近衛文麿(このえ ふみまろ,1891–1945)は、昭和前期の政治を主導した公爵出身の政治家で、第一次(1937–39)・第二次(1940–41)・第三次(1941)の三度にわたり内閣総理大臣を務めました。皇族・華族に連なる名門近衛家の当主として、教養あるリベラル貴族のイメージをまといながらも、政党内閣の行き詰まりと軍部の台頭、世界恐慌後のブロック化と全体戦の時代に翻弄され、日中戦争の長期化、枢軸側への傾斜、国内政治の統制強化(大政翼賛体制)に深く関与しました。対米交渉での妥協模索や戦争回避の意図をしばしば示しつつも、決断の遅れと統治手法の曖昧さが結果として破局へ道を開いた点が、彼の評価を難しくしているところです。敗戦後、連合国による戦犯指名直前に自決し、歴史の法廷に立つ機会を自ら閉じました。本稿では、出自と思想形成、第一次内閣と日中戦争、第二・第三次内閣と体制・外交の転回、敗戦直前の動きと戦後評価という流れで、近衛文麿という人物の光と影を、できるだけ平易に整理して解説します。
出自・思想形成と政界登場――名門公爵の「調停者」志向
近衛家は藤原北家の流れを汲む五摂家の一つで、文麿は公爵近衛篤麿の子として京都に生まれました。学習院から京都帝国大学に学び、欧米思想・国際政治への関心を深めます。若くして貴族院議員となった彼は、政党政治と官僚・軍部の対立を「調停」する上位の調整役として振る舞う自覚を育て、サロン的研究会「昭和研究会」を主宰して、経済統制・国防体制・東アジア秩序の青写真を議論しました。そこで語られた構想は、多くがのちの国家総動員体制や新体制運動と重なり、彼の政権運営の思想的下地となります。
政界への本格登場は、二・二六事件後の政党弱体化、宇垣・広田内閣などの挫折を経た1937年、組閣大命を受けたときでした。若さと名望、軍とも政党とも等距離の印象が期待を集め、「調停者」としての近衛像が国民的支持を呼びます。しかし、まさにその年、盧溝橋事件から日中戦争が全面化し、彼の政治家としての資質は最も苛酷な形で試されることになります。
第一次近衛内閣(1937–1939)――日中戦争の拡大と長期化、和平の失敗
1937年7月の盧溝橋事件を受け、政府は「現地不拡大」の方針を一旦表明しつつも、北支・華中での戦線は拡大し、8月には上海戦、12月には南京陥落に至りました。第一次近衛内閣は、国内では国家総動員法(1938)を成立させ、労働力・資材・価格・宣伝までを国家が統制する法的基盤を整えます。他方、対中和平の試みとして、1938年1月の第一次近衛声明で蒋介石政権を「反省なき限りこれを相手とせず」と断じ、実質的に和平の窓口を閉ざしました。11月の第二次近衛声明では、汪兆銘工作が進展するなかで「東亜新秩序」建設を掲げ、日満華の協力体制を名目化しますが、実態は占領の固定化と戦線の泥沼化でした。
近衛は、戦線拡大の制御に失敗しただけでなく、対米関係でも対立を深めます。華北経済のブロック化や海上封鎖、通商破壊の影響により、米国の対日批判は強まり、のちの石油禁輸へ連なる空気が醸成されました。内閣内部では、陸軍参謀本部・海軍軍令部と内閣の間に意思決定の断層があり、近衛は統帥と政治の調和を標榜しながら、軍作戦への実質的統制力を欠いていました。1939年1月、内閣は総辞職しますが、戦争そのものは以後も継続・拡大していきます。
第一次内閣期の彼の選択で評価が分かれるのは、和平機会の見誤りです。南京陥落直後、ドイツのトラウトマン工作を介した停戦の可能性が取り沙汰されましたが、近衛は国内世論と軍の強硬、蒋介石の抗戦継続の意志を前に決断を見送りました。結果として、戦争は「短期決戦」の想定を超えて総力戦に移行し、以後のあらゆる外交選択肢を狭めることになりました。
第二・第三次内閣(1940–1941)――大政翼賛と枢軸化、対米交渉と辞任
1940年7月、日中戦争の膠着とヨーロッパ戦局の激変(ナチスの西欧制圧)の中で、近衛は再び組閣します。国内では「新体制運動」を掲げ、政党を解体・吸収して大政翼賛会(1940年10月)を結成し、官僚・財界・軍・地方団体を包摂する総動員の政治枠組みを作りました。選挙の非競争化や職能団体の動員、言論・文化の統制が進み、議会政治は名目的なものに後退します。昭和研究会の構想が制度化された半面、政治の自律性は軍と官僚機構の論理に呑み込まれていきました。
