シハヌーク追放 – 世界史用語集

「シハヌーク追放」とは、1970年3月にカンボジアで発生した政変によって、当時国家元首的地位にあったノロドム・シハヌークが権力から排除され、ロン・ノルらが主導する新体制(のちのクメール共和国)が成立した出来事を指す通称です。シハヌークは外遊先で解任され、北京に拠点を移して反ロン・ノルの統一戦線を結成し、内戦が本格化しました。この出来事は、中立外交の破綻、ベトナム戦争の波及、国内の都市—農村・右派—左派の断層の噴出が重なって起こったもので、カンボジアを長期の内戦と悲劇へ押し流す分水嶺となりました。本稿では、どのような背景と手順で追放が起き、内外にどのような影響を与えたのかを、わかりやすく整理します。

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用語の射程と時代背景:何を「追放」と呼ぶのか

一般に「シハヌーク追放」と言う場合、1970年3月の政変を指します。具体的には、首相ロン・ノル、国会議長シリク・マタクら政権中枢が、外遊中のシハヌークから実権を剥ぎ、国会による信任撤回と国家元首資格の停止を決議した一連の過程を指します。ここでの「追放」は法技術上は解任・停止処分の形を取りますが、実質は軍・官僚・都市エリートの連携による政権交代でした。

これに先立つ1960年代後半のカンボジアは、シハヌークが掲げた「中立」を維持しつつも、ベトナム戦争の激化で東部国境地帯に北ベトナム軍・南ベトナム解放戦線の拠点が広がり、米軍の秘密爆撃や越境作戦が現地社会を直撃していました。都市の商工層や軍部には対米関係の修復・強化を求める声が強まり、他方で農村の一部や若年層にはサンクム体制への不満が蓄積し、地下で組織を拡げたカンボジア共産勢力(後のクメール・ルージュ)が影響力を伸ばしていました。こうした内外の圧力の交差が、追放劇の背景に横たわります。

追放の直接経緯:外遊、決議、体制転換

1970年3月、シハヌークはソ連・中国への外遊に出ていました。留守中、首都プノンペンでは、対北ベトナム・対解放戦線の強硬姿勢を求めるデモや、ベトナム公館への襲撃・封鎖が起こり、ロン・ノルは国境地帯の外国軍基地撤去を要求して国内非常事態の収拾を図ります。議会では、シリク・マタクらが主導してシハヌークの権限停止を審議し、王の政治関与を制限する決議が可決されました。

この時点で、王家内部の一部や官僚・軍の幹部は、シハヌークの対米批判や経済統制への不満、宮廷派閥の横断的介入を問題視していました。ロン・ノル政権は、国家の存続と治安維持の名目で、議会多数派と軍の後ろ盾を得て体制転換を断行します。やがて「カンボジア共和国」(通称クメール共和国)が宣言され、国名から王国の称が外れました。対外的には米国との協調に舵を切り、軍事援助の強化と越境作戦への関与が増します。

北京に渡ったシハヌークは直ちに反撃に転じ、「カンボジア王国民族連合政府(GRUNK)」を樹立します。彼は国内の反体制勢力、とりわけカンボジア共産勢力と手を組み、民族解放・反ロン・ノルを掲げたラジオ演説で国内の支持を呼びかけました。伝統的権威である王の名義を掲げた統一戦線の形成は、農村部を中心に心理的な波及効果を生み、各地で政府側との衝突・離反が増え、内戦は全国化していきます。

国際関係と宣伝戦:中立の崩壊と大国の介入

追放の衝撃は、カンボジアの長年の中立方針を事実上終わらせました。ロン・ノル政権は共産勢力排除を掲げ、米国の軍事支援に依拠する傾向を強めます。他方、シハヌークは中国・北朝鮮に支えられて外交戦を展開し、北京からの発信で地方の支持を糾合しました。中越ソの関係には複雑な緊張があり、対カンボジア政策でも微妙な差がありましたが、少なくとも反ロン・ノル統一戦線への政治的・物的支援は継続しました。

情報空間では、ラジオと印刷物が重要な武器になりました。シハヌークは王の名誉と独立の歴史を想起させる語りで地方社会に訴え、ロン・ノル側は共産化の危険と治安回復を強調しました。米軍の爆撃は政府軍の背後支援を意図したものですが、農村の被害は反政府感情を増幅させ、宣伝戦ではシハヌーク側の材料となりました。都市部では物価高騰・汚職・徴発が日常化し、政権への信頼は揺らぎます。

