事大党(しだいとう、韓:사대당)は、19世紀末の朝鮮(李氏朝鮮)で台頭した保守・親清派の政治勢力を指す通称です。彼らは、伝統的な冊封秩序の枠内で清朝との宗属関係(朝貢・冊封)を維持しつつ、国内の秩序や身分制・科挙・儒教価値を守ることを優先しました。近代化を急進的に推し進め、主権国家間の近代外交へ踏み出そうとした開化党(あるいは独立党)と鋭く対立し、壬午軍乱(1882)の後、清軍の介入と袁世凱の影響力を背景に政権を掌握します。事大はもともと儒教外交の理念語(「小国は大国に事(つか)う」)ですが、この時代の「事大党」は、親清・反日・反露という単純な一色ではなく、王権の維持と社会秩序の保全を最優先に、列強の圧力の中で清を「安全装置」とみる実務的選択を強く打ち出した勢力でした。要するに事大党は、東アジアの国際秩序が急変する局面で、旧来の冊封論理を資源として国家の延命を図った保守派の総称なのです。
用語の背景と成立――「事大」理念の転用と清末東アジアの変動
「事大」は朝鮮王朝の対外理念として長い歴史を持ちます。明・清という大国に対し朝貢・冊封を通じて正統性と安全を確保し、周辺に対しては教化を及ぼすという二重戦略(事大・交隣)のうち、特に上位関係を認める側面が「事大」です。19世紀後半、アヘン戦争以降の列強の進出、清内の同治中興と洋務運動、そして日本の明治維新という激変の中で、朝鮮国内でも対外・国内改革をめぐる二大潮流が形成されました。すなわち、従来秩序の継持と清への依拠を唱える保守派(後に「事大党」と呼ばれる)と、主権国家としての独立と近代化の加速を志向する開化派(独立党)です。
壬午軍乱(1882)は、旧式軍の不満と新式軍優遇への反発、財政難、攘夷的気分が絡み合って爆発した事件で、清軍の出兵を招きました。清は袁世凱を駐在させ影響力を強め、朝鮮宮廷では閔妃(明成皇后)を中核とする勢力が清との協調に傾きます。この「親清保守」ブロックが、のちに開化派側から「事大党」と総称されることになります。
思想的基盤と政策――冊封秩序の再解釈、衛正斥邪、慎重な改良
事大党の根本は、冊封秩序の実利的再解釈にありました。すなわち、宗属関係の形式を維持することで清の軍事・外交的庇護を得、欧米・日本の圧力を相殺しようとする発想です。国内政策では、衛正斥邪(正統を護り邪説を斥ける)のスローガンのもと、儒教秩序・科挙・身分制の枠組みを基本線として守り、急進的な制度変革(婚姻・両班特権・租税制度の全面刷新など)には慎重でした。
もっとも、事大党は完全な「反改革」ではありません。財政の立て直しや兵制の改良、近代軍事顧問の選択的導入、郵電・鉄道の検討など、限定的・漸進的な改良を模索しました。ただし、それらは清との協調の下で、王権と社会秩序を乱さない範囲で行うべきだという優先順位が明確でした。外国公使館の設置や外交書簡の文言でも、宗属礼を崩さない表現が重んじられ、独立国語法への全面移行は忌避されました。
主要人物と権力構造――閔氏一族、袁世凱、そして王権
事大党の政治的中核は、国王高宗の后である閔妃(明成皇后)を中心とする閔氏一族とその周辺官僚でした。閔泳翊(ミン・ヨンイク)などの王妃親族、金允植・趙秉世といった科挙官僚がこれに連なり、宮廷内の人事・財政・軍制に影響力を及ぼします。対外面では、清の常駐代表としての袁世凱が巨大な存在で、彼は軍備・人事・通商案件にまで深く介入し、朝鮮の内政に準保護国的な監督を及ぼしました。閔派—袁ラインは、壬午軍乱後の政局で長く主流を占め、開化派の伸長を抑え込みます。
王権との関係は複雑でした。高宗は、当初は閔妃とともに清への依拠を強めましたが、甲午戦争(1894–95)で清が敗北して以降は、ロシアなど他の列強へ外交軸を拡散し、いわゆる「親露」的な転回を見せます。これにより、事大党の「親清」一辺倒は次第に動揺し、宮廷内の派閥再編が加速しました。1895年の王妃暗殺(乙未事変)は、事大党にとって致命的打撃で、親露・親日など多極化する勢力間競争の中で旧来の事大的論理は説得力を失っていきます。
決定的事件――甲申政変と東学農民戦争、そして甲午改革
開化派(独立党)の挙兵である甲申政変(1884)は、事大党の保守路線に対する急進的挑戦でした。金玉均・朴泳孝らが日本の支援を得て三日天下を築いたものの、清軍の即応で失敗に終わり、以後しばらくは事大党が政治を主導します。袁世凱の下で、清の宗主権を前提とした統制が強まり、開化派は亡命・粛清されました。
