ジロンド派 – 世界史用語集

「ジロンド派」とは、フランス革命期、立法議会・国民公会で活動した共和主義的な政治勢力の一つで、穏健なブルジョワ層を代表し、対外戦争の推進と地方分権的な共和政を主張したグループのことです。指導者の多くがボルドーを中心とするジロンド県出身だったことから、同時代のパリの民衆や新聞人によって「ジロンド派(ジロンド党)」と呼ばれるようになりました。ジャコバン派の一部として出発しつつも、やがて急進的な山岳派(ジャコバン左派)と対立し、1793年には国民公会から追放され、多くの指導者が処刑されました。

世界史では、ジロンド派は「革命初期に活躍したが、急進化した革命の波に飲み込まれて没落した穏健派ブルジョワジー」の象徴として扱われます。彼らは自由主義的な経済観と法の支配、地方自治を重視しつつも、都市の民衆運動やパリ・コミューンの急進性には警戒的であり、そのバランスの取り方が次第に困難になっていきました。とくに、対オーストリア戦争の推進と国王ルイ16世の処遇をめぐって山岳派と対立し、最終的にはパリ民衆の蜂起と山岳派のクーデタ的行動によって議会から排除されます。

以下では、まずフランス革命のなかでジロンド派が登場する歴史的背景と主要人物を整理し、つづいて彼らの思想と政策(とくに戦争政策と経済観)、山岳派との対立と没落のプロセス、最後にジロンド派の評価と歴史的意義について順に見ていきます。

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フランス革命の中での成立と主要人物

ジロンド派が歴史の表舞台に登場するのは、1791年に招集された立法議会からです。1789年に始まったフランス革命は、憲法制定国民議会の活動を通じて封建的特権の廃止や人権宣言の採択、立憲君主制の枠組みの整備などを行いましたが、1791年の国王逃亡未遂(ヴァレンヌ事件)以降、王政と革命の関係は急速に不安定になっていました。こうした状況で、新しい議会である立法議会に選出された若い議員たちの中から、ジロンド派と呼ばれるグループが頭角を現します。

ジロンド派の名前は、ボルドーを中心とするジロンド県出身の議員に由来しますが、実際にはフランス各地の地方都市出身の弁護士・ジャーナリスト・官僚など、比較的裕福なブルジョワ層が多く集まっていました。代表的な人物としては、理論的指導者とされるブリッソ(ブリソー、ブリッサ:ジャック=ピエール・ブリッソ)、雄弁な演説家として知られるヴェルニョー(ヴェルニャック)、内務大臣として国政に関わったローラン夫妻、またコンディヤックの親族であるコンデュルセらが挙げられます。

彼らはジャコバン・クラブに属し、当初は山岳派のロベスピエールらとも同じく共和主義的立場を共有していましたが、その気風はパリの民衆運動に密着した山岳派に比べて、より理性的・議会中心・地方重視のものでした。ジロンド派の多くは地方都市の弁護士や知識人であり、パリのサン=キュロット(都市下層民)の圧力に対して一定の距離を置こうとしました。

1791年秋に立法議会が招集されると、ジロンド派は外交・軍事問題、とくに対オーストリア戦争の是非をめぐって強い発言力を持つようになります。彼らは革命を防衛し、ヨーロッパに自由の理念を広めるためには、旧体制諸国との戦争も辞さないという立場をとり、王宮や保守派に疑惑の目を向けながら積極的な戦争政策を主張しました。

思想と政策―戦争推進と自由主義的経済観

ジロンド派の特徴として、とくに重要なのが「戦争推進」の姿勢です。1792年に入ると、オーストリア・プロイセンなどヨーロッパの絶対王政諸国は、フランス革命の急進化を警戒し、干渉の構えを見せ始めました。これに対し、ジロンド派は、戦争は避けられないだけでなく、むしろ革命の理念をヨーロッパに広め、国内の王党派陰謀を暴露する機会になると考えました。ブリッソらは議会で熱烈な演説を行い、1792年4月にフランスはオーストリアに宣戦布告します。

この戦争推進は、のちに批判の的となります。というのも、フランス軍は当初連戦連敗であり、かえって国王や貴族が敵と通じているのではないかという疑惑が高まり、パリの政治情勢を一層緊張させたからです。1792年8月10日、パリ民衆と義勇兵はテュイルリー宮殿を襲撃し、王権を事実上打倒しました(8月10日事件)。この急進化した局面で、戦争を推進していたジロンド派は、山岳派およびパリ・コミューンから「中途半端で優柔不断」と批判されることになります。

経済政策の面では、ジロンド派は概して自由主義的でした。彼らは、商人や地主、市民層の利益を代表し、穀物取引の自由や市場メカニズムを重視しました。一方、パリのサン=キュロットや山岳派は、物価上昇や食糧不足に苦しむ都市民衆の立場から、穀物の最高価格制(マキシマム)など国家による経済統制を求めました。この対立は、革命政権が「自由放任か、民衆保護のための介入か」というジレンマに直面する典型例でもありました。

政治制度のあり方について、ジロンド派は地方分権的な共和政を志向しました。彼らは地方自治体や県議会の権限を重視し、パリだけが革命を指導する中心ではないと考えました。この立場は、一面ではフランス全土の多様な声を尊重する民主主義的な発想とも言えますが、他方で、パリ民衆の急進化に対抗するため「地方の穏健勢力」に期待する姿勢とも結びつきました。後に連邦主義的な動きとして山岳派から警戒されるのも、この地方分権志向が背景にあります。

宗教問題では、多くのジロンド派議員は啓蒙思想の影響を受けた理神論者・自由主義者であり、教会財産の国有化や聖職者の公務員化には賛成しつつも、過度な反宗教キャンペーンや信仰への急進的攻撃には慎重でした。ここでも、山岳派や一部の無神論的急進派との温度差が生まれます。

