村で具体化します。

制度面では、国民政府委員会が最高意思決定機関として置かれ、行政各部・司法・監察の枠が整えられました。とはいえ、財政基盤は脆弱で、関税・塩税・通商税・地方賦課をかき集め、ソ連援助・華僑募金に依存する面が小さくありませんでした。広東省内の地方勢力・商団との折衝、海上交通の掌握、税関の実効支配など、日常の「国家運営」は連日の交渉と妥協の連鎖でした。

軍事と社会運動――黄埔軍官学校、国民革命軍、五・三〇以後の大スト

広州国民政府の最大の成果は、軍の創設と政治工作の統合でした。1924年、珠江河畔の黄埔軍官学校(黄埔軍校)が開設され、蔣介石が校長、周恩来が政治部副主任を務めました。ここで育った将校は、政治訓練と軍事訓練を併せ持つ「党軍」の中核となり、のちの国民革命軍の主幹を形成します。軍は旅団・師団に政治部を必置し、宣伝・民衆工作・士気維持を制度化しました。

1925年の五・三〇事件(上海での反帝・反英運動)は、広州にも大きな波及効果をもたらし、省港大罷工(広東—香港の大スト)が勃発・長期化しました。広州国民政府は労働組合・学生・商工界を糾合して英領香港への圧力を高め、スト期間中の生活物資・資金の支援に動きました。これは反帝国主義の象徴事件であり、同時に広州の行政にとっては治安・財政の重圧でもありました。都市の秩序・経済活動と、革命動員の高揚との間で、政府は綱渡りの調整を強いられます。

軍事面では、1926年初頭の中山艦事件(中山艦の広州移動をめぐる緊張)を契機に、蔣介石が軍と公安の掌握を強め、党内の権力地図が変化しました。同年7月、国民革命軍は北伐を宣言、広州から湖南—湖北—江西へ進軍します。各路で労農の動員と軍の政治工作が結びつき、軍事と社会革命の一体化が強まりました。他方で、急進的な土地闘争・都市の労働武装は、地方紳商・外国資本、さらには国民党内右派との摩擦を激化させ、統一戦線の維持は困難さを増していきます。

分裂と遺産――武漢・南京への分岐、広州の役割の歴史的評価

北伐の進展とともに、国民党の内部対立は頂点に達します。1927年前半、左派の武漢政府と右派の南京政府が併存し、蔣介石は上海での「四・一二」クーデタを断行して共産勢力を排除、第一次国共合作は破綻します。広州は一時的に中枢の座を他都市へ譲り、同年末には中国共産党が広州で蜂起して短命の広州コミューンを樹立するなど、都市は革命の波の焦点として流動化しました。こうして「広州国民政府」という固有名は、1926~27年の北伐期を境に、武漢・南京といった新たな中心に機能が移譲されていきます。

それでも、広州国民政府の歴史的意義は明確です。第一に、党・政・軍の統合、すなわち党が軍を指導し、行政を統制する体制の雛形を提示しました。黄埔軍校と政治部制度は、以後の国民革命軍・国民党政権の骨格となり、同時に中国政治における「政治動員と軍事の結合」という特徴を強めました。第二に、統一戦線と反帝・反軍閥の大衆動員を実地に展開し、労働・学生・農民の組織化を国家建設の資源に転化しました。省港大罷工などの経験は、革命の象徴性と行政能力の限界を同時に露わにし、以後の政策調整に多くの教訓を残します。第三に、北伐の出発点として、広州は制度・人材・兵站を整え、全国統一の端緒を開きました。

反面、連ソ・容共の戦術は、党内派閥対立と権力闘争を激化させ、都市行政の安定と革命動員のバランスは常に不安定でした。財政の脆弱さ、軍事優先の資源配分、地方豪商・商団との駆け引きに明け暮れた日常は、「国家」を作ることの困難を物語ります。広州国民政府は、革命の高揚と都市統治の実務、統一戦線の理想と党派抗争の現実が同居した過渡期の国家中枢でした。

総じて、広州国民政府は、孫文の理念(民族・民権・民生)を実装しつつ、ソ連モデルと中国の社会条件を接合する試みの最前線でした。ここから生まれた党軍・統一戦線・政治工作の技法は、以後の中国近現代政治に深い痕跡を残し、成功と破綻の双方の事例として、今日もなお検討の対象であり続けています。