オーストリア合併(ドイツ) – 世界史用語集

オーストリア合併(ドイツ)とは、1938年3月にナチス・ドイツがオーストリアを事実上併合し、同国をドイツ国の「オストマルク」(のち「ドナウ・アルプス大管区」)として編入した出来事を指します。ドイツ語ではアンシュルス(Anschluss)と呼ばれ、第一次世界大戦後の秩序(ヴェルサイユ体制)を覆す重大な分水嶺でした。併合は軍事力の威圧、国内の親独勢力のクーデター的行動、住民投票という外形的手続を組み合わせて実行され、直後から政治的弾圧とユダヤ人・政敵への迫害が急拡大しました。国際社会は英仏の宥和政策や国際連盟の無力もあって実効的に阻止できず、チェコスロヴァキア危機と第二次世界大戦へ向かう加速器となりました。以下では、背景、1938年3月の時系列、編入後の制度と社会への影響、国際反応と法的評価、戦後の処理と記憶の問題を整理します。

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背景――第一次大戦後の統合志向と独立維持のあいだ

1918年の二重帝国崩壊後、ドイツ系諸地域は「ドイツ=オーストリア」を名乗ってウィーンを中心に再出発しましたが、1919年のサン=ジェルマン条約は、ドイツとの合併(アンシュルス)を明確に禁止しました。共和国は小国としての自立を模索し、カトリック保守(キリスト教社会党)と社会民主党の対立、ウィーンの社会政策と地方保守の衝突、1934年の内戦とドルフース独裁、その暗殺(シュースニッグへの政権移行)といった不安定を経験します。国内には汎ドイツ主義やナチ党(オーストリア・ナチ)への共感も存在し、1934年7月のナチ党員によるクーデター未遂(7月蜂起)は、イタリアのムッソリーニが当時はオーストリア独立支持の立場で軍を動かす構図も相まって未然に阻止されました。

しかし、エチオピア侵攻後の伊の国際的孤立と、1936年のベルリン=ローマ枢軸成立は、対独抑止の外的支柱を弱めました。経済危機と失業は社会を疲弊させ、ナチ・ドイツの宣伝は「同一民族の統合」「繁栄への便乗」を訴えて浸透します。シュースニッグ首相は独立維持のため警察国家化とバランス外交を進め、1936年にはベルヒテスガーデン協定(実際の会談は1938年)に向けて対独妥協の糸口を探ることになります。

1938年3月の展開――威圧・内政介入・住民投票の三段構え

1938年2月12日、シュースニッグ首相はベルヒテスガーデンの山荘でヒトラーと会談し、親独派の閣僚(アルトゥール・ザイス=インクヴァルト)を内務・治安の要職に就けることなどの要求を呑まされました。政権の中枢に親独勢力が入り、警察・治安の掌握が浸食されます。これに対抗するため、シュースニッグは独立の民意を示すべく、3月13日に独立継続の是非を問う住民投票を強行予定と発表しました。

ヒトラーはこれを「国際監視のない一方的操作」と非難し、圧力を急激に強めます。3月11日、ベルリンはウィーンに最後通牒的要求を突きつけ、同日夜、オーストリア・ナチは各地で政庁占拠、電信・放送の掌握を図りました。大統領ミクラスは抵抗を試みましたが、シュースニッグは流血を避けるとして辞任演説を行い、後任首相にザイス=インクヴァルトを指名する旨を放送します(実際には強要)。この間にドイツ軍は国境へ集結し、越境の準備を整えました。

3月12日早朝、ドイツ軍は越境してオーストリアに進駐しました。抵抗は組織されず、ナチ党員や一部住民が歓呼で迎える光景が演出されます。翌13日、ザイス=インクヴァルト政府は「オーストリアはドイツ帝国の一州として編入される」とする法律(ドイツ側では併合法)を公布し、形式上の「合邦」を完了しました。

その後の4月10日、ドイツ本国と同時に「アンシュルス承認」を問う国民投票が施行され、圧倒的多数の賛成という結果が発表されました。しかし、この投票は反対派・ユダヤ人の排除、監視と宣伝、記入方式(賛成欄が目立つ票面デザイン)などの操作が重なり、自由で公正な表決とは言えませんでした。

編入後の体制と社会――「オストマルク化」、迫害、経済の再編

併合後、オーストリアは「オストマルク(東方辺境)」と改称され、のちに行政区の再編で「ドナウ・アルプス大管区」に改組されます。国家・自治の制度は破棄され、ナチ党のガウ体制が警察・行政・教育・文化の隅々まで貫徹しました。政党・労組・市民団体は解体され、指導者は逮捕・収監・強制収容所送りとなります。ウィーンは人口規模と交通の要衝から、ナチ体制の重要拠点となり、プロパガンダと治安の両輪が急速に整えられました。

