安息 – 世界史用語集

「安息」とは、中国の史書でパルティア王国(アルサケス朝、Arsacid Empire)を指す呼称であり、前3世紀半ばから3世紀前半(概ね前247年ごろ〜224年)までイラン高原とメソポタミアを中心に広域を支配したイラン系王国のことです。日本語史学では「パルティア」「アルサケス朝」が一般的ですが、中国・東アジア史料の文脈では「安息国」「安息王」などの表記が広く用いられます。本項での「安息」は休息の意ではなく、古代イラン世界の強国を指す歴史用語です。

安息(パルティア)は、アレクサンドロス大王の後継国家であるセレウコス朝の支配から離脱して成立し、イラン系遊牧要素とオリエントの王権、ヘレニズムの都市文化が交錯する独自の文明圏を形作りました。国家の核はアルサケス家の王権で、諸侯・豪族・属王国の連合という分権的な統治構造を特徴とします。軍事面では弓騎兵と重装騎兵(カタフラクト)の組合せで知られ、ローマとの長期抗争に対して優位を保った局面も少なくありませんでした。首都は時期により遷り、初期にはヘカトンピュロスやニサ、後期にはメソポタミアのクテシフォンが政治・儀礼の中心として機能しました。

安息は東西交易の結節点としても重要です。漢代の文献には、安息の貨幣・都城・風俗についての情報が記録され、後漢の甘英(班超の部下)の西域踏査は「海の辺」まで至ったと伝えられます。安息はローマ帝国、クシャーン(貴霜)やサカ系勢力、アラビア・ペルシア湾の港市とも接し、絹、ガラス器、香料、金銀器などが行き交いました。224年に南方のファールス地方から台頭したサーサーン家(ササン朝)が安息最後の王アルタバヌス4世を破って権力を継承しますが、制度・貴族勢力・文化様式の相当部分は形を変えつつ後王朝へ受け継がれました。

スポンサーリンク

用語と時代区分—成立・展開・終焉の概略

「安息(パルティア)」の始祖は、史書によればダハ族の一支族パルニに属するアルサケス(アルサケス1世)です。前3世紀半ば、彼はセレウコス朝支配下のパルティア州(旧アケメネス朝のパルタヴァ)で独立運動を起こし、イラン高原北東部の辺境から権力基盤を築きました。やがてアルサケスの後継者たちは、隣接するヒュルカニアやメディア高地へ勢力を伸ばします。とりわけミトリダテス1世(在位前171〜前132年)は、エリュマイスやメソポタミアに進出し、セレウコス朝の衰退に乗じてバビロニアをも掌握しました。これにより、安息はイラン—メソポタミア両世界を統合する大国へと飛躍します。

前1世紀初頭のミトリダテス2世(在位前124〜前88年)は「諸王の王(キング・オブ・キングス)」の称号を積極的に用い、アルメニア・メディア・ペルシスなどの諸侯に対する宗主権を確立しようとしました。この時期、安息は西方でローマと、東方でサカ(スキタイ)や大月氏(のちのクシャーン)と向き合いながら、広範な外交と軍事行動を展開します。バビロニアの楔形文字文書やギリシア語碑文、貨幣に刻まれた王名の系列は、王位継承の複雑さと地方ごとの自律性を伝えています。

前53年、三頭政治の一角クラッススがメソポタミアへ侵攻した際、安息は弓騎兵と重騎兵を主力とするスレナ(スルナ)将軍の軍で対抗し、カルラエの戦いでローマ軍を大破しました。これは安息の軍制と戦術の優位を象徴する事件で、のちのマルクス・アントニウスの遠征(前36年)にも強い影響を与えます。1世紀にはアルメニア王位をめぐってローマとの間に干戈が絶えず、皇帝トラヤヌスは114〜117年にかけてメソポタミアを一時占領しクテシフォンを陥落させますが、後継のハドリアヌスは撤退して緩衝地帯の再構築を選びました。2世紀後半にはセプティミウス・セウェルスが再びクテシフォンを攻略し、ローマ—安息の綱引きは続きます。

安息王権は3世紀初頭、南ペルシス(ファールス)で伸長したサーサーン家の挑戦に直面します。アルタバヌス4世とアルダシール1世(ササン朝の建国者)の抗争は、224年のホルモズダーンの戦いで決着し、アルサケス朝は滅亡しました。ただし、貴族連合、王の称号、儀礼、対外政策の視座は多くがササン朝に受け継がれ、イラン帝国の長期的連続性が保たれます。

