広州 – 世界史用語集

広州(こうしゅう、粤語:Gwóngjāu/英語:Canton)は、中国南部・珠江(パールリバー)河口の要衝に位置する港湾都市で、古代以来、南海と内陸を結ぶ交易の扇の要として発展してきた都市です。地勢は山地から流下する水系が扇状地と三角州をかたちづくり、外洋へ開く湾と安全な錨地を提供しました。広州は、古代の「海のシルクロード」の主要停泊地として、唐代にアラブ・ペルシア商人が常駐し、宋代に広東海運と香料・陶磁の中継で繁栄し、清代には広州一港通商の下で「十三行」を拠点とする公行制度が確立しました。アヘン戦争後は条約港体制と近代港湾の整備で国際商業都市としての性格を強め、近現代の革命・戦争・再開発を経て、珠江デルタの工業・金融・物流のハブとして機能するに至っています。言語・料理・芸能・宗教・建築が交差する「嶺南文化」の中心地でもあり、華僑・華人の世界的ネットワークの母港として記憶されてきました。以下では、広州の歴史的成り立ち、通商制度と国際関係、文化と都市社会、近現代の変容という観点から、要点を整理して解説します。

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成立と地理・名称――珠江デルタの「南の門」

広州の古称は「番禺(はんぐ)」で、秦漢期には南海郡の治所として位置づけられました。嶺南(れいなん)と総称される南方世界において、広州は山稜に囲まれた背後地と、河口の入江が生む天然の港湾をあわせ持つ、稀有な立地にあります。珠江は西江・北江・東江の大水系が合流して河口に注ぐため、内陸からの物資集散が自然に集中しました。モンスーン(季節風)を利用する帆船交易にとって、静穏な水域と干満の差を見込める河口構造は、停泊・荷役・修理に適していました。

行政上、広州は古くから州・府の中心でしたが、唐代には「市舶司」が置かれて海外貿易の監督と課税が制度化され、港市としての性格がはっきりします。市舶司は入港船の検査、積荷の査定、関税の徴収を担い、外国商人の居住区や市場の管理にも関わりました。こうして、広州は単なる地方都市ではなく、帝国の海上ゲートウェイとして役割を担います。災害や戦乱で一時的に衰退する局面はあっても、地理の優位は時代を通じて失われることはありませんでした。

「広州」の名は行政区画の名称に由来しますが、ヨーロッパ語の「Canton(カントン)」は、広東(広東省)と広州の音と概念が混在して伝わった結果です。近世欧文史料では、港の名・省の名・商品の流通名がしばしば重なり、広州発の品(特に紅茶・磁器・絹)に「カントン」という地名が冠されました。今日、海外で「カントニーズ(広東人/広東語/広東料理)」という言い回しが広く用いられるのは、この歴史的蓄積の名残です。

海のシルクロードと商業世界――唐・宋・元の広州

唐代の広州は、ペルシア・アラブ商人の常駐で知られ、香料・薬材・象牙・真珠・珊瑚・ガラスといった西域・インド洋の産品が、絹・陶磁・金属器と交換されました。港には蕃坊(外国人居住区)が設けられ、言語・宗教・法習が交錯しました。イスラームのモスク(懐聖寺の伝承で知られる)や、南海神にまつわる信仰は、海上交通の安全を祈る実践と結びつき、港市の宗教的多様性を象徴します。海難や暴動、外港の移転といった不安定要因もありましたが、広州は長く東アジアの最大級の国際港として名を馳せました。

宋代に入ると、海上貿易は国家財政の重要な柱となり、市舶司の制度が精緻化します。福建の泉州・明州(寧波)なども台頭しましたが、広州は嶺南の背後地(広東・広西・雲南方面)と南海航路の結節点として地位を保ちました。陶磁の量産と標準化、海船建造の技術発達、紙幣(交子・会子)の導入と両替商の繁栄は、広州の市場をさらに厚くしました。元代には海上貿易が一時的な抑制を受ける局面もありましたが、イスラーム商人のネットワークと中国商人の航海術が融合し、広州—ジャワ—マラッカ—インド洋の回廊は維持されました。

