サイゴン – 世界史用語集

サイゴンは、現在のベトナム最大の都市ホーチミン市の旧称であり、近代インドシナ史と冷戦期世界史の舞台となった都市です。19世紀後半にフランスの植民都市として整備され、のちに南ベトナム共和国(1955–1975)の首都として政治・経済・文化が集中しました。1975年の「サイゴン陥落」(ベトナム側ではサイゴン解放)によって、都市は統一ベトナムのもとに組み込まれ、その後のドイモイ(刷新)政策を経て東南アジア屈指の経済中枢へ成長しました。今日、公式名称はホーチミン市ですが、中心街や歴史景観、商業文化を指す通称として「サイゴン」が広く使われます。サイゴンという名は、植民地近代・内戦・統一・市場化という激動を一身に引き受けた都市の記憶を象徴する言葉なのです。

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起源と植民地都市の形成:水郷から「東洋のプチ・パリ」へ

サイゴンの起源は、メコン・デルタ北東縁に展開した水郷の集落と交易路にあります。近世以降、阮(グエン)王朝の南進や華人商人の活動によって港市的機能が発達し、隣接するチョロン(堤岸)地区は米・砂糖・酒造・繊維などの商工業で繁栄しました。19世紀半ば、フランスがコーチシナ(南部ベトナム)を植民地化すると、サイゴンは軍港・行政中心として再編され、放射状の街路、街区の碁盤目、並木の大通り、カトリック大聖堂、官庁街、劇場、郵便局など、西洋都市の意匠が導入されました。

フランスはサイゴンをインドシナ連邦の玄関口に位置づけ、米・ゴム・錫などの輸出拠点、官僚・軍人・企業家の居住地として整備しました。衛生や上下水、港湾・鉄道インフラの整備は植民統治の効率化を目的としつつ、都市の生活文化を変えました。カフェやベーカリー、フレンチ様式の建築は今日まで残り、熱帯の気候に合わせたベランダやシャッター、アーケードなどが、ヨーロッパ的景観とアジア的生活実践を折衷させました。植民地都市としてのサイゴンは、一方で特権的な白人居住区と、周縁のベトナム人・華人居住区の分離を生み、不均等な近代化の空間構造を固着させました。

この時期、サイゴンは知識人・印刷・新聞の中心ともなり、国民意識の芽生えを支える場になりました。官庁や学校でフランス語教育が広がる一方、クオック・グー(ラテン文字表記ベトナム語)の普及が進み、都市は植民統治の言語政策と民族運動の言論空間が交錯する舞台となりました。民族主義者、社会主義者、宗教改革運動など多様な潮流が、サイゴンの印刷所と路上の集会から広がっていきます。

南ベトナムの首都:冷戦・都市文化・戦争の影

第二次世界大戦と日本軍進駐、1945年の八月革命と第一次インドシナ戦争を経て、1954年のジュネーヴ協定はベトナムを北緯17度線で暫定分割しました。サイゴンは南側の政治中心となり、1955年に成立した南ベトナム共和国(ベトナム共和国)の首都として国際社会に登場します。米国の軍事・経済援助のもと、行政機構の拡充、道路と通信の整備、大学や病院の拡張、映画・音楽・ファッションなど大衆文化の隆盛が見られました。バーやカフェ、ライブハウス、新聞社が集まる繁華街は、東南アジア有数の都市的活気を帯びます。

一方で、農村部の反政府ゲリラ(南ベトナム解放民族戦線)と政府軍の対立、クーデタの頻発、仏教徒抗議運動など、政治不安は絶えませんでした。1960年代半ば以降、アメリカ軍の大規模介入はサイゴンの都市構造を変え、軍事基地、通信センター、ホテル群、報道機関の拠点が林立しました。都市周辺では難民・出稼ぎ・兵士の流入が急増し、スラムの拡大と所得格差の拡大、地下経済の肥大化が深刻化します。

1968年のテト攻勢は、軍事的には北側の損失が大きかったものの、「戦争は終わりが見えない」という心理的打撃を国際世論に与え、サイゴン市内の激戦は都市の脆さを露呈しました。1973年のパリ和平協定で米軍は撤退に向かい、1975年4月、北ベトナム軍と南側革命軍がサイゴンに進入し、独立宮(現在の統一会堂)に戦車が入った象徴的場面をもって政権は崩壊しました。この瞬間は「サイゴン陥落」と報じられ、ベトナム側では「解放」と呼ばれ、冷戦史の大きな転換点として記憶されています。

戦時下の都市文化は複雑でした。南ベトナムのポップス(タンニャック)や映画、新聞漫画は都会的洗練を見せる一方、検閲・プロパガンダ・ペーパーカンパニーの乱立もまた現実でした。都市のカトリック教会、仏教寺院、華人の廟は、宗教と市民社会の多層性を示し、避難民の支援や教育活動に重要な役割を果たしました。サイゴンは、外から見える華やかさと、内側に蓄積する疲弊とがせめぎ合う都市だったのです。

1975年以後:改名、再編、ドイモイとグローバル都市化

1975年の統一後、サイゴンは「ホーチミン市」と改称され、旧サイゴン市に周辺郡を編入する形で行政区画が再編されました。初期の計画経済期には、私企業の国有化や配給制度が実施され、都市の活力は一時的に低下します。海外へのボートピープルの流出、対中関係の悪化とカンボジア紛争、ソ連圏との経済連携など、外部環境も厳しいものでした。市場や商店は統制下に置かれ、住宅不足とインフラの老朽化が顕在化しました。

