開化派(独立派) – 世界史用語集

開化派(独立派)は、19世紀後半の朝鮮(李氏朝鮮)で、清の宗主権的影響からの自立と、西洋・日本の制度を取り入れた近代国家づくりを急進的に進めようとした改革グループを指します。彼らは身分制と旧慣の打破、中央集権的な行政・軍制の整備、学制と言論の近代化、通商と産業育成、外交の独立性の確立を主張しました。代表的人物には金玉均(キム・オッキュン)、朴泳孝(パク・ヨンヒョ)、洪英植(ホン・ヨンシク)、徐光範(ソ・グァンボム)らが挙げられます。1882年の壬午軍乱で清の干渉が強まると、彼らは日本の支援で1884年に甲申政変を起こして政権掌握を試みましたが、清軍の介入で三日天下に終わり、多くが亡命・処刑されました。短命に終わった運動ながら、その理念は1894年の甲午改革や1896年の独立協会、さらに20世紀の民族運動へと連なり、朝鮮の近代化と主権の問題を鋭く提起した点に歴史的意義がありました。

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成立の背景と思想—清の宗主権、壬午軍乱、近代国家への危機感

19世紀後半の朝鮮は、内政の停滞と対外圧力の板挟みでした。国内では財政の窮乏、身分制の硬直、軍制の旧態依然が続き、地方では民乱が相次ぎました。対外的には、開港を迫る列強の海防問題に加え、宗主国とみなす清の影響力が強く、宗藩関係に依拠する外交枠組みが国家主権の制約として露わになっていました。1876年の江華島条約で日本と不平等条約を結んだことは、通商の扉を開く一方で、関税自主権や領事裁判権の問題を抱え込む出発点でもありました。

こうした状況で一部の知識人と若手官僚は、洋学・兵制・会計・郵便・教育などの近代制度を学び、清への過度の依存から脱して独立国家としての体制を整える必要を痛感しました。彼らはしばしば「開化派」と呼ばれ、日本の明治改革や西欧の立憲・中央集権・常備軍・近代財政のモデルを参照しました。彼らが「独立派」とも称されたのは、名目上の宗主権を振りかざす清の干渉を退け、対等外交へ移行しようとした点にあります。これに対し、伝統秩序の維持と清との関係重視を唱える勢力は「事大派」あるいは「守旧派」と呼ばれ、宮廷では閔氏外戚勢力がこれを体現しました。

思想的には、科挙と朱子学的秩序の見直し、身分制の廃止、俸給制官僚と常備軍による国家の再編、税制の貨幣化・台帳整備、商業・鉱工業の育成、郵便・電信・鉄道・新紙幣・銀行といったインフラの整備、そして何よりも「朝鮮は自主の国家である」という国際的地位の確立が掲げられました。王権そのものを否定するのではなく、王権を近代的官僚制の上に据えなおす意識が強かった点も特徴です。

主張と政策像—身分と財政の刷新、軍制・教育・言論の近代化

開化派が想定した改革の柱は、第一に身分制の打破でした。良民・賤民の差別や中人・両班などの法的区分を廃して、租税と兵役・教育の義務を全国民に平等化し、官職は能力と試験で登用することを志向しました。これは、租税基盤を拡げて国家財政を健全化し、地域の有力者による私的支配を抑える狙いを伴っていました。

第二に財政の立て直しです。地租・商税の近代的台帳化、従来の現物納から金納への転換、予算・決算の公開と会計規則の制定、紙幣発行権の統一、通商条約の関税条項の見直しなどが構想されました。王室費と官僚俸給の透明化、賄賂・付け届けの撲滅も、国家信頼の再建に不可欠と考えられました。

第三に軍制改革です。常備軍の整備、近代的訓練と装備、首都の守備と地方警察・憲兵の役割分担、軍学校の設立が図られました。旧来の軍隊は給与遅配と装備の遅れから不満が大きく、1882年の壬午軍乱はまさに軍制崩壊の帰結でした。開化派は、近代的軍制こそが国家の独立を守る土台だと考えました。

第四に教育・言論の近代化です。学制の全国整備、師範学校・実業学校・語学学校の創設、新聞の発行と印刷技術の導入、翻訳局と海外留学生制度による知識の移植が構想されました。儒学だけでなく、数学・地理・化学・法学・政治学を取り入れた実学志向は、社会の意識を「臣民から国民へ」と切り替える試みでもありました。

第五に外交・通商の再設計です。清との冊封・朝貢的関係を是正し、対等条約へ移行すること、領事裁判権や関税自主権の回復、港湾・税関・郵便の国家管理、外国人居留地・借款の取り扱いの厳格化などが含まれました。日本・欧米の力を利用する現実主義はあっても、基本線は「清の宗主権否認と主権回復」にありました。

