ゴードン – 世界史用語集

ゴードン(Charles George Gordon, 1833–1885)は、19世紀イギリス帝国の軍人で、「中国のゴードン」「ゴードン・パシャ」の名で知られる人物です。清末の太平天国の乱で湘軍や淮軍と協力して常勝軍(Ever Victorious Army)を指揮し、江南戦線で反乱軍の拠点を次々に陥落させたことで国際的な名声を獲得しました。その後、オスマン帝国の宗主権下にあるエジプト=スーダンで行政官(総督代理)を務め、奴隷商人の抑圧や辺境統治に取り組みますが、マフディー運動の高揚に直面してハルツームに孤立し、1885年の落城で戦死しました。英国本国では英雄化され、ヴィクトリア朝の宗教的倫理と帝国意識の象徴として語られましたが、同時に帝国主義と介入の光と影、オリエンタリズムの視線、現地社会の主体性という問題を考える上で避けて通れない存在です。本稿では、(1)生涯と時代背景、(2)太平天国戦争と常勝軍、(3)エジプト=スーダン統治とハルツーム包囲、(4)評価と遺産――帝国の英雄像の再検討、の四つの観点から、わかりやすく整理して解説します。

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生涯と時代背景――王立工兵隊から帝国の前線へ

ゴードンは1833年、ロンドン近郊ウォルサム・クロスに軍人の家庭に生まれ、王立陸軍士官学校(ウーリッジ)で学びました。王立工兵隊(Royal Engineers)に配属され、クリミア戦争(1853–56)ではセヴァストーポリ攻囲戦に従軍して築城・防御・測量の実務を経験します。工兵将校としての技術的訓練は、のちの城塞防備や河川・運河の管理、補給線の維持において重要な基礎となりました。

19世紀半ばのイギリスは、自由貿易の覇権国家として海運・金融を軸に世界的勢力を拡大しつつ、東アジアやアフリカでの政治的・軍事的介入を強めました。ゴードンのキャリアは、まさにこの帝国拡張の実務に直結しています。彼個人は敬虔な福音主義の倫理観を持ち、禁欲的で質素な生活、部下への献身、腐敗への嫌悪で知られましたが、同時に強い意志と即断即決の性格は、しばしば上官や官僚組織との摩擦も生みました。

クリミア後、彼はドナウ河畔や黒海沿岸で国境画定委員会の一員として勤務し、測量と交渉の経験を積みます。こうした技術官僚的な仕事は、のちのスーダン統治で河川交通・防疫・通信の整備に活きることになります。やがて、清朝の太平天国鎮圧戦に際して、上海・江蘇周辺で結成された外国人主体の常勝軍に参加し、その名が広く知られるようになりました。

太平天国戦争と常勝軍――江南での機動戦、李鴻章との協力と対立

1860年代前半、太平天国は南京を天京として長江下流域に勢力を持ち、江南の租税・通商の要衝を揺さぶっていました。上海や寧波などの条約港の安全は、列強商人と清朝双方の最重大関心事であり、欧米人の傭兵や訓練を受けた中国兵からなる常勝軍が組織されます。初期にはアメリカ人ウォードが率いましたが戦死し、1863年、ゴードンが指揮権を継承しました。

ゴードンは、工兵としての知見を生かし、野戦築城・河川舟艇の運用・補給線の保護を徹底しました。彼の戦術は、迅速な機動と拠点攻略の組み合わせで、湖沼・運河・長江の水系を縫うように移動し、要塞化された町を包囲・砲撃・急襲で落とすというものでした。特に蘇州・常熟・太倉・嘉興などの攻略は、太平天国の兵站を寸断し、江南戦線を瓦解させる決定打となりました。

清側の現地指揮官である李鴻章とは、協力と緊張が交錯しました。作戦目標は一致しても、捕虜の処遇や降将の扱い、戦利品分配、軍規の維持などで意見が対立することがありました。とりわけ蘇州攻略後の太平軍将領の処刑(李鴻章側の決定)に対し、ゴードンは約束違反と受け止めて激しく反発し、一時は辞任をほのめかしたとも伝えられます。この事件は、〈帝国の名誉〉と〈清朝の現実主義〉の軋轢を象徴するエピソードです。

常勝軍の特徴は、近代的訓練・火力・規律の導入にありました。ゴードンは兵を厳しく統率しつつ、賃金の滞納を嫌い、戦功に応じた支払いと恩賞の明確化に努めました。兵士の背景は多様(中国人主体、一部外国人)で、兵站や医療の整備が士気を左右しました。結果として、常勝軍は短期間で連戦連勝の名声を獲得し、ゴードンは清朝から一等勲章を授与され、英国では「中国のゴードン」として英雄視されます。

しかし、太平天国の瓦解は、常勝軍のみの功績ではありません。曾国藩・李鴻章らが率いた湘軍・淮軍の持久戦と増税・徴兵の動員、地方エリートの協力、外国勢力の利害が複合的に作用しました。ゴードンの役割は、江南での決定的局面を短期に片付けた〈触媒〉として理解するのが妥当です。

