杭州(臨安) – 世界史用語集

杭州(こうしゅう、古称は臨安〈りんあん〉)は、中国東南部、浙江省北部に位置する内湾性の河港都市で、南宋(1127–1276)の首都として繁栄したことで知られます。市域は銭塘江の河口に開き、淡水湖の西湖を背に、内陸水運と海上交通の「結節点」に立地します。唐・五代以来の州城としての基盤のうえに、北宋末の靖康の変後、宋の宮廷が臨安に遷ってからは、政治・軍事・財政・文化の中枢機能が集中しました。都市は急速に膨張し、商業・手工業・運輸・金融・出版・娯楽が高度に分業化された大都市へと変貌します。湖と山と河が織りなす景観は、蘇堤・白堤、霊隠寺や六和塔、銭塘江の大潮(奔潮)などと結びついて、絵画・詩文・園林美学の典型を育てました。以後も杭州は、明清期の江南経済圏の要として栄え、近代以降は製糸・製茶・機械・観光の拠点として再編され、今日に至るまで「山水と市街が相即する都市」の代名詞であり続けています。以下では、成立と地理的条件、南宋期の首都機能と社会、都市経済と文化、そして元朝による降伏とその後の変容について、分かりやすく解説します。

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成立と地理・名称――河・湖・海をつなぐ門戸

杭州は、先秦期以来の越文化の圏域に位置し、秦漢期に於いては「余杭」「錢塘」の地名で史書に現れます。唐代には州治として成熟し、運河と海上航路の結節として徐々に比重を増しました。地形は北に平野、南に低山が迫り、西には西湖という浅い閉鎖性湖沼が横たわります。東へ向かえば銭塘江の大きな河口がひらけ、外洋(東シナ海)へ通じます。湿潤温暖のモンスーン気候により、稲作・桑蚕・茶樹栽培に適した生態環境が形成され、背後地(ヒンターランド)には良質な農産品と手工業品が蓄えられました。

名称の「臨安」は、南宋が臨時首都を置いたのちに本拠化する過程で採用された国都名で、「安に臨む」の語感をもって動揺した天下を鎮める意志を表しました。都城の城柵・宮城・市坊が再配置され、官衙・学宮・市舶司系の出先、税務・倉廩・軍営など、旧来の州城の重心を超える規模の施設が短期間で整備されます。銭塘江の強烈な潮汐(いわゆる銭塘江の大潮)は橋梁・渡船・港湾施設の設計思想に影響し、高潮時の防災と平時の通商という二つの課題に応える土木技術が洗練されました。

交通の要は、北宋以来整備が進んだ大運河(京杭大運河)に接続する内水交通でした。杭州は運河の南端に位置し、北は淮河・黄河・汴京方面へ、東は烏鎮・嘉興・蘇州・松江を経て、太湖・長江に達します。船運によって米・塩・絹・木材・石炭・陶磁・紙・茶が絶えず行き交い、陸上より低コストで大量輸送が可能になったことが、首都機能の維持を支えました。海上貿易の主たる出入り口は寧波(明州)や温州でしたが、その背後の集散・会計・情報の拠点として、杭州は不可欠の役割を果たしました。

南宋の首都機能――防衛戦略・官僚制・都城空間の再編

1127年、金軍により北宋の汴京が陥落(靖康の変)すると、宋の皇族は江南へ南遷し、建康(南京)を経て臨安に都を定めました。南宋政権は北方の金と対峙しつつ、長江と銭塘江を「水の障壁」とする防衛戦略を採用しました。臨安は内湾に臨むため海上奇襲に強く、山と湖に囲まれた地形は城郭の防御と兵站の集積に適しました。都城は二重の城郭線と関門、外城の市場帯、内城の宮城と官衙区、西湖側の遊覧・宗教空間が、互いに接続しつつ機能分化する構造を取りました。

官僚制は、台諫・三省・樞密の枢要機関に加え、財政・漕運・市舶・塩鉄・度支・戸部などの出先が臨安周辺に配され、中央の意思決定と現場の実務の距離を近づけました。北方喪失で租庸調の基盤が脆くなったため、江南の米税・塩税・茶税・酒税、関市の課徴が財政の柱となります。軍制では、禁軍(親軍)と地方の郷兵・民兵が組み合わされ、要地には水軍が置かれました。銭塘江の潮流を読んだ潮汐戦術や、河口封鎖、橋・堰・閘門の運用といった「水上防衛」が、臨安の安全保障を支えました。

都市空間の再編は、短期間に行われました。宮城の建設、街路の拡幅、夜市制度の再開、常平倉・義倉の配置、橋梁・堤道の新設が相次ぎ、都市生活は昼夜二交代のリズムを取り戻します。西湖周辺では、蘇軾の治水・造園の遺産でもある蘇堤・白堤が整えられ、湖岸に寺観・園林・茶楼・画舫が立ち並びました。宗教空間としては、霊隠寺・浄慈寺・上天竜王廟などが信仰・救済・芸能の拠点となり、朝廷と市民が寄進・修繕を分担しました。臨安は、行政・防衛・宗教・娯楽が緊密に絡み合う、多層の都城へと成長します。

