シヴァージー(Shivaji, 1630–1680)は、17世紀インドにおいてムガル帝国とデカン諸勢力の間隙を突き、マラーターの地域社会を基盤に独自の王国を築き上げた指導者です。のちに「チャトラパティ(王権の保持者)」として戴冠し、のちのマラーター同盟の出発点となる政治・軍事・行政の様式を整備しました。彼の成功は、山岳要塞の連鎖と軽快な騎兵による機動戦、徴税・土地台帳・港湾徴収などの財政基盤の確立、地域共同体と在地武装の動員、そして柔軟な外交に支えられていました。熱烈なヒンドゥー王像として語られる一方、現実にはイスラーム勢力とも交易・停戦を繰り返し、実務的な統治を志向した側面が強いです。ムガル帝国の拡張が頂点に達したアウラングゼーブ期にあって、シヴァージーの挑戦はインド亜大陸の権力地図を塗り替える契機となり、18世紀のムガル衰退期にマラーターが広域へ進出する基礎を築きました。
出自・時代背景――デカンの政治地理とマラーター社会
シヴァージーは1630年、デカン高原のプネ近郊シヴネーリー要塞で生まれました。父シャハージー・ボースレーは当時のデカン政治で鍵を握った武将で、アフマドナガル、ビージャープル、ムガルの間で主従を変えながら領地と影響力を保っていました。母ジージャーバーイーは敬虔なヒンドゥー女性で、叙事詩や英雄譚を通じて息子の規律と信仰心を育てたと伝えられます。デカンでは、イスラーム王朝(アフマドナガル・ビージャープル・ゴールコンダ)が台頭しつつ、在地のマラーター農民・小領主(デーシュムク/デーシュパーンデー)・傭兵層が軍事と課税で重要な役割を担っていました。ムガルの南下、デカン諸王国の抗争、海岸部(コンクン)の海商・海賊勢力の活動が複雑に絡み合い、在地勢力が自律する余地が生まれていました。
マラーター社会は、村落共同体の自立性、馬の飼育と騎兵運用への適性、山地要塞(ドゥルグ)を拠点とする防御文化を特徴とします。シヴァージーは少年期から要塞と山道に精通した家臣団(マヴラ)を育て、近隣の小要塞を買収・攻略・築城で繋ぎ、支配の核を形づくりました。宗教面ではヒンドゥーの信仰が基層にありつつ、イスラーム政権下での実務経験を持つ役人やイスラーム教徒の武将も周囲にいたため、宗教境界を越えた人材登用が可能でした。この多元性が、後の拡張と統治の柔軟性を支えることになります。
台頭と国家形成――要塞戦・奇襲・交渉の三位一体
1640年代後半、シヴァージーはビージャープル王国の緩んだ統治の隙を突き、プネ周辺の要塞と徴税権を掌握しました。1646年のトールナ要塞占拠はその象徴で、続けてラージガドを本拠として防衛線を拡充します。彼の戦法は、(1)山岳要塞の連鎖による根拠地の確保、(2)小規模・高機動の騎兵(ライト・カバルリー)による奇襲・遮断、(3)勝てない敵には迅速に停戦・講和を結び、時間を稼いで再起する、という三点に集約されます。海岸部ではアーングレ(東インド会社)やシディー(ジャワハルの海上勢力)と対峙しつつ、船団と港湾税で財源を補いました。
1659年、ビージャープル王国は名将アフザル・ハーンを差し向けます。シヴァージーはプラタープガド要塞麓での会見において、突然の急襲でアフザル・ハーンを討ち、指揮系統を混乱させて大勝しました。この事件は彼の果断と謀略の象徴として有名です。1660年にはムガル側からシャイスタ・ハーンが派遣され、プネの拠点が圧迫されますが、シヴァージーは夜襲でシャイスタ・ハーンの館を襲撃して威信を回復します。1664年には著名な交易都市スーラトを急襲して富を獲得し、戦費と家臣への恩賞に充てました。略奪という評価もありますが、当時の戦争経済においては、商業都市への一撃は財政と政治宣伝の双方で効果的でした。
ムガル皇帝アウラングゼーブは事態の重大さを認識し、ラージプートの名将ジャイ・スィンを派遣します。1665年のプルダルの講和で、シヴァージーはムガルの藩属的地位を受け入れ、息子サンバージーを宮廷へ派遣しましたが、翌年アーグラで不利な待遇を受けて拘束されます。彼は果物籠に身を隠す奇計で脱出したとの逸話で有名で、実際に脱走に成功してデカンへ帰還しました。この間の屈伸は、彼が単なる山賊ではなく、外交と時間稼ぎを熟知した現実主義者であったことを物語ります。
軍事・行政・財政――ガネミ戦法と制度化の努力
シヴァージーの軍事思想はしばしば「ガネミ戦法(Ganimi Kava=ゲリラの計)」と呼ばれます。正面決戦を避け、敵の補給線を断ち、奇襲と退却を使い分ける方法で、山岳地形と騎兵を生かしました。要塞は単なる籠城施設ではなく、情報・糧食・徴税・裁判のセンターであり、周囲の村落と密接に結びついて機能しました。多くの要塞には信頼厚い守将(ハヴァルダール)を置き、火薬庫・貯水池・倉庫を整備し、平時も行政機能を持たせています。
行政面では、アムアニシュ(8官制)と称される枠組みが整えられたと伝えられます。すなわち、ペーシュワー(宰相)、マズムダール(会計)、ワキーニヴィス(文書・秘書)、サーブニス(出納)、ダブー(外務)、スルンディス(軍需)、サダル(司法・宗教)、ナヤディシュ(裁判)など、役職分担を明確にし、財政・軍事・司法の運営を制度化しました。実際には時期と人材によって運用は流動的でしたが、家臣団の私的領域と公的財政を区別しようとする意識は一貫して見られます。