この時代の広州では、多言語・多貨幣が当たり前でした。銭貨・銀地金・外来銀貨(後世にはメキシコ銀貨が流入)などの混合決済、度量衡の調整、通詞(リンガ)の養成は、市場の実務を支えるインフラでした。商人ギルドの協調、寺社の寄進、祭礼・縁日・市の時間管理は、港市社会の秩序を成り立たせる仕組みとして働きました。

十三行と公行制度――清代広州の独占通商とその終焉

18世紀半ばからアヘン戦争前夜にかけて、広州は「一口通商(広州一港に限定)」の方針の下、対外貿易の唯一の窓口となりました。城外の珠江沿いに整備された外商居留地「十三行」には、各国商館が並び、公行(コホン)と呼ばれる特許商人団体が、税関手続き・価格交渉・信用保証・紛争調停を一手に担いました。清朝側の粵海関(Hoppo)が関税を監督し、公行は連帯責任で外商の支払いと秩序を保証する仕組みでした。紅茶・生糸・磁器・砂糖・漆器などの輸出、銀(のちにはメキシコ銀貨)を中心とする決済は、広州市場を通じて国際価格に接続しました。

この体制は、港市の秩序を維持し、国家の徴税を容易にする利点がありましたが、閉鎖性と硬直性という弱点も抱えていました。19世紀に入ると、茶代金としての銀流入と、インド産アヘンの密輸による銀流出が逆流現象を引き起こし、信用秩序は揺らぎます。1839年、林則徐による虎門でのアヘン処分(銷煙)は、外商と清朝の対立を決定的にし、アヘン戦争へと発展しました。戦後の南京条約(1842)と追加条約により、上海・寧波・福州・厦門・広州の開港が定められ、広州独占は終焉、公行制度も解体へ向かいます。

その後、広州の国際商業は条約港体制の下で再編され、領事館・銀行・保険会社・近代税関が整備されます。沙面(沙面島)には外国の租界的機能をもつ居留地区が形成され、近代的な波止場・倉庫・灯台・検疫所が港湾機能を強化しました。蒸気船と電信の導入は、季節風に左右されない通年航行を可能にし、市況・為替・保険料率が世界と瞬時に連動する時代を開きました。広州は、独占の窓口から、多港分散型の国際ネットワークの一節へと性格を変えていきます。

都市文化と社会――粤語・粤菜・粤劇、宗教と建築の折衷

広州は、嶺南文化の中心として独自の都市文化を育みました。言語面では、粵語(広東語)が都市の口語として根づき、声調の多さと語彙の豊かさ、発音の多様性が知られます。交易や移民の歴史は、通詞や商人を介して多言語接触を常態化させ、粤語は外来語の取り込みにも柔軟でした。文字文化では、漢字に基づく標準書記に加えて、粤語の口語を表記するための工夫が近代に進み、歌詞・戯曲・新聞で独自の表現が育ちました。

食文化、すなわち粤菜(広東料理)は、広州の自然と交易が生んだ結晶です。海河の新鮮な魚介、畜産物、季節野菜を軽やかに調理し、素材の味を生かす調理法が重視されます。点心・早茶(モーニングティー)、乳猪・焼臘、清蒸の魚や海老、干貨を活かした旨味の重層などは、港市の流通と冷却・塩蔵技術が支えました。市場の厚みは、料理人と食材商が腕を競う舞台となり、味覚の洗練を促しました。

芸能では、粤劇(広東オペラ)が都市の娯楽として花開きました。交易で富んだ商人のパトロネージュ、寺社の祭礼・廟会、茶楼・戯院の空間が、役者・楽師・脚本家・衣装職人の生態系を支えました。歌唱・身振り・武芸・楽器(高胡や嗩吶など)の融合は、都市の国際性と在地性を同時に映し出します。近代以降は映画や大衆音楽にも広州の芸能文化が波及し、華語圏のポップカルチャーの一翼を担いました。

