人民党(タイ) – 世界史用語集

人民党(タイ)とは、タイがまだ「シャム」と呼ばれていた時代に、絶対王政を終わらせて立憲君主制(憲法のもとで国王の権限を制限し、議会や内閣が政治を担う仕組み)へ移行させようとした政治グループです。タイ語では「カナ・ラートサドーン(Khana Ratsadon/คณะราษฎร)」と呼ばれ、日本語では直訳して「人民党」や「人民党(カナ・ラートサドーン)」と表記されます。最大の出来事は1932年6月24日の政変で、これによって王の絶対的な統治は終わり、タイ初の憲法と議会政治の枠組みが始まりました。

人民党は、農民や都市の大衆が一斉に立ち上がった運動というより、欧米で学んだ経験をもつ若手の軍人・官僚・知識人が中心になって組織した「上からの政治改革」を目指す集団でした。世界恐慌の影響で経済が苦しくなるなか、古い身分秩序や王族・貴族中心の政治に不満を抱く新しい官僚層が増え、「国を近代国家として立て直すには、憲法と国民の代表による政治が必要だ」という考えが強まっていきます。人民党はそうした危機感を背景に、軍の動員力と官僚機構への浸透を使って政権を握り、国家の仕組みを作り替えようとしました。

ただし、人民党が開いた「憲法のある政治」は、すぐに安定した民主主義に一直線で進んだわけではありません。人民党内部には、民間知識人の改革志向と軍の国家主義的な路線など複数の潮流があり、政策の方向をめぐって対立も起こりました。さらに1930年代後半からは軍の影響力が強まり、戦時体制のなかで統制色も濃くなっていきます。人民党は、タイに近代憲法体制の入口を作った存在であると同時に、その後の政治のかたち(軍の重み、ナショナリズム、官僚国家の形成)にも深く関わった集団として理解すると全体像がつかみやすいです。

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結成の経緯と「六原則」:なぜ人民党が生まれたのか

人民党の核になった人々は、1920年代後半にヨーロッパなどへ留学した軍人・法学者・官僚でした。彼らは、立憲政治や国民国家の考え方を学びつつ、祖国シャムの政治が王族・貴族層に偏り、制度としての議会や政党が育っていないことを強く意識します。加えて世界恐慌が東南アジアにも波及し、輸出の落ち込みや財政難が深刻になると、「従来の統治のままでは危機を乗り越えられない」という焦りが広がりました。

こうした問題意識から、人民党は少人数の秘密結社のような形で始まります。特徴は、最初から大衆運動で王権に圧力をかけるのではなく、軍と官僚を足場にして政権の中枢を押さえ、制度を一気に変える構想を立てた点です。のちに中心人物として語られることが多いのが、文民側の指導者プリーディー・パノムヨン(法学者)と、軍側で台頭するプレーク・ピブーンソンクラーム(軍人)です。両者は協力しつつも、国家の方向性について同じだったわけではなく、そこに人民党の強さと不安定さの両面がありました。

人民党が掲げた理念として有名なのが「六原則」です。細部の表現には時期や解釈の違いがありますが、一般には、①国の主権は人民にあること、②国家の安全保障、③国民の経済的幸福(生活の安定)、④人民の平等、⑤人民の自由、⑥国民教育の充実、といった目標を柱にします。要するに、王の恩恵として政治が与えられるのではなく、国民が主体となる国家を作り、生活・自由・教育まで含めて近代化する、という宣言です。ここには民主主義的な響きがある一方、当時の現実の政治手段が「軍を含む少数の先導」に依存していた点も、同時に押さえておく必要があります。

1932年の政変:絶対王政から立憲君主制へ

1932年6月24日、人民党はバンコクで政権中枢を掌握し、国王ラーマ7世(プラジャーディポック)の政府に対して新体制の受け入れを迫ります。この出来事は「1932年革命」「1932年クーデター」などと呼ばれ、比較的流血が少ない形で成功したと説明されることが多いです。人民党は軍の主要部隊を抑え、要所を確保したうえで宣言を出し、絶対王政の終結と憲法制定、国民代表機関の設置を掲げました。