エジプト=スーダン統治とハルツーム包囲――奴隷商人との対決、孤立する「パシャ」

中国から帰国後、ゴードンは1870年代にエジプトの招聘でスーダン行政に従事します。当時、エジプトはムハンマド・アリー朝のもとで近代化を進めつつ、財政危機と列強の半植民地的干渉に苦しんでいました。スーダンは広大で辺境支配が緩く、奴隷貿易や地方首長の自立が横行していました。ゴードンは総督代理(ガヴァナー・ジェネラル)として、税制の整理、駐屯地の再配置、河川交通の整備、奴隷狩りの抑圧に取り組みます。

彼の統治は、清廉さと行動力で一定の成果を挙げましたが、地理の広大さ、官僚の腐敗、財政逼迫、宗教・部族の複雑さは、個人の努力では覆せない規模でした。ゴードンは現地の宗教・風俗に一定の敬意を払いつつも、福音主義的倫理観から奴隷制に断固反対し、そのために既得権益層と激しく対立しました。健康を害し、数年で一時辞任して欧州に戻りますが、1884年、スーダンで新たに勃興したマフディー運動(ムハンマド・アフマドを救世主〈マフディー〉と仰ぐ反エジプト・反英のイスラーム復古運動)に対処するため、再び派遣されました。

ロンドンの閣議は、財政・世論・外交の計算から「スーダン撤退」を基本方針とし、ゴードンには駐屯部隊と民間人の退去を指揮する「救出・整理」の任務が与えられました。しかしゴードンは現地の混乱と住民の安全を憂慮し、最小限の駐留や現地勢力との妥協による秩序維持を模索します。この方針の齟齬と通信の遅延が、事態を悪化させました。

1884年、ナイル上流の要衝ハルツームはマフディー軍に包囲されます。ゴードンは城塞を補強し、蒸気船での補給・偵察を続けながら半年以上持ちこたえましたが、ついに1885年1月、援軍が到着する数日前に城は陥落し、ゴードンは戦死しました。英国では彼の死が烈しく追悼され、政府の対応の遅れが激しく非難されました。首相グラッドストンは世論の逆風に晒され、保守党のサリスベリーに政権が交代していく政治的転機の一因ともなりました。

「ハルツームのゴードン」のイメージは、孤高の勇者、殉教者、帝国の名誉の体現者として定着し、絵画・版画・伝記・児童文学の主題となりました。同時に、現地の視点から見れば、彼は帝国支配と奴隷制廃止を同時に推進し、複雑な利害の渦中にいた外来の権力者でもありました。マフディー運動は単なる「反文明の暴動」ではなく、オスマン=エジプト支配と外来干渉に対する宗教的・社会的抵抗の側面をもち、近代スーダン国家形成の出発点でもあります。

評価と遺産――帝国の英雄像とその再解釈

ヴィクトリア朝の英国において、ゴードンは「禁欲と献身の聖騎士」のように語られました。個人の清廉と勇気、弱者への慈悲、権力への直言といった美徳は、当時の市民倫理と福音主義の理想像に合致しました。記念碑や学校名、慈善団体の名に彼の名が刻まれ、帝国の英雄譚の代表例となります。これは国内の統合にも役立ち、帝国拡張を道徳化する役割を果たしました。

しかし、20世紀後半以降、帝国史とポストコロニアル研究の進展は、こうした英雄像を相対化します。第一に、彼の成功は現地エリートや兵士、通訳、技術者の協働なしには成り立たなかったこと。第二に、常勝軍やスーダン統治は、列強の通商・安全保障の利害と密接に結びついていたこと。第三に、「奴隷制廃止」という正義の名の下でも、外来統治が新たな支配と暴力を生み得ること。これらを踏まえると、ゴードンは「善意を持つ介入者」でありながら、帝国の構造に組み込まれた実践者でもあった、と評価されます。

また、ゴードンの現場主義と独断は、危機時の即応力という長所と、政治戦略との齟齬という短所の両面を持ちました。ハルツームでの決断は、現地住民の保護を志向する倫理的動機と、中央政府の撤退方針との不一致が重なり、悲劇的結末を招きました。この教訓は、現代の平和維持・人道介入における〈現場の判断〉と〈政治的委任〉の緊張を考える材料にもなります。

文化的遺産としては、ゴードンを主題とする視覚表象が帝国の自己像を形作りました。ジョージ・ウィリアム・ジョイの絵画『ハルツームの最後の瞬間』などは、宗教的殉教の図像を借りて世俗の英雄を神話化します。他方、現地の口承やイスラーム史の叙述は、マフディーを聖戦の指導者として記憶し、ゴードンを外来勢力の象徴として語ります。二つの記憶が交差し衝突する場所に、帝国と周縁の非対称な関係が露出しています。

総じて、ゴードンは、技術官僚としての精密さと、宗教的倫理に支えられた行動主義を併せ持つ19世紀の「帝国的専門職」の典型でした。太平天国戦争における常勝軍の運用、スーダンでの行政改革と悲劇的最期は、帝国の善意と暴力が絡み合う歴史の複雑さを象徴しています。彼を学ぶことは、英雄譚の魅力に抗いながら、介入と統治の倫理、現地社会の主体性、国際政治の現実の三者を同時に見据える練習でもあります。神話でも断罪でもなく、具体的な現場のディテールに即して評価すること――それが、ゴードン像の成熟に不可欠なのです。