外交面では、北部仏印進駐(1940年9月)とともに、日独伊三国同盟(同年9月)を締結します。近衛は、英米と対立しつつ独ソ対立を利用する「時間稼ぎ」を想定したとされますが、三国同盟は米国の警戒を決定的に強め、在米資産凍結・輸出規制の布石となりました。1941年7月の南部仏印進駐は、米英蘭の対日資産凍結と石油禁輸を招き、日本の存立に直結する資源問題を一挙に顕在化させます。
第三次内閣(1941年7月~10月)で近衛は、対米戦争回避の最後の努力として、野村吉三郎大使を通じた交渉を継続し、さらに来栖三郎を特使として派遣して、首脳会談(近衛・ルーズヴェルト会談)を打診しました。近衛は、南部仏印からの段階的撤兵や中国からの一定撤兵を含む妥協案を内々に模索したとされますが、陸軍首脳は満州・中国における既得権の後退に強く反発し、内閣の統一案を形成できませんでした。米側は中国からの無条件撤兵と三国同盟の実質破棄に近い要求(いわゆるハル・ノートの線)を崩さず、相互不信は解けませんでした。
1941年9月6日の御前会議は、10月上旬を目途に交渉の見通しが立たなければ、南方資源地帯への武力行使を含む対英米蘭戦争に踏み切る、という危険な二重方針を採択します。近衛は戦争回避を口にしつつも、この「最終期限」付き方針を追認し、統治者として決定の枠を狭めました。10月に入っても軍の強硬は崩れず、内閣は一本化した提案を作れないまま、近衛は10月16日に総辞職します。後任には東条英機が就任し、決断は開戦へ傾斜します。ここに、近衛が「回避を志向したが、制度を動かして回避の条件を整えられなかった」ジレンマが露呈します。
終戦前夜の上奏・敗戦後の自決――責任と自己弁明の狭間で
太平洋戦争が進むなか、近衛は政権の座から外れ、宮中顧問官などの立場で時局に意見を述べる立場に移ります。1945年2月には「近衛上奏文」を奉り、敗戦の必然性と早期終戦の必要を説き、東條体制を中心とする軍指導層の責任を厳しく指摘しました。彼は国体(天皇制)護持を前提に、対米講和へ舵を切るべきだと主張しますが、実際の戦争終結は、沖縄戦と原子爆弾投下、ソ連参戦という破滅的過程を経たのち、1945年8月のポツダム宣言受諾によってもたらされました。
敗戦後、連合国軍総司令部(GHQ)はA級戦犯容疑者のリストに近衛の名を挙げ、取り調べの準備を進めます。近衛は、東京裁判において自らの政治責任を問われる局面に直面しましたが、1945年12月16日、逮捕直前に服毒自決しました。遺書には、自身の平和志向と軍部批判、戦争回避の努力を記し、責任の所在を軍の独善に求める弁明の調子が目立ちます。この自決は、真相究明と公的弁明の機会を永遠に失わせ、以後の歴史叙述に長い影を落としました。
近衛の責任をどうみるかは、現在も議論が続きます。一方では、彼は軍部独走の時代にあって、政党政治の廃墟の上に立つ「調停者」として限界まで和平の可能性を探った、という擁護があります。他方では、国家総動員法の整備や大政翼賛体制の創出、三国同盟・仏印進駐の政治責任、そして開戦へ通じる二重方針の承認と辞任という「結果責任」は免れない、という批判も強いです。とりわけ、権威と人気、門閥の影響力を持ちながら、最終局面で統治能力(意思決定を一本化する政治技術)を発揮できなかった点は、指導者としての資質に関わる問題として残ります。
彼の構想した「東亜新秩序」や「新体制」は、経済の計画化・社会の組織化・言論の統制を伴い、総力戦期の国家運営として一定の効果を持ちつつも、市民的自由と議会政治の基盤を掘り崩しました。戦後民主主義の観点から見れば、その制度設計は反面教師でもあります。他方で、近衛個人の言動には、英米協調や早期講和への志向、軍部の政治介入抑制への願望が読み取れる局面もあり、単純な善悪二元論に還元できない複雑さが横たわります。
総じて、近衛文麿は、名門に育まれた教養と人気、サロン政治の柔らかい魅力を持ちつつ、統治の「固い技術」を獲得しきれなかった指導者でした。危機の時代に必要だったのは、理念とともに、利害と制度を束ねる現実的な政治技術でした。彼はその両者のあいだで揺れ、決断の遅れと制度設計の誤りによって、回避可能だった破局の扉を閉じ損ねました。近衛を学ぶことは、権威・人気・理念があっても、それらを統治の力へ変換する技法が欠ければ、国家は危うい方へ流れる、という教訓を多面的に考える手掛かりになります。