都市経済と暮らし――商業・手工業・金融・出版の発達

臨安の繁栄の核心は、市場の厚みと分業の細密化にありました。米・塩・魚介・肉類・青菜・果物・香辛料・乾貨を扱う日用市場に加え、絹織物・羅紗・染色・刺繍・造紙・製墨・印刷・製茶・製酒・陶磁・漆器・銅器・木工・皮革といった専門の作坊(ワークショップ)が街区ごとに集積しました。商人ギルドや行(業種別組合)が品質・計量・価格・労務を取り仕切り、官は度量衡・検査・税を通じて監督します。朝の早市、午の定市、夕刻の夜市が共存し、行商・露店・船上商いが街のリズムを刻みました。

金融面では、銀銭のほかに南宋特有の紙幣「会子(かいし)」が流通し、遠隔地決済の効率化に寄与しました。会子は額面・発行期・兌換の規定があり、商人は割引率(ディスカウント)を計算に入れて取引します。両替商・質屋・寄当・手形の仲介人が市中に点在し、商業信用を支えました。こうした金融の発達は、運河と河口を介した物流と密接に結びつき、大口荷動きと小口の小売りが一体となって都市経済を回転させます。

対外交易では、臨安自体が外洋港ではないものの、寧波・温州・福州などの海港と背後で接続し、胡椒・蘇木・乳香・象牙・香薬・琉璃・瑠璃・珊瑚といった外来品が市場に並びました。江南の絹・陶磁・紙・書画・精緻な日用品は、反対に外へ出ていきます。市舶司は臨安に出先・会計機能を置き、関税・検査・商舶許可・紛争仲裁を所掌しました。海商・運河商・在地地主商・官庫の四者が、課税・融資・委託販売を通じて結びついたのが臨安の通商システムです。

出版・文化産業は、臨安の突出した特色です。木版印刷が大規模化し、経史子集の刊本、地理志・医書・算書、詞曲・講談・縁起、旅行案内や料理書に至るまで、多様なジャンルが市場に供給されました。書肆・刻工・校勘・装幀の専門分業が成熟し、書籍は知識層のみならず市民にも広がります。書店と茶楼はしばしば隣接し、書を読む・講釈を聞く・相互に議論する空間が、臨安の「公共性」の核をつくりました。勧善懲悪の物語、都市奇談、時事の笑談が、都市文化の活気を映し出します。

日常生活の側面では、点心・麺・魚介・精緻な菜肴を供する食店が無数にあり、早茶・夜食の習慣が定着しました。銭塘江の大潮見物、西湖の花会・舟遊び、社寺の廟会・演劇(雑劇・南曲)・曲芸、医療・薬舗・浴堂、理髪・染髪・香料店が、生活の彩りを添えます。都市の秩序維持には、里甲・里正・保甲の制度が用いられ、夜警・火消・橋梁管理・清掃が自治的に運営されました。慈善では、義倉・施粥・薬局・同業組合の相互扶助が機能し、都市の脆弱層を支えました。

文化・景観と記憶――西湖美学、人物像、降伏とその後

西湖は、臨安文化の象徴でした。湖岸の園林と堤は、治水・交通・景観を兼ねるインフラであり、春は柳・桃、夏は蓮、秋は蘆荻、冬は雪と霧が季節の光を映します。蘇軾の詩、楊万里・陸游の詞、馬遠・夏珪の「片角の山水」など、江南的な繊細な美意識が西湖を舞台に成熟しました。霊隠寺・飛来峰の仏像群、六和塔の河港眺望、雷峰塔の伝説は、宗教・伝承・風景の三位一体の文化を物語ります。岳飛の祠堂は忠義の象徴として参詣を集め、臨安が抱える「和戦」の葛藤を記憶の形で伝えました。

人物像としては、秦檜(和議派)と岳飛(抗戦派)の対比、寧宗・理宗期の士大夫文化、朱熹学の影響、陸九淵の心学の萌芽、禅林の活況、都市文人の消費文化が挙げられます。院体画と文人画の交流、香文化・花道・点茶・香木コレクションといった嗜好も、臨安の富裕な市民社会を背景に発展しました。音楽・劇では南曲・南戲が成熟し、元曲の前史をなす舞台芸術の基屎が築かれます。

1276年、元軍(モンゴル勢力)が臨安に迫り、宋の幼帝(恭帝)は降伏しました。臨安は戦火による大破を比較的免れたものの、宮城・官衙の機能は解体され、経済中枢は元代の大都・杭州・蘇州・泉州など複数事拠点に分散します。臨安は州城としての地位に戻りつつ、絹・茶・紙・漆・陶磁・建築材の供給地として再出発しました。明清期には、江南の富庶のうちに杭州は再び文化都市として輝きを取り戻し、湖州・嘉興・蘇州とともに絹と文人文化のベルトを形成します。清末には絹綢業・機械工業が生まれ、近代の交通(鉄道・汽船)とともに都市は再び伸長しました。

現代に至るまで、杭州(臨安)の記憶は、山水と市街、政治と経済、宗教と娯楽が緊密に絡み合う都市の一つの理想型を提供し続けています。南宋の短世紀に凝縮された制度実験・経済発展・文化創造は、その後の江南都市の雛型となり、都市の「住み良さ」と「働き易さ」「遊び易さ」を両立させる設計思想を示しました。臨安という名は消えても、西湖と市場、運河と印刷、茶と絹、そして人と物の往還のリズムは、杭州という都市の核として脈打ち続けています。