財政基盤として有名なのが、チャウト(一種の四分の一税)とサルデーシムキ(追加の一割課)です。これらは占領地外の諸藩やムガル管区に対しても、保護料・通行料として徴収され、マラーターの広域展開の資金源になりました。土地台帳の整備、測量、収穫に応じた地租の安定化も試みられ、農民の離反を抑えることが重視されました。港湾では関税・停泊料・取引税を組み合わせ、コンクンの海運・造船の技術を活用して小艦隊を保有しました。これらの施策は、後継の宰相バージー・ラオらによる18世紀の財政・軍政展開の雛形となります。
人材登用では、出自より能力を重んじ、マラーターだけでなくデカンのムスリムやラージプート、ブラーフマナの文官など多彩な人々を起用しました。通訳や商人ネットワークも軍政に取り込まれ、内陸と海岸、山地と平野を結ぶロジスティクスが整備されました。宗教施設への寄進や寺院の保護は王権の正統性を支える儀礼でしたが、イスラーム施設の一律破壊を志向したわけではなく、敵対勢力の軍事拠点化や政治的意味に応じて対応を変えています。
戴冠と対ムガル戦――象徴政治と現実主義の交錯
1674年、ラージガドからライガドに遷座したシヴァージーは、壮大な儀礼をもって「チャトラパティ」として正式に戴冠しました。ヴァラナシなどから招いたブラーフマナの学者ガガバッタが儀礼を監修し、血統の正統性を学術的に補強する形で王位が整えられました。これは、在地の武装指導者から「王」への脱皮を内外に宣言する政治演出であり、税目の正当化、家臣団の序列化、外交上の交渉力強化に資するものでした。王号の採用は同時にリスクも伴い、ムガル帝国との対立の度合いを高める可能性がありましたが、彼は停戦・攻勢・略取の配分で緊張の調整を図りました。
1676年以降、シヴァージーは南のカルナータカ方面へ遠征し、ゴールコンダ・ビージャープルの宥和・脅迫を使い分けて軍資金と領域を拡張しました。ムガル帝国側ではデカン総督が交代し、アウラングゼーブ自身も長くデカンに駐在して対処しますが、広大な戦線維持は帝国財政を圧迫しました。シヴァージーは正面決戦を避けつつ、補給線への打撃と要塞の出入りで帝国軍を疲弊させました。彼の死(1680)後、息子サンバージーは捕縛・処刑され、一時的に劣勢に陥りますが、のちにターラバーイーらの指導でマラーターは再結集し、18世紀には宰相ペーシュワーの下で北インドへ進出していきます。すなわち、シヴァージーの遺産は個人の死で消えず、制度とネットワークとして生き延びました。
宗教・文化・記憶――ヒンドゥー王の表象と多元的現実
近代以降、シヴァージーは「ヒンドゥーの英雄」「原初の国民的王」として記憶され、地域アイデンティティとナショナリズムの双方において重要な象徴になりました。王の像(エコノグラフィ)は、虎皮の旗、剣、王冠、山城の背景などで語られ、公共空間の銅像・記念日・学校教材・映画で繰り返し再生産されます。他方、史料を丹念に読むと、シヴァージーは宗教的憎悪を一義とする戦争より、地政学と財政の合理計算に立脚した現実主義者でした。ムスリムの将兵を登用し、イスラームの宗教施設に対しても、政治的判断にもとづく選択的対応を取っています。これは当時のインドの標準から見ても特段異例ではなく、複数の共同体が重なり合う社会で統治を成立させるための術でした。
文芸・言語面では、宮廷でのマラーティー語の整備、文書行政の定型化、年代記(バフシャー)や書簡の蓄積が進み、のちの歴史記憶の素材になりました。武勇譚・民謡・聖者伝が王の物語と重なり、近代の歴史小説・演劇・映画がそれを再解釈して大衆化させました。学問の側では、ポルトガル語・英語・ペルシア語史料も突き合わせ、伝説と史実の仕分けが試みられています。
評価と位置づけ――「山賊か建国者か」を超えて
シヴァージーの評価は、時代と立場で大きく揺れます。敵対者からは略奪と急襲の首謀者とされた一方、支持者からは在地社会の保護者・改革者と称えられました。現代の視点からは、(1)地形・在地社会・軍事技術を統合したオペレーション能力、(2)財政・徴税・官制の制度化への意志、(3)停戦・同盟・婚姻・贈賄・威嚇を織り交ぜた外交手腕、(4)象徴政治の洗練(戴冠・儀礼・寄進)、の四点が持続的な遺産として指摘できます。ムガル帝国の巨大な官僚制に対抗するには、局地的優位を積み重ねて広域へ伸びる長期戦略が必要でした。シヴァージーはその設計図を描き、後継者たちはそれを拡大再生産したのです。
総じて、シヴァージーは「ヒンドゥー王対イスラーム帝国」という単純な図式では捉えきれない、17世紀インドの複合的現実の産物でした。山と海、村と都市、在地社会と帝国官僚、宗教と実務――それらの結節点に彼は立ち、切断されがちな領域をつないで一つの国家形を試作しました。その試作は、やがて18世紀のマラーター拡張とムガルの衰退、さらに19世紀のイギリス東インド会社支配の文脈へと連なる、大きな流れの起点だったと言えます。シヴァージーを学ぶことは、勢力間の「差」を数えるのではなく、地形・財政・制度・記憶が交差する「場」を読む訓練でもあります。

