後周(こうしゅう、951〜960年)は、中国の五代十国時代に華北を支配した王朝で、郭威(かくい/太祖)と柴栄(さいえい/世宗)の二代を中心に、地方軍閥の割拠を抑え、宋王朝の統一に直結する政治・軍事・財政の基盤を整えた政権です。短命の王朝ですが、節度使の世襲化に歯止めをかけ、財政の再建と軍の再編を進め、南唐・北漢・遼と対峙しながら国境線を実務的に押し返しました。とくに世宗の施策と諸戦役は、後の宋が中央集権を確立し全土統一へ向かう際の「下地」となったため、後周は時代の分水嶺として重要な意味を持ちます。以下では、成立の経緯、国家の設計、対外戦争、そして宋への継承という観点から、具体的に解説します。
成立と時代背景――五代の渦中に生まれた再建政権
後周は、後漢(947〜951)の末期に台頭した実力者・郭威が、開封(汴京)を掌握して建てた王朝です。郭威は北方軍の中核を担う将として経験を積み、軍紀の整備や官僚との協調に長けた現実主義者でした。彼が即位した951年当時、華北は節度使(軍政長官)が各地を実効支配し、徴税・人事・軍事をほぼ独自に運用する「分権の極み」にありました。郭威はまず、反乱や私戦を起こしやすい指揮系統を整理し、中央に直属する親軍を強化して、宮廷・首都防衛と諸道への派遣力を確保しました。
郭威の治世は短く、952年に病没しますが、後継に指名されていた養子の柴栄(世宗)が954年に即位し、後周の実質的な改革を推し進めました。柴栄は、武断と文治を併せ持つ統治者として評価され、官僚任用では人物本位を掲げ、戦場では自ら兵を率いて綱紀を正し、補給・工兵・情報の連携を重視しました。彼の登場によって、後周は「五代最強」と称される機動的な国家へと変貌します。
この時期の国際環境は複雑でした。北方には契丹(遼)がおり、晋・漢期に失われた燕雲十六州(幽・薊など)を保持していました。華北西方から晋北にかけては北漢が拠り、南では江淮以南に南唐・呉越・湖南・蜀などが割拠していました。後周はこれらの諸政権と、外交・通商・戦争を重ねながら、漸進的な版図修復を狙うことになります。
国家の設計と改革――節度使抑制・軍制再編・財政再建
後周の統治の核心は、「分権の縮減」と「中央の実務能力の回復」にありました。第一に、節度使の人事を中央が掌握し、任期や転任を頻繁に行って土地への定着と地方軍の私物化を防ぎました。軍政と民政の分離も進められ、軍の指揮権を持つ者が同時に徴税・裁判を独占しないよう、監察と文官の関与を拡大しました。こうした権限の切り分けは、宋代の文治主義に直結する設計思想です。
第二に、親軍(侍衛親軍・殿前司など)を中核に兵制を再編し、兵士の登録・俸給・交替を規律化しました。諸軍の名称や編制を統一し、武器・馬具の規格や倉庫・兵站の管理を中央で掌握することで、臨時徴集の比重を下げ、常備軍としての即応性を高めました。世宗は自ら前線を視察し、橋梁・渡河・攻城器の整備に投資して、機動戦と攻城戦を両立させています。
第三に、財政の建て直しが図られました。租税の賦課基盤となる戸籍の再整備、課税単位の明確化、苛斂誅求の抑制、徴収と支出の帳簿化が進められます。官僚・軍人への俸給体系を整えるため、「職分田(しょくぶんでん)」のように官職に付随する給付地・受益権を整理する動きが進み、脆弱な現物徴収に頼る比率を縮めました。貨幣面では、955年頃に周元通宝(しゅうげんつうほう)などの新鋳銭を発行し、流通を整える一方、武器製造と軍資金確保のための金属調達に苦心しました。
よく知られるのが、仏教寺院・仏像・鐘磬などの金属類を徴収して武器・銭貨に転用した世宗の政策です。これは単なる宗教弾圧ではなく、戦時動員下の資源集中策として理解されます。寺院の多くは経済主体でもあり、銅・鉄・錫・鉛の調達において国家と競合していました。後周は宗教施設の整理と課税台帳への組み込みを進め、資源の「見える化」を図ったのです。結果として、軍需と通貨供給が安定化し、戦役を継続するための財政・物資基盤が強化されました。
官人登用に関しては、能力主義を志向しつつ、軍務経験をもつ文官や、実地の財政・土木に通じた人材を重用しました。科挙自体はすでに制度化されていましたが、五代の混乱で機能が弱まっていたため、形式より運用を重視する実務官僚の抜擢が目立ちます。中央の台閣・枢密院・度支の横連携を強め、情報伝達と意思決定の速度を高めた点も、後の宋の官僚統治に継承されます。
