カーナティック戦争 – 世界史用語集

カーナティック戦争は、18世紀半ばのインド南部(コロマンデル海岸一帯=「カーナティック地方」)を主戦場として、フランス東インド会社とイギリス東インド会社が、現地政権(カーナティック太守家・ハイダラーバードのニザーム家・マラーター勢力など)の継承争いや都市支配をめぐって三度にわたり衝突した一連の戦争の総称です。形式上はヨーロッパの大戦—オーストリア継承戦争(第一次、1746–48)と七年戦争(第三次、1756–63)—のアジア戦線という位置づけですが、実態は欧州勢力とインド在地の王侯・貴族・傭兵隊が入り混じる複合的な内戦・代理戦争でした。フランス側のデュプレクスやブシー、イギリス側のクライヴやエア・クートらが台頭し、アルコット防衛戦(1751)やワンディワッシュの戦い(1760)などが転機となりました。1763年のパリ条約でフランスはインドでの「政治介入」を事実上断念し、商館(ポンディシェリなど)の保有にとどまることとなります。結果として、イギリス東インド会社は南インドでの覇権を固め、のちのベンガル支配・マイソール戦争・マラーター戦争へと続く、英領インド形成の起点が築かれました。以下では、名称と舞台、三次戦争の展開、軍事・財政と「会社の戦争」という構造、そして帰結と歴史的意義を、要点を押さえて説明します。

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名称・舞台・登場勢力――「カーナティック」とは何か

「カーナティック」(Karnatic/Carnatic)は、今日のカルナータカ州(内陸のデカン南西)と混同されがちですが、18世紀の英仏記録で主に指すのは、コロマンデル海岸のマドラス(チェンナイ)周辺から内陸アルコット平原、さらにティルチラーパッリ(トリチノポリ)一帯に広がる南インド東岸の地域です。形式上はムガル帝国の地方統治の継承者であるハイダラーバードのニザームの宗主権下に置かれ、日常行政はカーナティック太守(ナーワーブ)が担いました。18世紀前半にはムガルの求心力が急速に衰え、太守家の継承と地域間の勢力均衡が流動化し、そこに海商都市を拠点とした欧州会社勢力が深く介入しました。

英仏の東インド会社は、海上輸送・綿織物貿易・胡椒や染料の取引で競合しつつ、雇用セポイ(現地歩兵)と欧州式砲兵・士官の混成戦力を増強していました。フランス側はポンディシェリ(本拠)やカライカール、イギリス側はマドラスやフォート・セントデーヴィッド(カダロール近郊)などを拠点に、在地政権の王位継承争い(ハイダラーバードのニザーム継承、カーナティック太守位をめぐるムハンマド・アリー vs チャンダ・サーヒブ)に軍事顧問・資金・砲兵を提供して「王作り(キングメイキング)」を試みました。欧州勢力の勝敗は、しばしばインド側エリートの同盟切り替えや財政提供、徴税権(ジャーギール)付与と連動していました。

三次戦争の展開――第一次・第二次・第三次の要点

第一次カーナティック戦争(1746–48)は、オーストリア継承戦争の余波として勃発しました。1756年ではなく1746年、フランス艦隊長ラ・ブルドネがマドラスを奇襲・占領し、英側の主要拠点が一時陥落します。これに反発したカーナティック太守アンワルッディーンは、海岸での欧州同士の私闘を軽視して小規模兵で介入しましたが、サン・トメ近郊の戦闘でフランスの近代砲火に敗北し、在地勢力が「欧州式砲兵・歩兵連携」の威力を認識する契機となりました。やがてフランス本国と英本国の講和(アーヘン/エクス=ラ=シャペル条約、1748)により、フランスはマドラスを返還、英側は北米ルイブールの返還に応じ、第一次は領土原状回復で終結します。その間、ポンディシェリ総督デュプレクスは在地政治への関与を深め、「軍事援助と引き換えに太守・ニザーム継承に口を挟む」戦術を固めました。

第二次カーナティック戦争(1749–54)では、在地継承争いが主役になります。ハイダラーバードのニザーム継承をめぐり、ナージル・ジャング vs ムザッファル・ジャングが対立し、カーナティックでもアンワルッディーンの系譜(ムハンマド・アリー)と、フランスが推すチャンダ・サーヒブが争いました。デュプレクスはフランス砲兵・将校を貸与してムザッファル・ジャングとチャンダ・サーヒブを擁立、対して英側はクライヴらがムハンマド・アリーを支援します。転機は1751年のアルコット防衛戦です。クライヴは少数の欧州兵とセポイでアルコット城を奇襲占拠し、包囲に耐え抜くことで名声を獲得、在地諸勢力の離反を誘いました。続くトリチノポリ(ティルチラーパッリ)周辺での攻防、カーヴェリーパック近郊戦などで英側が優位に立ち、フランスの財政と同盟網は疲弊します。1754年にポンディシェリ和約が結ばれ、デュプレクスは本国の対立と責任追及で召還、英仏ともに在地君侯の争いからの手を引くとしながら、実際には影響力を維持し続けました。

第三次カーナティック戦争(1756–63)は、七年戦争のアジア戦線として再点火します。フランスはラリー=トランダル伯(Lally-Tollendal)を派遣し、1758年にフォート・セントデーヴィッドを陥落させマドラスを包囲しましたが、補給・財政・在地協力の不足で長期包囲に失敗します。対する英側は、クライヴがベンガルでプラッシー(1757)を制して財源を確保、南インドでは将軍エア・クートが機動戦を展開しました。決定的だったのがワンディワッシュの戦い(1760)で、クートがフランス精鋭(ブシーを含む)を破り、野戦での主導権を掌握します。これによりポンディシェリは孤立し、1761年に英軍に降伏。欧州本国の講和—パリ条約(1763)—では、フランスの商館(ポンディシェリ等)の回復が認められた一方、要塞化と政治介入の禁止に近い制限が課され、軍事的影響力は再起不能となりました。

