士大夫(したいふ、shì dàfū)とは、中国の帝国時代を通じて国家の行政・司法・教育・儀礼を担い、地域社会の指導層としても影響力を持った学識エリートを指す呼称です。語は本来、周代の身分秩序に由来する「士」「大夫」という二つの層を連ねたもので、のちに科挙による官僚登用が整うと、儒学的素養を備えた官人・文人層全般を含む社会的カテゴリーとして定着しました。彼らは国家の命令を執行する官僚であると同時に、祖先祭祀・公益事業・教育・救済など地域公共を支える「郷紳」でもあり、さらに詩文・書画・学問を通じて文化の規範を形成しました。要するに士大夫とは、帝国の統治と地方社会、そして高文化の三つを結びつける「媒介層」であり、中国史の長い時間を読み解く鍵概念です。
起源と形成――「士」「大夫」から科挙官僚へ
士大夫の起源は、周代の身分秩序における「士」「大夫」という武・文の奉仕階層にあります。春秋戦国期には、諸子百家の遊説者や官僚テクノクラートを含む「士」が台頭し、世襲貴族に代わって専門的技能と学識で政務を担う傾向が強まりました。前漢以降、郷挙里選や察挙などを経て、隋唐期に至って科挙が制度化されると、儒学的経典理解と文章能力を基準に官僚が選抜される仕組みが完成します。これによって、家世や軍功だけではない「学徳」による選抜が広がり、士大夫は政治・文化の中枢を担う階層として自画像を確立しました。
宋代は士大夫の自己意識が最も鮮明になった時期です。科挙の拡充、文治主義の徹底、士林(学者共同体)の台頭により、官人は単なる行政職ではなく、国家の道徳秩序を体現する存在と位置づけられました。朱子学は、身修・家斉・治国・平天下をつなぐ倫理を提供し、士大夫は公私を貫く修養を自らに課しました。他方で、財政基盤としての土地所有や婚姻ネットワークを通じ、地方社会の経済的・血縁的結節点に立つ「郷紳」化も進みます。
社会的機能と日常――国家官僚・郷紳・文化人の三面性
士大夫の第一の顔は国家官僚です。中央では吏部・戸部・礼部などの官司で政策立案・人事・租税・教育を担い、地方では州県の知事・判官として訴訟の審理、治安維持、賦役徴収、河川治水、倉廩備蓄など多岐にわたる実務を行いました。彼らの統治は文書と儀礼に支えられ、訟獄文書や戸籍台帳、学校の試験や朝賀の儀など、日常の細部にまで規範を浸透させます。
第二の顔は郷紳・紳士階層としての地域公共への関与です。廟学や書院の設立・運営、義倉・義学・恤窮(救貧)・施医といった互助機構、橋梁道路の修築、治水の寄付などが、士大夫の名望と結びついて進められました。地方の漕運・塩業・手工業といった経済活動にも、士大夫家門が資金・信用・人脈で関わり、税の納入や紛争調停を媒介しました。
第三の顔は文化人・文人です。科挙作文(制義・八股文)に象徴される文芸の規範づくり、詩文・詞曲・書画の制作と鑑賞、蔵書の編集・出版、学派の形成など、文化の生産と流通をリードしました。士大夫の美意識(清雅・高致)や生活様式(園林・文房四宝・茶酒文化)は、中国の「教養」の標準となり、後世に至るまで影響を与えます。
経済基盤と身分移動――土地・学歴・婚姻ネットワーク
士大夫を支えた経済基盤は、主として土地所有と小作料・地租収入でした。大家族の祠堂財産、祖業の田地、典当・貸付による利殖などが、科挙受験や蔵書・書院経営の費用を支えます。商工業に直接従事することは「士の本分」にそぐわないとされる場合もありましたが、実際には家人や親族を通じて塩商・布商・金融に関与する例も多く、士と商の境界は時代と地域で可変でした。
身分移動のチャンネルとしての科挙は、広く社会のモビリティを保証しました。とはいえ、受験教育への投資・人脈形成・蔭位(家門の恩蔭)などの格差が、合格者の地域偏在や家門の固定化を生み、長期的には「新陳代謝」と「旧家の再生産」が共存しました。婚姻は士大夫のネットワーク拡大の中心で、門当戸対(釣り合い)を重んじつつも、地方の富裕商人が科挙合格者と姻戚化して紳商複合エリートを形成する動きも目立ちます。
学問と倫理――儒教的修養、実学、異端との緊張
士大夫の自己像は、儒教倫理の修養に支えられました。『論語』『孟子』『大学』『中庸』の読解、朱子学の道徳形而上学、王陽明の心学などが、政治判断・家政・日常作法にまで浸透します。格物致知・存心養性・居敬窮理といった語彙は、官僚術と生活術を同時に規定しました。他方、実務や社会問題に即した「実学」や地方志学、医薬・暦算・水利などの学問も、士大夫の職能に不可欠です。