宗教空間も多層です。道教・仏教・祖先祭祀に加え、イスラームのモスク、カトリックやプロテスタントの教会が、商人・宣教師・移民の流れに沿って建ち並びました。懐聖寺のミナレットに似た塔、陳氏書院の装飾彫刻、嶺南建築の灰塑や彩陶は、工芸と信仰、都市美の交差点として著名です。街区は、騎楼(アーケード付き商店住宅)や細い路地、内向きの中庭を備える住居が気候対応の知恵を見せ、豪雨と強い日射、湿潤な空気に適応した都市形が形成されました。

広州はまた、華僑・華人の出立港として記憶されます。19世紀以降、東南アジア・北米・大洋州に向けて多くの移民が旅立ち、家族・宗族・同郷会・会館のネットワークが送金・投資・情報を循環させました。域外の中華街や企業は、広州・広東の人的資本と文化資本を世界へ運び、逆に外部の資金や技術を里へ引き戻す回路をつくりました。この往還が、広州のコスモポリタンな性格と企業家精神を支える見えない基盤となりました。

近現代の変容――革命・戦争・再開発と珠江デルタのハブ化

近代の広州は、政治運動の舞台でもありました。清末の改革思想や革命運動は、港市の開放性と印刷・通信の発達を梃子に広がり、辛亥革命前後には軍政・自治・商業の実験が重なります。戦乱期には都市が被害を受け、港湾・鉄道・電力といったインフラの復旧が課題となりました。20世紀半ば以降、国際環境の緊張や国内政策の転変を経て、広州は地域の物流拠点としての機能を維持しつつ、重工業・軽工業・繊維・食品加工・家電といった産業の集積を進めます。

改革開放期に入ると、珠江デルタ(PRD)一帯は外資導入・輸出加工・民営企業の活力で世界的な製造拠点に成長しました。広州は都市圏の中心として、港(黄埔・南沙)、空港、鉄道(広州—深圳—香港軸を含む)、高速道路、国際見本市(交易会)などのハブ機能を強化し、サプライチェーンの上位工程(設計・ブランド・金融・物流管理)を取り込みます。隣接する深圳・東莞・仏山・中山・珠海などと分業連携し、都市圏としての「大湾区」構想へ拡張したのは、広州が歴史的に担ってきた「結節点」の役割が現代的に再定義された結果と言えます。

都市空間では、旧市街(上下九・西関・越秀)と新都心(天河)・臨港開発(南沙)・技術拠点(科学城)など、多核の配置が進みました。河川景観と緑地、水害対策と河道浄化、歴史街区の保全と再利用、公共交通の整備は、湿潤な気候と高密な都市構造が抱える課題に対する応答です。気候や公衆衛生への配慮、歴史建築の保全、歩行者空間と公共文化施設の配置は、往古の市舶都市の経験を現代の都市計画へ翻訳する試みでもあります。

広州の「経済の顔」は変わり続けますが、「港—市場—人の往還」という骨格は不変です。海と川の交差点に立つ都市は、常に外部と結びついて自らを作り替え、危機のたびに交易と移動の機能を再起動してきました。古代の市舶司から清代の公行、条約港の税関、現代の港湾公社と物流企業に至るまで、広州は制度の衣を換えながら、結節の都市であり続けているのです。

総じて、広州は、地理のアドバンテージ、国家制度との接合、商業の実務、文化の寛容が長期的に重なり合って形成された世界都市です。唐・宋の国際港、清代の独占通商、近代の条約港、現代の大湾区のハブ――それぞれの時代像は異なって見えても、基底にあるのは「海と川が運ぶ人と物の流れを、都市の制度と文化で受け止める」という一貫したロジックです。広州という地名は、そうしたロジックの持続を示す歴史用語であり、アジア海域世界のダイナミズムを理解するうえで欠かせない鍵なのです。