山岳派との対立と没落―国王裁判からジャコバン独裁へ

ジロンド派の運命を大きく左右したのが、1792〜93年の王政廃止とルイ16世裁判の過程です。1792年9月、男性普通選挙で選ばれた国民公会が招集され、王政の廃止と共和政の成立が宣言されました。ここで、ジロンド派も山岳派も共和政には賛成しましたが、問題は、捕らえられた前国王ルイ16世をどう処遇するかでした。

山岳派の多くは、王を「祖国への裏切り者」として裁き、死刑に処すべきだと主張しました。一方、ジロンド派は、王の責任は認めつつも、死刑には慎重で、国民投票に付す案や、国外追放などの代案を提案する者もいました。この姿勢は、法の手続きや政治的安定を重視したものとも言えますが、急進化した民衆からは「王を庇う裏切り」と受け取られがちでした。

最終的に、1793年1月、僅差ながら死刑が可決され、ルイ16世は処刑されます。この決定にジロンド派の一部も賛成票を投じたものの、王処刑の是非をめぐる議論は、山岳派とジロンド派の対立を決定的なものにしました。パリのサン=キュロットやジャコバン・クラブでは、「革命の敵に対して中途半端な態度を取るジロンド派は危険だ」という空気が強まり、新聞やパンフレットを通じたキャンペーンも展開されます。

同時期、フランスは対外戦争で苦境に立たされ、国内各地では徴兵や物価高騰への不満が高まっていました。ジロンド派は、戦争の拡大と対内強権に慎重であり、革命政府の権力集中にブレーキをかける役割を果たしましたが、それは山岳派と民衆から見ると「革命への妨害」と映りました。1793年春、パリの民衆と国民衛兵はたびたび国民公会を取り囲み、ジロンド派議員の追放を要求します。

転機となったのは、1793年6月2日の行動です。この日、パリのサン=キュロットと国民衛兵が武装して国民公会を包囲し、山岳派の圧力のもと、多数のジロンド派議員が逮捕・自宅軟禁などの処分を受けました。これにより、事実上ジロンド派は国民公会から排除され、山岳派が主導する「ジャコバン独裁」(恐怖政治)への道が開かれます。

議会から排除されたジロンド派の一部は、地方各地で「連邦主義反乱」と呼ばれる蜂起を指導しました。ボルドーやリヨン、マルセイユなどの都市では、パリのジャコバン独裁に反対する地方勢力が立ち上がり、「共和国は一つだが、パリ独裁ではない」と主張しました。しかし、山岳派はこれを「国家分裂の試み」と非難し、革命軍を派遣して厳しく鎮圧しました。リヨンでは「自由の名のもとに」苛烈な処刑が行われ、地方反乱は次々と潰されていきます。

パリに残されたジロンド派指導者たちの多くは、1793年後半に革命裁判所にかけられ、反革命・陰謀の罪で死刑判決を受けました。ブリッソやヴェルニョーをはじめとするジロンド派議員はギロチンにかけられ、かつて議会で雄弁をふるった人物たちが、革命の名のもとに処刑されていきます。こうして、ジロンド派は政治勢力としてはほぼ壊滅しました。

ジロンド派の評価と歴史的意義

ジロンド派の歴史的評価は、時代や研究者の視点によって大きく分かれます。一方では、彼らは「ブルジョワ革命」の担い手として、自由主義と法の支配、地方自治を重んじた先駆的な政治家グループとみなされます。対外戦争の推進は問題を抱えていたものの、それは革命フランスが国際的包囲の中で自らの理念を守ろうとした苦渋の選択でもあり、ジロンド派は暴力と独裁に歯止めをかけようとした「理性的中道路線」だったという見方です。

他方、マルクス主義的な歴史観や、山岳派に共感的な視点からは、ジロンド派は「革命の徹底を恐れた中途半端なブルジョワ」であり、人民の要求よりも財産権と秩序の維持を優先した勢力と描かれることもありました。彼らの戦争政策は、国内の矛盾を外にそらす危険な賭けであり、結果としてフランスを深刻な危機に陥れたという批判もあります。

近年の研究では、ジロンド派と山岳派の対立を単純な「右対左」や「保守対革命」としてではなく、同じ共和主義の内部での戦略と優先順位の違いとして捉える視点も増えています。両者とも、封建制の廃絶や共和政の確立という大枠では一致していましたが、民衆運動の位置づけ、国家と地方の関係、戦争と平和の選択などにおいて、異なる選択肢を提示していたと見ることができます。

また、ジロンド派の悲劇的な最期は、革命が内部の敵対派をどこまで許容しうるのか、政治的多元性と革命の安全保障をどう両立させるのかという普遍的な問題を投げかけます。恐怖政治を経たのち、テルミドール反動や総裁政府期には、かつてのジロンド派に近い穏健共和派が再び政治の主導権を握ることになりますが、その過程で多くの命が失われ、政治文化には深い傷が残りました。

世界史の学習において「ジロンド派」という用語が出てきたときには、単に「山岳派と対立して敗れた穏健派」という一行説明にとどまらず、(1) 地方出身のブルジョワ共和派としての社会的背景、(2) 戦争推進と自由主義的経済観という政策の特徴、(3) 王処刑とパリ民衆運動をめぐる山岳派との対立、(4) 連邦主義的反乱と恐怖政治による粛清、という流れをあわせて思い浮かべると、その歴史的意味がより立体的に見えてきます。そのうえで、革命のダイナミズムと暴力、政治的多様性の限界という、現代にも通じるテーマを考える手がかりとしてジロンド派を位置づけることができるでしょう。