仏教・道教との関係は、しばしば緊張と融合を繰り返しました。外在的宗教儀礼に距離を置く理想像が称揚される一方、祈雨・祭祀・葬礼・民間信仰の場面では、士大夫が司式・規範提供者として機能しました。明清期には考証学が隆盛し、経書の文献批判や音韻学・文字学が発展、近世の学術地図を描き替えます。
地方統治の現場――県知事の仕事、訟獄と調停、公共事業
州県の長として赴任した士大夫は、法令執行と民政の最前線に立ちました。戸籍の整理、税目の査定、地券の作成、治水や道路の維持、地方兵の指揮、盗賊の取り締まりなど、実務は膨大です。訟獄では、儒教的倫理を踏まえつつ条文を適用し、和解・調停を重んじる処理も多く行われました。飢饉や洪水の際は、社倉・義倉の放出、税の減免、労役の割当変更など、迅速な柔軟対応が求められます。こうした統治の「顔」としての士大夫は、民衆からの評価と噂によって名望を獲得し、やがて地方社会の秩序そのものを体現する存在となりました。
朝鮮・ベトナムとの比較――両班・官僚層と士大夫の同型性
東アジアでは、朝鮮の両班、ベトナムの文官(科挙官僚)など、士大夫に相当する学識エリートが形成されました。いずれも儒教教育と科挙に支えられ、土地所有と官職が結びついた地域エリートとしての性格を持ちます。他方、朝鮮両班は身分法的に固定度が高く、科挙合格があっても社会的な壁が厚いなど、モビリティの仕組みに差が見られました。比較を通じて、士大夫の普遍形(儒学・官僚・土地・文化)と地域特性(身分硬直性、王権との距離感)の両方が浮かび上がります。
近代の転機――科挙廃止、立憲と地方自治、専門官僚への移行
19〜20世紀、列強の圧力と国内改革の波の中で、士大夫の伝統的地位は大きく変容しました。清末新政と辛亥革命に至る改革過程で、地方諮議局や省議会などの近代的代表制が芽生え、郷紳の政治参加は新しい制度に吸収されます。清では1905年に科挙が廃止され、近代学校制度と官僚登用試験(学堂・留学・官吏試験)へ移行しました。官僚は法学・理工・財政・外交などの専門教育を受ける「テクノクラート」へと変わり、古典教養中心の士大夫像は後退します。
民国期には、郷紳が地方軍閥と結びついたり、教育・実業・議会へ活動の場を移したりと、多様な進路を取りました。土地改革・共産革命の展開は、地主階級としての基盤を大きく揺るがし、伝統的士大夫は制度的に解体されます。他方、文化・学術の領域では、文人・学者の系譜に士大夫的な公共性と倫理規範が受け継がれ、現代知識人の自己理解に痕跡を残しました。
批判と再評価――支配階級か公共善の担い手か
士大夫に対する評価は分かれます。一方では、土地所有に基づく支配階級として、科挙と儒教倫理を正統化装置に用い、社会の保守性と身分差を再生産したと批判されます。女性・被差別層・庶民の視点から見れば、士大夫の規範が家父長制や礼教の束縛を強めた面も否定できません。他方で、士大夫は地方公共財の供給者・教育の普及者・行政の専門家として、共同体の安定と文化の蓄積に寄与したとも評価されます。飢饉救済や書院教育、地方志の編纂、官民調停などの営みは、国家と社会の接点に立つ「公共の担い手」としての側面を照らします。
語の使い方と今日的連想――「士大夫的」態度の継承と変奏
現代中国語・日本語でも「士大夫的」という言い回しは、権勢におもねらず、品位と責任感をもって公共に仕える知識人像を指す場合があります。他方、現実離れした形式主義・権威主義の皮肉として用いられることもあり、文脈依存性が高い表現です。歴史用語として用いるときは、①科挙・儒教を基盤とする官僚・文人層、②土地・ネットワークを持つ地域エリート、③文化規範の生産者、という三層を念頭に置き、時代ごとの変化(宋の確立、明清の郷紳化、近代の解体)を押さえると理解が深まります。
まとめ――国家・社会・文化を媒介する長寿のエリート
士大夫は、帝国中国における国家官僚・地域名望家・文化人という三つの顔を持つ長寿のエリートでした。周代の身分秩序に始まり、科挙の整備で普遍化し、宋で自己意識を固め、明清で郷紳として地域社会に深く根を下ろし、近代に解体と変容を経験しました。統治の実務と倫理、土地と教育、家族と公共、詩文と政治が交差する地点に立ち続けた士大夫をたどることは、中国史における「国家と社会の接合部」を具体的に理解することに直結します。個々の人物伝や地域史に分け入るほど、士大夫という言葉の中に多様な生の形が潜んでいることが見えてくるはずです。