政治構造と王権—分権的連合王国としての安息

安息の統治は、強力な中央集権ではなく、王家を頂点とする諸侯・豪族の連合体制でした。王は「諸王の王」の称号を帯びますが、地域の属王国(アディアベネ、ハトラ、エリュマイス、カラケーネなど)や大貴族(スレナ家、カーレン家、ミフラン家などと伝えられる名門)に広い自治を認め、軍事と財政の分担を通じて支配の安定を図りました。王の即位や遠征には、貴族会議(メギスタネス)の承認や協力が不可欠で、これが王位継承をしばしば不安定化させる一方、外敵に対する柔軟な動員力も支えました。

首都は固定されず、王宮・財庫・儀礼の中心が時期と情勢で移りました。初期の王権はイラン高原北東のニサ(現トルクメニスタン・アシガバート近郊)やヘカトンピュロス(「百門の都」、コーミス近辺)に根ざし、やがてメソポタミアの泰西交通の結節点クテシフォンへ重心が移ります。クテシフォンは対岸のヘレニズム都市セレウキアと対をなし、二都の相補性は安息の多層的文化を象徴しました。王は巡幸と属国統治を兼ねて各地を行き来し、その都度、貨幣や勅令、恩賞で諸侯の忠誠を繋ぎました。

貨幣制度は王権の可視化に大きな役割を果たしました。各地の造幣局で発行された銀ドラクマは、表に王の横顔、裏に座す弓手の「アルサケス像」を配する定型を持ち、銘文は前期にはギリシア語(ΒΑΣΙΛΕΩΣ ΜΕΓΑΛΟΥ など)、後期とくにヴォロガセス1世以降にはパルティア語(アラム文字系)も併用されました。貨幣は交易の媒体であると同時に、王位継承や軍功、宗主権の主張を広域に伝える政治メディアでした。

軍事は騎兵を中核とし、二つの要素—重装突撃のカタフラクトと、機動・射撃戦に優れた弓騎兵—の組合せが戦術の基本でした。馬と騎手を頭から脚まで金属・革の鱗甲で覆うカタフラクトは、敵陣への決定的突撃を担い、弓騎兵は反転射撃(パルティアン・ショット)で敵を撹乱しました。補給はラクダ隊によって矢束・水・食糧を届け、砂漠・ステップの機動力を最大限に活かしました。重歩兵・攻城具の不足は都市攻略に弱点を生みましたが、ローマの深く伸びた補給線を砂漠縁辺で消耗させる戦い方は効果的でした。

対外関係と戦争—ローマ・漢・草原世界とのはざまで

安息の対外関係は、西のローマ帝国、東の匈奴・月氏・クシャーン、北のサルマタイ・スキタイ、南のアラビア・ペルシア湾諸勢力との多面的な相互作用から成りました。ローマとの関係では、アルメニア王位の宗主権が恒常的な火種となり、双方が推す王をめぐってクーデターと戦役が繰り返されました。カルラエの勝利は安息の軍事的威信を高め、オロデス2世・パコルスの時代にはシリアへも深く進出しましたが、ローマ側の反攻や内紛によって長期占領は困難でした。トラヤヌスの遠征は例外的に広汎でしたが、ハドリアヌスの撤退政策により恒久支配は志向されませんでした。

東方では、前2世紀以降、サカ系諸部や大月氏の移動がソグディアナ・バクトリアを大きく変え、のちのクシャーン朝がインダス—オクサス地帯に強力な王権を築きました。安息はこれら中央アジア勢力と交易・婚姻・武力のいずれでも競合・協調を経験し、東西交易路の安全と関税収入の確保に努めました。ペルシア湾岸のカラケーネ(メソポタミア南端の港市国家)は安息の宗主下で香料・真珠・象牙などの海上交易を担い、紅海—地中海のルートと並ぶもう一つの「南の道」を維持しました。

漢との関係は、中国史料において安息理解の主要な窓口です。前漢の張騫以降、西域経略の過程で安息の名はしばしば言及され、後漢の班超が西域を掌握した時代には、部下の甘英が安息方面へ派遣され、条支(シリア)や大秦(ローマ)への道筋に関する情報を記録しました。『漢書』『後漢書』には、安息の都城の規模、王が貨幣に自像を鋳る風習、騎兵戦の強さ、諸城の多さなどが描かれ、東アジアから見た「西の大国」としての安息像が立ち上がります。漢—安息間の直接外交は限定的でしたが、中継商人(ソグド人など)による交易は活発で、絹・香料・宝石・ガラス器・金属器が連鎖的に移動しました。