最も直撃を受けたのはユダヤ人社会です。進駐のその日から「野蛮化したアンシュルス(Wilder Anschluss)」と呼ばれる自発的・半自発的暴力が吹き荒れ、街頭での屈辱行為、商店の破壊と略奪、家宅侵入が相次ぎました。継いで反ユダヤ法制(ニュルンベルク法の適用)が導入され、市民権剥奪、職業追放、資産の没収・強制売却(アーリア化)が進行します。ユダヤ人は逃避行に追い立てられ、ビザ・外貨・亡命先の確保に国家ぐるみの障害が立ちはだかりました。1938年11月の「水晶の夜」はウィーンでも大規模に発生し、シナゴーグが炎上、逮捕と収容が急増します。マウトハウゼン=グーゼン強制収容所はオーストリア領内に置かれ、政治犯・ユダヤ人・ロマ・同性間性行為で処罰された人々・反体制宗教者などが収容され、過酷な労働と虐待で多数が命を落としました。

経済面では、ドイツ経済圏への統合が急速に進みました。企業はゲーリングの四カ年計画と軍需優先の枠に組み込まれ、製鉄・機械・電気・化学・アルミ・石油(ヴィーナー・ノイシュタットやラインツなど)で再配置が行われます。鉄道・河川・道路は軍事輸送のルートとして拡充され、外貨管理と物資割当の統制が強化されました。観光や文化産業はプロパガンダの装飾として再利用され、学術・教育機関は粛清を受け、ユダヤ系・反体制の学者・芸術家は追放・亡命の憂き目に遭います。

国際反応と法的評価――宥和、既成事実化、国際法の侵蝕

英仏は、武力行使の回避を優先する宥和政策の下で抗議声明にとどまりました。イタリアは枢軸提携ゆえに反対を取り下げ、国際連盟は実効的手段を持ちませんでした。アンシュルスは、ヴェルサイユ/サン=ジェルマン体制が保障したオーストリアの独立・領土保全の原則に反し、国際法上の違法行為と評価されますが、当時の国際政治は既成事実の追認に傾きました。これにより、ヒトラーは自信を深め、次なる標的であるチェコスロヴァキアのズデーテン地方に対する要求を強硬化させます。結果として、1938年9月のミュンヘン会談は、アンシュルス後の力学の延長線上で展開されることになります。

法形式の面では、オーストリア側の「併合法」は武力・威迫のもとで成立しており、国家意思の自由な表明とは認めがたいものでした。4月の国民投票も、投票権の選別、自由な運動の欠如、投票用紙デザイン、監視下での投票などの点で手続的正当性を欠きます。戦後の連合国は、1943年のモスクワ宣言でオーストリアの併合無効を原則とし、1945年の独立回復と1955年の国家条約で、法的にはアンシュルス前の独立国の地位を再確認しました。

戦後の処理と記憶――「最初の犠牲者」物語と加害の自覚の往復

1945年春、連合軍の進撃とともにオーストリアは解放され、暫定政府が独立回復を宣言しました。連合国はモスクワ宣言に沿って「オーストリアはナチ支配の最初の犠牲者」と位置付け、占領と去ナチ化、国家再建を支援します。他方、国内には併合への積極的協力と利得(アーリア化での資産取得、官界・企業での出世、治安活動)に関与した多数の実在の人々もおり、加害責任の直視は容易ではありませんでした。1955年の国家条約と永世中立の成立後、「犠牲者」叙述は国家統合の物語として機能しましたが、1960年代以降、研究と証言の積み重ね、1990年代の補償と返還政策の進展を通じて、オーストリア社会は「被害」と「加担」の両面と向き合う方向へ舵を切りました。

記憶の場として、ウィーンのユダヤ広場、マウトハウゼン記念館、破壊されたシナゴーグの跡地、強制収容所への鉄道線路跡、アーリア化された企業史の展示、亡命学者・芸術家名簿、街路名の改称などが整備されています。教育カリキュラムでは、アンシュルスの多面的理解(外圧・内圧・プロパガンダ・経済・制度・差別)が強調され、単純な「歓迎」や「被害者」像を超える分析が広がっています。

位置づけのまとめ――アンシュルスが開いた扉

オーストリア合併は、ナチス・ドイツの対外拡張の初期段階における決定的成功でした。これは軍事的勝利ではなく、威圧と内政介入、法的外形の装飾、宣伝と群衆動員の組み合わせによる「ハイブリッド」な既成事実化でした。併合は、ユダヤ人・政敵・少数者への広域的迫害を一気に拡大し、東中欧の力学を変え、国際秩序の規範を蝕みました。ここを起点に、ズデーテン問題、解体されたチェコスロヴァキアへの進駐、ポーランド侵攻へと事態は直線的に進みます。1938年3月の出来事を丁寧に辿ることは、近代国家が威圧と同調、無力な国際規範の下でどのように呑み込まれていくのか、その具体像を理解するために不可欠です。