ASEAN諸国や国連の場では、代表権・内政不干渉・和平の模索が議題となります。1970年代前半の国際情勢はデタントと地域紛争の併存期で、各国は自国の安全保障と対米・対中関係を勘案しながら距離を取る姿勢を見せました。結果として、カンボジアは大国の角逐が直接投影される紛争の舞台となり、内戦の長期化・複雑化に拍車がかかりました。

国内社会への影響:国家機構の疲弊と権力の空洞化

追放後、国家機構は急速に疲弊しました。ロン・ノル政権は徴兵・徴発を強め、首都と幹線の防衛で手一杯となり、地方の統治は軍・警察・在地名望家の即興的な権威に依存しました。歳入は軍事に偏り、公共サービスは劣化、都市には避難民が流入して社会不安と犯罪が増加します。軍は拡大しましたが練度と補給に難があり、腐敗も深刻でした。

農村では、徴税・物資供出・爆撃・越境戦闘が重なり、生活は破壊されました。こうした状況下で、シハヌーク名義の統一戦線は王への忠誠感情を利用しつつ、農民に対して「王の旗の下の抵抗」を呼びかけました。多くの地域で、住民は政権側・反政府側の双方の圧力のはざまで生存戦略を迫られ、出稼ぎ・避難・協力といった選択が流動化します。

政治文化の面では、王=国家の一体性という観念が分裂し、「王の名を掲げる反体制」という倒錯した現象が広がりました。シハヌーク個人の権威は、反政府陣営の動員装置として強く機能し、のちにクメール・ルージュが首都掌握後も短期間、名目的国家元首として彼を戴いたのは、その象徴資本の大きさゆえでした。しかし、これは同時に、シハヌークが実質的統制力を失い、統一戦線内部の主導権が急速に過激派へ移る伏線ともなりました。

帰結とその後:内戦の全面化、1975年の政権崩壊へ

1970年から75年にかけて、カンボジアは全面的な内戦状態へと移行しました。米軍の越境作戦と支援、南北ベトナム勢力の活動、国内諸派の抗争が絡み合い、国家の統合は崩れます。1975年4月、プノンペンは反政府側に陥落し、クメール・ルージュ主導の政権が成立します。シハヌークは名目上の国家元首に据えられますが、短期間で実権を取り上げられ、のちに国外へ退去させられます。この間に都市住民の強制疎開や大量の殺戮が行われ、カンボジア社会は回復困難な傷を負いました。

国際的には、1979年のベトナム軍の介入と政権交代、1980年代の亡命連合政府の樹立、1991年のパリ和平合意、UNTACを経た立憲君主制の復活へと連なります。長い遠回りの末、シハヌークは象徴君主として復帰しますが、1970年の追放が開けた裂け目は深く、政治・社会・記憶の断層は今なお完全には癒えていません。

誤解の整理と歴史的評価:誰が「追放」したのか、何が崩れたのか

第一に、「追放=外国の陰謀だけで起きた」という単純化は不適切です。外的要因(ベトナム戦争・大国間競争)は決定的でしたが、都市商工層・軍・議会・王族内の不満、サンクム体制の統治上の矛盾、汚職や統制経済の行き詰まりといった内的要因が重なって、初めて政変の臨界に達しました。

第二に、「追放=民主革命」という理解も適切ではありません。議会決議の形式を取ったとはいえ、軍の圧力と非常時の空気が色濃く、民主体制の強化というよりは、治安・軍事の非常体制への転換でした。ロン・ノル体制は市民的自由を拡大したとは言いがたく、むしろ戦時統制が強まりました。

第三に、「シハヌークがクメール・ルージュを育てた」かどうかについては、評価が分かれます。1970年以降の統一戦線で彼が果たした動員の役割は、結果としてクメール・ルージュの勢力伸長に寄与しましたが、1960年代における地下組織の形成と地方浸透は別の要因(戦争の波及、国家の統治不全、国際支援)にも負っています。また、1975年以降の大量虐殺は、シハヌークの意思決定とは切り離された過激派主導の政策でした。

総じて「シハヌーク追放」は、冷戦の波が小国の政治を直撃し、国内の断層を噴出させた転回点でした。追放そのものは数日の政治手続と発表で完了しましたが、その余波は数十年に及び、国家の制度・社会の信頼・人々の記憶を深く変えてしまいました。出来事を理解するうえでは、王権の象徴資本、議会と軍の力学、農村社会の脆弱性、国際政治の収斂の四つを重ねて見ることが有効です。