また、メソポタミア北部のハトラ、オサロエネ(エデッサ)などのオアシス都市・小王国は、安息とローマの緩衝帯として重要でした。セム系言語・アラム語文化の厚いこの地域は、キリスト教成立以前から多神教・イラニア宗教・ギリシア文化が交錯する場であり、安息の宗主権は柔らかな宗主—属王関係として表れました。これらの都市はのちのササン朝期にも繁栄し、シリア—メソポタミア間の商業と文化伝播の節点であり続けます。

文化・経済・宗教と継承—多言語・多宗教・交易の帝国

文化面で、安息は「ヘレニズムの形式」と「イラン的内容」の混淆が際立ちます。王像貨幣・ギリシア語銘文・都市制度(ポリス)などはアレクサンドロス以来の伝統を引き継ぎつつ、宮廷儀礼・称号・衣装・宗教はイラン的要素が強く、バビロニアやアラム的要素も重なりました。行政や商業ではアラム語系の書記言語が、王権の表象ではギリシア語が、宮廷・貴族社会ではパルティア語がそれぞれ機能し、多言語運用が常態でした。1世紀半ばのヴォロガセス1世の頃から、貨幣銘にパルティア語が目立つようになり、イラン語の公的地位が高まりました。

美術では、人物像が正面を向く「パルティア的正面性」が特徴として指摘されます。ハトラやドゥラ・エウロポスの神殿壁画・彫像には、正面性と装飾性が強い人物表現が見られ、ササン朝・シリア系美術、さらには後世のビザンツやイスラーム美術の一部にも通じる視覚語彙が育まれました。建築では、イーワーン(半ドームの大開口空間)の祖形とされる空間構成が確認され、東西の建築技法の架け橋となりました。

宗教は多元でした。ゾロアスター教的世界観(火と清浄の観念、マギの祭祀)を基層に、ミスラ(ミスラ信仰)やアナーヒター、ベール(ベル)などの神格が地域により崇敬され、ギリシア系のゼウス/バール的神、セム系の地方神とも多神教的に共存しました。王たちはしばしば宗教施設に寄進し、コインにも祭壇や火台、神像を取り入れて王徳と神意の結合を可視化しました。キリスト教はまだ成立期ですが、メソポタミアの一部ではユダヤ教共同体が活動し、後世に向けた宗教的土壌が整えられていきます。

経済は、隊商交易と農牧複合が柱でした。ティグリス・ユーフラテスの灌漑農業、ザグロス山脈の牧畜、イラン高原のオアシス経済が、港市・オアシス・大都を結ぶ動脈で統合されました。シルクロード(オアシスの道・草原の道)では、ソグド商人をはじめとする中継商人が活躍し、メソポタミア製のガラス器・金工品、インド洋経由の香料・象牙、中国の絹・漆器が連鎖的に交換されました。貨幣経済の浸透は税収と軍事動員を安定させ、王は造幣・関税・通行保護を通じて交易を後押ししました。

社会構造は、イラン系貴族・軍事エリート、ギリシア系都市住民、アラム語系の商人・書記、農民・牧民からなる多層社会でした。属王国と都市の自治の幅は広く、王権は「中心の弱さ」を貴族連合によって補いました。この分権性は俊敏な外征には有利でしたが、内紛時には脆さとなり、王位継承争いが外国干渉の余地を生みました。ササン朝はこうした欠陥を踏まえて中央集権化を進めますが、安息期の貴族・宗教・都市の多元性は完全には解体されず、イラン世界のしなやかな持続性を形づくりました。

安息滅亡後、その遺産は多方面に受け継がれます。ササン朝の「諸王の王」称号、銀貨の体系、貴族家門の序列、クテシフォンの宮廷儀礼は、安息の枠組みを強化・再編したものです。軍事ではカタフラクトがローマ—ビザンツ世界へも影響を与え、交易路の保護と国際商人の活用も引き継がれました。美術・宗教の混淆は、後のペルシア—イスラーム文化にも痕跡を残し、古代末から中世初期への橋渡しとして安息の位相はきわめて重要です。