軍事・財政と「会社の戦争」――セポイ、砲兵、徴税権、商人金融

カーナティック戦争は、主権国家ではなく株式会社(勅許会社)同士が、株主資本と商業信用、現地徴税権の確保をテコに戦った点に大きな特質があります。欧州本国の海軍力・補給線が重要だったのはもちろんですが、戦場の現実を左右したのは、セポイ(現地歩兵)の大量動員、野戦砲の運用、傭兵騎兵の活用、そして現地の徴税権(ジャーギール)・関税・専売権を通じた戦費の自前調達でした。フランス側のブシーはデカンで徴税権を得て軍資金を捻出し、英側のクライヴはベンガル掌握後に南インドへ資金・弾薬・人員を回す体制を整えます。

戦術面では、欧州式の火砲・線列歩兵・堡塁戦が、在地の騎兵・砲列との組み合わせで新たな戦場様式を生みました。アルコットやトリチノポリ周辺の攻防は、堡塁・堀・土塁・野戦築城の巧拙と、夜襲・側面機動・補給線遮断が勝敗を分けました。セポイの訓練・給与・宗教的慣行への配慮は軍の維持に直結し、会社側は制服・食料・休暇・宗教儀礼の調整(食肉や弾薬の脂問題など後代に深刻化する論点の萌芽)に心を砕きました。

財政面では、在地商人—チェッティー商人やパールシー、バニヤ—の信用供与が不可欠でした。軍資金の前貸し、布・糧秣・硝石の調達、為替手形による遠隔清算といった金融・物流の整備が、会社の軍事行動を可能にしました。その見返りに、会社側は市場支配や関税特権、徴税請負を付与し、都市の政治経済構造を組み替えていきます。つまり、軍事・財政・商業が渦を巻く「会社国家(company-state)」の形成が、カーナティック戦争の只中で加速したのです。

また、在地の政治家や軍人(ムハンマド・アリー、チャンダ・サーヒブ、ムザッファル・ジャング、ナージル・ジャング、マラーターの諸勢力)は、欧州会社を自勢力の強化に使う主体でもありました。欧州勢力が一方的に操ったのではなく、在地側もまた資金・兵器・顧問を引き出す交渉力を持ち、敗戦時には素早く同盟を切り替える柔軟さを示しました。この相互利用のダイナミズムが戦争を長引かせ、結果として「長期的に現金化できる徴税権」を握った側—最終的には英東インド会社—が優位に立ちました。

帰結と歴史的意義――英の南インド覇権、仏の後退、インド政治の転機

1763年の講和で、フランスは商館の名目上の回復を得ながらも、要塞化・軍事駐留・政治介入の制限によって、実質的な覇権競争から退きました。以後のフランスは、在地産業の保護や綿布輸入規制で会社経営を模索するも、軍事政治への復帰は限定的です。これに対し、イギリス東インド会社は、南インドではカーナティック太守ムハンマド・アリーと緊密化して軍事・財政の影響力を拡大し、やがて太守家の債務依存を通じて実質的な従属関係を作り上げます。並行してベンガルではプラッシー(1757)・ブクサール(1764)を経て徴税権の付与(ディーワーニー、1765)を獲得し、会社は税収=軍費=支配の循環を手中に収めました。

南インドの政治地図では、カーナティック太守領の財政弱体化と、内陸のマイソール(ハイダル・アリー、のちティプー・スルターン)の台頭が顕著になります。フランス退潮後、マイソールは独自に軍制改革・砲兵強化を進め、英との対立は一連のマイソール戦争へ拡大しました。つまり、カーナティック戦争で確立した欧州式軍事・財政の論理は、のちのインド諸政権にも波及し、英との対抗に用いられもしたのです。さらに、会社が在地君侯の継承・内政に関与する前例は、のちの保護条約・補助同盟(subsidiary alliance)や「失権の原理(Doctrine of Lapse)」へと連鎖し、19世紀の英領インド拡大を制度面から支えることになります。

経済・社会面では、海岸都市(マドラス、ポンディシェリ、カダロールなど)の商業・金融・職人コミュニティの再編が進みました。会社の特権と関税政策、外貨建て手形、武器・布・塩・硝石の取引が再構成され、都市は軍需と商業の節点として膨張します。セポイの常備化は、地域社会の兵役・雇用・宗教慣行にも影響を与え、後代の1857年反乱に至る軍隊文化の伏流をつくりました。文化的にも、欧州の砦・洋式官庁・礼拝堂と、在地の寺院・市場・町筋が並立する空間が生まれ、情報(新聞・通達・ビラ)の流通と行政言語の多層化が進みます。

総じてカーナティック戦争は、単なる「英仏の植民地戦争」ではなく、在地の政治経済に深く絡み合った会社戦争でした。欧州海軍力の投射、在地金融と徴税の動員、セポイ軍の常備化、都市再編—これらが一体化して、南インドの主権秩序を作り替えました。この戦争の帰結が、英のインド覇権の前段をなし、同時にインド諸政権の近代化努力や対抗戦略(マイソールやマラーターの改革)を促した点に、歴史的な重みがあります。戦場名や将軍名の羅列にとどめず、税と軍事、会社と国家、海と内陸を貫く一本の回路として捉えるとき、カーナティック戦争の意味は、より立体的に理解できるのです。