しかし、東学農民戦争(1894)が発生すると、朝鮮政府(事大党主導)は清に出兵を要請し、日本も公使館保護を名目に出兵、これが直接に日清戦争へと連鎖します。清の敗北により冊封秩序は崩壊し、下関条約(1895)で朝鮮の「独立自主」が国際的に確認されると、事大党の外交論理は根底から揺らぎました。続く甲午改革は、日本の影響下で近代国家制度(内閣制、身分制廃止、財政の一元化、度量衡の統一、近代警察・司法など)を導入し、宗属外交の語彙は公的に失効します。
他派との対比――開化党・独立協会・親露派との関係
開化党(独立党)は、主権国家としての対等外交、近代制度の一挙導入、身分制の解体、産業育成などを掲げ、日本・米欧の制度を参照しました。これに対し事大党は、王権・身分秩序・宗属外交を安全弁として残し、変化を「制御可能な速度」で行うべきだと主張しました。独立協会(1896–98)は、言論・結社の自由と憲政改革を唱え、親露・親日・保守の各派に対する第三の公共圏を目指しましたが、保守勢力の弾圧で活動停止に追い込まれます。
日清戦争後、清の後退で空白が生じると、宮廷では「親露」への傾斜が強まります。ここで事大党の中にも選好の分裂が生じ、対露依存に慎重な実務派と、露館播遷(1896)に体現される従露路線の推進派が併存しました。「事大」は本来対中概念でしたが、実際の政治語としては「強国依存の保守路線」を広く揶揄する呼称へ拡張され、親露・親日を含む「外依存」を批判するレッテルとしても使われます。
社会経済との接続――身分秩序・財政・軍制の保守性
事大党の国内路線は、両班身分の特権維持、郷里・科挙の枠組みの温存に向かいがちでした。税制や兵制の改革は部分的に進められたものの、身分制の解体や土地制度の全面刷新には消極的で、農村の疲弊・軍の旧態依然化を温存した面があります。この保守性は、東学農民戦争に見られる社会的鬱積を解消できず、結果として外征軍(清・日本)の介入を招く悪循環を強めました。
ただし、全てを「守旧」と断じるのも片面的です。通貨・関税・郵電・鉄道に関する近代的議論は宮廷内にも存在し、清の洋務ネットワークを通じて技術・人材が流入しました。事大党の一部は、中国の洋務的近代化を「安全な参照枠」とみなし、急進的西化ではなく「中体西用」型の改良を志向していたとも言えます。
語の射程と歴史記憶――レッテル語としての「事大党」
「事大党」という語は、当時の開化派・独立派の論争的文脈で生まれたレッテル性の強い名称で、当事者が自称した正式党名ではありません。後世の歴史叙述でも、しばしば「反近代」・「売国」的なニュアンスで使用されてきました。しかし、国際秩序の急転期において、弱小国家がどの大国の庇護に依拠して存続を図るか、という選択は常に現実政治の核心であり、事大党はその現実主義の一つの表れでもありました。評価は、国家生存の確率、社会改革の必要度、倫理的規範、外勢依存のリスク、といった複数の物差しで検討する必要があります。
史料と研究――宮中記録から列強公文書、新聞・回想まで
事大党の実像を掴むには、宮中日記・承政院日記・官報類、清側の外交文書(総理各国事務衙門・袁世凱往復文書)、日本外務省記録、ロシア公文書、米英公使報告など、複数言語の史料をつなぐ作業が不可欠です。国内世論を映す当時の新聞・筆談、開化派のパンフレットや檄文は、相手を誇張して描く傾向が強い一方、そのレトリックの背後にある具体的利害(税制、商権、治外法権、関税自主権)を読み解く手掛かりになります。近年の研究は、派閥史にとどまらず、官僚制の構造、財政・関税の制度史、メディアと公共圏の形成、ジェンダーと宮廷政治(王妃ネットワーク)といった視点から再定位を進めています。
まとめ――冊封の遺産を梃子にした延命戦略の光と影
事大党は、冊封秩序という長期の制度資本に依拠して短期の国家安全を確保しようとした保守勢力でした。壬午軍乱後の清の介入を受け入れ、甲申政変を退け、一定期間政権を維持したものの、日清戦争で宗属秩序が崩れるとその理論的支柱を失い、王妃暗殺・親露転回・甲午改革の奔流の中で瓦解していきます。彼らの路線は、急進改革のコストを回避しつつ外圧をやり過ごす「延命戦略」としての合理性を持つ半面、社会改革の先送りと外勢依存の固定化を招き、結局はより大きな危機を呼び込むという皮肉を残しました。東アジアの近代は、伝統秩序・列強圧力・国内改革の三つ巴の中で形作られましたが、事大党の経験は、その狭間で国家生存をめぐる選択がどれほど苛烈であったかを、今に伝えています。