甲申政変と挫折—日本との接近、清の介入、亡命と暗殺

1882年の壬午軍乱は、京城(漢城)での兵士暴動と日本公使館の焼打ちを招き、清軍が大挙介入して政局を掌握する契機となりました。以後、袁世凱が駐留し、清の内政干渉が強まります。開化派の若手はこの局面を打開しようと、日本の明治政府・在京の政治家と連絡し、支援と保護の見返りに迅速な政変で主導権を握る構想を固めました。

1884年末、郵政開設祝賀の席を機に、金玉均・朴泳孝らは宮城と要所を急襲し、国王高宗・閔妃(明成皇后)を保護する名目で政権を掌握しました。新政府は、身分制の撤廃、内閣制に近い機構の整備、王室費の整理、税制改革、官制簡素化、近代学校の設立など急進的布告を相次いで出しました。しかし、清軍がすばやく反撃し、日本の守備兵は少数で、政権は三日で崩壊します(甲申政変)。多くの開化派は日本へ亡命し、残留組は処刑・流罪に処されました。

亡命者たちは東京や横浜で雑誌を刊行し、朝鮮の改革と独立を訴え続けました。金玉均は日本と欧米を視察し構想を練り直しますが、1894年に上海で刺客により暗殺され、遺体は朝鮮に送り返されて梟首されました。この事件は、開化派の象徴的終焉であると同時に、彼らの理念が国内保守と清・列強の交錯の中でいかに孤立していたかを示しました。

なお、甲申政変の翌年1885年には日清間で天津条約が結ばれ、双方は朝鮮から軍を撤兵し、以後の派兵には事前通告を要することが定められました。この枠組みは、朝鮮をめぐる日清の勢力均衡を一時的に保ちましたが、根本の主権問題は未解決のままでした。

影響と継承—甲午改革、独立協会、民族運動への橋渡し

開化派の政変は失敗に終わりましたが、彼らの政策目標の多くは、その後の情勢変化の中で別の回路から現実化していきます。1894年、東学農民運動の鎮圧をめぐる日清戦争の最中、日本の圧力下で成立した新政府は「甲午改革」を断行し、身分制の法的廃止、科挙の撤廃、官制の近代化、財政・軍制・教育の改革など、開化派が掲げた課題の相当部分を制度に落とし込みました。もっとも、外国軍の影響下での改革は主権の空洞化を伴い、民衆の支持は限定的でした。

1896年に徐載弼(ソ・ジェピル、米名フィリップ・ジェイソン)らが創設した独立協会は、新聞『独立新聞』や独立門の建設、公開演説会を通じて「自主独立」「言論・結社の自由」「近代市民の育成」を訴えました。独立協会の運動は、開化派の理念を民衆的・公開的な形で継承し、官僚グループ中心だった開化派との性格の違いを示しました。独立協会はやがて保守勢力の弾圧で解散に追い込まれますが、近代的公共圏の萌芽を確かに育てました。

20世紀に入ると、日露戦争と日本の保護国化・併合へと情勢は急転します。開化派の「国家を近代化し独立を保つ」という目標は、以後は植民地支配への抵抗と民族運動の目標として転生します。1919年の三・一独立運動や暫定政府、教育・文化運動の地層には、開化派—独立協会を経た「自主独立」の語彙が脈打ち続けました。つまり、開化派の歴史は、単に「親日的急進派の三日天下」と片づけられるものではなく、主権・制度・市民という近代のキーワードを朝鮮社会に持ち込んだ初期の試みとして位置づけられます。

同時に、教訓も残しました。第一に、外部勢力の利用は、容易に主権の損耗と結び付きます。第二に、上からの制度改革だけでは、社会の広い支持を獲得できず、反発に脆弱です。第三に、宗主国・列強の競合が激しい環境では、改革勢力の組織・自立的資金・舶来の制度を咀嚼する知的基盤が不可欠です。開化派は時代の制約を超えきれませんでしたが、のちの改革者に課題の地図を手渡しました。

総じて、開化派(独立派)は、朝鮮の近代化と主権回復をめざす「最初期の設計者集団」でした。甲申政変の挫折は、外圧と内圧の均衡、理念と手段の選択、官僚エリートと民衆の距離といった難題を露わにしましたが、彼らの掲げた平等・法治・教育・軍制・財政のキーワードは、その後の改革と運動を貫く羅針盤になりました。短くとも濃密な時間の中で描かれたこの設計図は、近代朝鮮の出発点を理解するための不可欠の手掛かりであり続けます。