対外戦争と版図の回復――北漢・遼・南唐との攻防
世宗の治世を象徴するのが、連年の戦役です。まず、即位直後の954年、「高平(こうへい)の戦い」で北漢・遼の連合軍を迎撃し、劣勢を跳ね返して華北の主導権を守りました。この勝利が、後周の軍事的自信と国内の結束を生み、以降の南方遠征と北方反攻の足場となります。
956年からは江淮へ進出し、南唐に対して大規模な作戦を展開しました。長江北岸の要衝を連続的に攻略し、城塞線を押し上げて、958年までに南唐から淮南一帯の割譲を勝ち取ります。これにより、華北と江南の間に横たわっていた緩衝地帯は縮小し、長江の水上交通と塩鉄・穀倉の利益が後周側に傾きました。南唐は観念的な「文化の都」としての面影を残しつつも、軍事・財政の要地を失い、以後は守勢に回ります。
北方では、失地回復の象徴である燕雲十六州の奪還を掲げ、遼との消耗戦に臨みました。959年、世宗は自ら北征に立ち、幽州方面の圧迫を強めますが、病に倒れて陣中で没します。撤兵を余儀なくされたものの、この北征は遼の南下圧力を和らげ、北漢の行動半径を狭める効果をもたらしました。世宗の死後、幼い皇帝(恭帝・柴宗訓)が即位しますが、軍の主導権は有力将に移り、政権の求心力は急速に低下します。
外交では、戦争と並行して実務的な交渉が重ねられました。国境の塩・馬・茶の取引、捕虜交換、使節の往来、互市の再開・停止は、財政と治安に直結するため、後周は柔軟な対応を採りました。単純な「征服」のロジックではなく、軍事圧力と経済のインセンティブを組み合わせ、相手の内紛や補給線を見極めながら、戦略的な成果を積み上げたと言えます。
滅亡と継承――陳橋の変と宋王朝への橋渡し
960年、北方の動揺(遼・北漢の動き)に対処するための遠征軍が出発準備を進めるなか、殿前の将・趙匡胤(ちょうきょういん)が「陳橋の変」で擁立され、クーデターによって即位、宋(北宋)を開きました。ここに後周は終わります。形式上は簒奪ですが、趙匡胤が無用の流血を避け、幼帝を厚遇し、官僚と都市の秩序を保ったことは、後周が整備した中央機構と都市社会が、政権交代に耐える「硬さ」を備えていた証左でもあります。
宋は即位後、「杯酒釈兵権」と称される軍権の掌握や、文官優位の行政につながる制度設計を加速させますが、その出発点は後周にありました。節度使の抑制、親軍の常備化、度支と兵站の中央集権化、貨幣・塩鉄・運河の統制、文武のバランスをとる任用慣行――これらは、宋が体系化した「文治国家」の雛型として、後周で実験されていたのです。後周の戦果(淮南獲得など)は、宋の南方経略の足掛かりになり、北方に対する防衛線の再設計も、宋代の対遼・対金戦略の前史をなしました。
文化面・経済面でも連続性が見られます。都市の手工業・商業は、後周の安定期に再起動し、鋳銭・製鉄・兵器とともに、織染・陶磁・食品加工などの生産が伸びました。官の需給がマーケットを育てる構造は宋でも持続し、開封は国都として巨大な消費市場へと成長します。さらに、戦時動員の経験から、道路・橋・倉庫群の整備が進み、物流の「標準化」が行政の常識になりました。これは、宋代の行在所運営や河運の効率化、災害対策に活かされます。
一方、後周の限界も明白でした。寿命の短さゆえ、制度の定着には至らず、人事の循環や地方の再統合は過程半ばでした。世宗の個人的統率力に依存した軍政は、彼の死とともに緩み、後継体制の脆弱さが露呈します。遼に対する反攻も、外交・軍事・経済の総合力がまだ不足し、十六州の回復は果たせませんでした。つまり、後周は「可能性を示したが、成就は後継の宋に委ねられた」政権だったのです。
総括すると、後周は、五代の分裂から宋の統一へ至るプロセスの要に位置します。節度使の世襲を抑え、親軍と官僚制を再編し、財政と軍需の資源配分を再設計したこと、江淮の戦略地帯を奪還し、北方に対しても圧力を強めたこと――これらの積み重ねが、趙匡胤の登場と「文治国家」宋の成立を現実的に可能にしました。後周の歴史は、短命の中に濃密な制度実験と戦略的行動を詰め込んだ、きわめて密度の高い十年だったと評価できます。