この政変の重要点は、王政そのものを廃止して共和国にしたのではなく、国王を残しつつ権限を憲法で制約する「立憲君主制」へ移行したことです。国王は一定の妥協を選び、憲法制定へ進みます。こうしてタイでは、近代国家としての政治制度(憲法・議会・内閣)の枠が初めて明確に作られました。人民党は「国の仕組みを変えた主体」として、タイ政治史の大きな転換点に位置づけられます。

一方で、ここからすぐに安定した議会政治が定着したわけではありません。新体制の正統性をどう支えるか、官僚・軍・王室・地方社会をどうまとめるか、という難題が一気に噴き出します。人民党は、旧来の王族・貴族中心の支配を抑えつつ国家運営を進める必要があり、反発や抵抗も生まれました。また、人民党の側も「国民のための政治」を掲げながら、実際には政治参加の基盤や政党制度が未成熟で、軍事力や官僚機構への依存が強かったため、制度と現実の間にギャップが残りました。

人民党内部の分岐:改革構想と軍の台頭

人民党は一枚岩ではなく、大きく分けて文民(官僚・知識人)を中心とする改革派と、軍を中心とする勢力がありました。文民側の代表とされるプリーディーは、法制度の整備や経済改革、教育の充実などを重視し、国家を長期的に近代化しようとします。他方で軍の側は、秩序維持と国家の統合を優先し、外から見ればナショナリズム色の強い国家建設に傾く面もありました。両者は当初協力しましたが、政策の優先順位や手法をめぐって緊張が高まります。

象徴的な争点の一つが、1930年代前半に出された経済改革構想(国家が経済に強く関与する案)をめぐる対立です。改革案は社会保障や国民生活の安定を意識したものとして評価される一方、保守層からは「急進的」「社会主義的」と警戒され、政争の火種になります。さらに、旧勢力の巻き返しや反乱の動きも起こり、新体制は「改革」と「反発の抑え込み」を同時に進めざるを得ませんでした。こうした環境では、短期的に動ける軍の影響力がどうしても増しやすくなります。

1930年代後半にはピブーンソンクラームが首相として台頭し、国家の近代化と統制を組み合わせた政策が進みます。国名を「シャム」から「タイ」へ改める動き、国民統合を意識した文化政策、戦時色を帯びた体制づくりなどは、人民党の「近代国家建設」という側面を強く表します。ただしそれは、自由や多元的な政治参加を広げる方向と常に一致するわけではなく、反対派への圧力や統制強化と結びつくこともありました。人民党は、立憲体制の入口を作った存在であると同時に、軍と官僚が国家を主導する体制形成にもつながっていった、という二面性を持っています。

その後の変化と呼称の注意:戦後政治と「人民党」という名前

第二次世界大戦期から戦後にかけて、タイ政治は国際環境の激変と国内権力の再編の影響を強く受けます。戦時期には指導体制が引き締まり、戦後には対外関係の調整や国内の政治勢力の再配置が進みました。人民党というまとまりも、当初のような「革命の仲間」としての結束を保つことは難しくなり、軍・官僚・政治家のネットワークとして分岐しながら影響力を残していきます。結果として、人民党は単純な一つの政党として長期に活動したというより、1932年の体制転換を担った中核集団が、その後の政治の流れのなかで姿を変えていったもの、と捉える方が実態に近いです。

また、用語としての注意点もあります。近年のタイでは「人民党(People’s Party)」という名称が別の政治文脈で使われることがありますが、世界史用語としての「人民党(タイ)」は基本的に1932年の政変を起こしたカナ・ラートサドーンを指します。日本語の教科書や用語集では「人民党=カナ・ラートサドーン」とセットで覚えられることが多く、年代(1932年)と体制転換(絶対王政→立憲君主制)を押さえると、他の同名の政治団体と混同しにくくなります。

人民党の評価は、立憲体制を開いた先駆としての側面、軍主導の政治が強まるきっかけになった側面、国家の近代化を加速させた側面など、見る角度によって変わります。ただ、用語として理解するうえでは、「少数の軍人・官僚・知識人が中心となって1932年に政治体制を変え、憲法と議会政治の枠組みを作ったグループ」であること、そして「その後のタイ政治の基本構造(軍と官僚の重み、国家統合の思想)に大きな影響を与えたこと」を、流れとして把握するのが最も大切です。