転機は1986年のドイモイ(刷新)政策にあります。市場経済の導入、対外開放、民間投資の容認、輸出志向の工業化が進むと、ホーチミン市(旧サイゴン)は製造業・物流・金融・IT・観光の一大中心地へ再起動しました。外資系企業の誘致、輸出加工区・ハイテクパークの整備、サービス業の高度化が進み、都市は再び国内外の若者と技能人材を引き寄せました。高層ビル群、商業モール、国際ホテル、外食産業の多様化は、植民地期のヨーロッパ風景と並んで新しいスカイラインを形づくりました。

この過程で、チョロンは卸売・物流の要として機能を維持し、歴史的寺院や市場は観光資源となる一方、再開発は古い街区と住民の生活文化に圧力を与えました。中心部(1区・3区)ではフランス植民地様式の建築物—中央郵便局、聖母マリア教会、オペラハウス、人民委員会庁舎—が修復・活用され、周囲に現代建築が立ち並ぶ景観が生まれました。交通混雑、大気汚染、洪水リスク、住宅価格の高騰といった大都市病も深刻で、都市計画と公共交通(地下鉄、BRTなど)の整備が急務とされます。

国際関係の面では、1990年代以降の対米関係正常化、ASEAN加盟、WTO加盟、CPTPP参加などが、サイゴンの国際都市化を加速させました。スタートアップ、ゲーム・ITアウトソーシング、クリエイティブ産業、観光・MICE(会議・展示)などの分野では、若い人口構成と企業家精神が強みとなっています。カフェ文化、ストリートフード、ライブ音楽は、歴史的多層性と新旧混淆の魅力として国内外の観光客を惹きつけています。

名称と記憶の政治:ホーチミン市=サイゴンの二重性

1976年に都市名はホーチミン市へと改められましたが、「サイゴン」の名は完全には消えませんでした。地元住民、ディアスポラ(海外移住者)、外国人旅行者の間で、中心街や旧市街の商業文化を指して「サイゴン」と呼ぶ習慣が根強く残り、ブランド名や店舗名、ポップカルチャーの中でも頻繁に用いられます。これは単なる懐古ではなく、都市の歴史的層位を併存させる実践でもあります。行政名称としてのホーチミン市は、政治的正統性と国家統一の記憶を背負い、通称サイゴンは、植民地近代・戦争・市場化を通じて形成された都市文化の連続性を示します。

記憶の政治は、ディアスポラの経験とも結びつきます。1975年以後に海外へ移住した人々のコミュニティでは、「サイゴン」は故郷の象徴的名称であり、食文化・音楽・言語の保存の核となりました。近年は逆に、観光やビジネスでの往来が増え、海外コミュニティの文化資本がサイゴン/ホーチミン市の創業や文化イベントに還流する動きも見られます。都市の名前は、対立や断絶の記憶をはらみながらも、接続と再解釈のプラットフォームになっているのです。

また、過去の戦跡と記念施設—統一会堂、戦争証跡博物館、クチトンネル—は、国内教育と国際観光の双方に向けて語りの場を提供します。展示の解釈は政治的文脈に依存しますが、多声音的なツーリズムや研究が進むにつれ、都市史の複雑さをより立体的に提示しようとする試みが増えています。公共空間での壁画、アートイベント、独立系ギャラリーの活動は、過去と現在を往復する都市の語り直しを促しています。

都市空間と文化:水と道路、食と音楽の地政学

サイゴンの都市空間は、水系と道路が重ね描きされてきた歴史を反映します。サイゴン川の湾曲、支流の運河(カナル)、湿地からの埋立と堤防の建設は、洪水対策と輸送・商業の動線を同時に規定しました。植民地期に整備された運河網と道路は、戦時・戦後の物流を支え、今日のバイク文化と渋滞の根にもなっています。近年の地下鉄建設は、地盤と水位の管理、歴史的建造物の保全といった難題と格闘しながら進んでいます。

食文化は、ベトナム北中南の食材・調理法と、華人・仏・印・クメールの影響が交差するカレイドスコープです。バインミー、フォー(南部風は甘味のある澄んだスープが多い)、コムタム、フーティウ、カフェ・スア・ダー、バイミ・スイーツなど、通りの屋台から洗練されたレストランまで、都市の多層性が皿の上に現れます。音楽では、戦前からのタンニャック(都会派ポップス)が、戦後のボリューム歌謡や海外ディアスポラのバラードと響き合い、近年はインディー・ヒップホップ・EDMが若者文化を牽引しています。

スポーツや公共余暇の空間も変容しました。川沿いの遊歩道、公園、ショッピングモールの屋上庭園、コミュニティの読書カフェやコワーキングスペースが、市民の交流を支えます。祭りやテト(旧正月)前の花市、中秋節のランタン市、宗教行事の行列は、都市の時間感覚を季節と結び付け、路上を共同体の舞台に変えます。

まとめ:名前に宿る都市の記憶

サイゴンは、地図上の一点以上の意味を持つ都市です。水郷の港市から植民地の行政都市へ、冷戦の首都から統一国家の大都市へ、計画経済から市場化のハブへ—その変化は、東南アジアと世界の20世紀を映す鏡でした。公式にはホーチミン市と呼ばれる現在も、通称サイゴンは都市の歴史的地層を呼び覚まし、人々の記憶と生活感覚に根差した名として生き続けています。建物、食、音、言葉、そして人の移動のなかに、サイゴンという都市の時間は堆積し、更新され続けています。そこに、この都市を学ぶ意義と魅力があるのです。