五斗米道(ごとべいどう、または天師道〈てんしどう〉)は、後漢末に張陵(ちょうりょう/張道陵)が蜀(四川)の地で開いた道教系の新宗教運動で、入信の際に五斗の米を納める慣行からこの名で呼ばれます。病や災いを神への〈章〉(願文)で訴えて祈祷し、〈治病・救難〉と〈倫理の改め〉を結びつけた点に特色がありました。のちに孫の張魯(ちょうろ)が漢中で実質的な自治政権を築き、信仰共同体が政治・軍事・経済の枠組みと合体したことで、中国宗教史だけでなく地方統治史の上でも重要な前例となりました。五斗米道は、豪族・官僚の腐敗や戦乱、疫病に疲れた民衆に「具体的な救い」と「秩序ある共同体」を提示し、後の正一道・上清道や民間道教に大きな影響を与えました。本稿では、(1)成立の背景と創始者、(2)教義・儀礼・組織、(3)張魯政権と統治の実像、(4)道教史・社会史に残した影響、という観点から、できるだけ平易に解説します。
成立の背景と創始者――後漢の危機と「天師」の誕生
後漢末は、宦官と外戚の政争、豪族による地方支配の私物化、黄巾の乱に代表される大規模な反乱、疫病の流行など、社会的ストレスが極大化した時代でした。こうした環境では、正統の儀礼や官僚制を介した救済が十分に働かず、人々は身近で即効性のある宗教的・医療的サービスを求めました。張陵は蜀地の鵠鳴山・鵠頭山(後に鶴鳴山とも)で修道し、〈太上老君〉(老子の神格)から法を授かったと伝えられます。この「授箓(じゅろく)」の物語は、教団の正統性を保証する神話として機能し、張陵は〈天師〉(天の師)と称されました。
名称の「五斗米」は、信徒登録や祈祷・治病に際して米五斗を納める制度に由来します。米は貨幣と食糧の両方の価値を持ち、貧富の差を意識しやすい物資でした。五斗という具体的な量を定めたことは、信仰の参加を可視化し、共同体の運営資源(貧者の扶助、祭祀の費用、病者への施与)を確保する実務的装置でもありました。宗教的な救済と経済的な相互扶助を結びつけた点が、五斗米道の発展を支えます。
張陵の子張衡、孫の張魯へと、天師の地位は世襲されます。張魯は漢中を拠点に、軍事・行政と宗教権威を一体化した支配を行い、曹操に降るまで十数年にわたって独自の秩序を維持しました。ここで、五斗米道は単なる宗教結社から、地域国家の骨格を持つ体制へとスケールアップします。
教義・儀礼・組織――〈章〉と懺悔、治病と倫理、二十四治のネットワーク
五斗米道の信仰実践の中心は、〈章〉(しょう/祈りの文書)を天界の官府に提出するという発想です。病や災いは、過去の行いの誤りや、霊的・自然的秩序との不調和から起こると解され、その是正のために懺悔(ざんげ)・誓い直しが求められました。信徒は道士に導かれて章を作成し、断食・沐浴・斎戒ののち、祈祷とともに提出・焼納します。これにより、〈天上の官〉が事案を審査し、罪を減免し、病を癒やすと信じられました。官僚機構になぞらえた神界のイメージは、当時の社会感覚に寄り添い、分かりやすい救済モデルとして受け入れられました。
治病の技法は、祈祷・符籙(ふろく)・禁咒(きんじゅ)・導引(体操)・薬草の知識などが組み合わされました。病の原因を魔や穢れだけに求めず、生活の節制や倫理の改善によって健康を回復するという教えは、当時の衛生・医学の水準からすれば実効性があり、信徒の支持を得ました。特に飲酒・淫乱・暴力の抑制、嘘や詐欺の禁止、相互扶助の奨励などの規範は、乱世の中で共同体を守る実用的な倫理として働きました。
組織面では、五斗米道は〈治〉と呼ばれる単位で信徒を束ね、二十四治のネットワークを築いたと伝えられます。各治には〈祭酒〉(さいしゅ)という役職が置かれ、教化・儀礼・民生の実務を担いました。祭酒は、教団内の司法・福祉・徴収の窓口でもあり、孤児や寡婦への支援、盗賊の抑止、軽微な紛争の調停などを行いました。納められた米は、階層に応じた再配分と祭祀運営、飢饉や疫病時の救済に用いられ、宗教と自治が結びついた地域運営モデルを形成しました。
入信の敷居は高すぎず、地域の住民が身分を超えて参加できる柔軟さを持ちました。他宗派の神々を排斥せず、土地の祠や祖霊祭祀と折衷する寛容性も、定着の要因となりました。五斗米道は、厳格な教義体系よりも、実務と倫理を通じて人々の生活に入り込む〈地域の技法〉だったのです。
張魯政権の統治――宗教共同体がつくった〈治安・医療・課税〉
張魯が漢中に樹立した体制では、道教的権威と行政が融合しました。まず治安面では、祭酒や信徒が治の単位で相互監視と扶助を行い、盗賊の流入を抑えました。信徒に対する倫理教育と懺悔儀礼は、犯罪抑止の心理的装置としても機能しました。軽罪は教団内での懲戒や奉仕で済ませ、重罪は軍政が扱う、といった二層構造が想定されます。
医療・救済では、祈祷と薬草・導引を組み合わせ、疫病時には斎戒・隔離・衛生の指針を出したと考えられます。断食・清潔の励行は、当時の疾病環境において一定の効果を持ち、共同体の生存率を高めました。病者や貧者には納米からの施与があり、治ごとに貯えられた米がセーフティネットとして機能しました。
課税・経済運営では、五斗の米という定額的な納入のほか、土地と収穫に応じた負担も存在した可能性があります。重要なのは、納入が〈祈祷・入信の権利〉と結びついて正当化され、かつ透明な再配分の回路(救済・祭祀・治の運営)が示された点です。これは、豪族の私的徴発に対する「公正」のイメージを生み、住民の支持を得る根拠になりました。
外交・軍事では、張魯は劉璋や劉備との関係を調整しつつ、最終的に曹操の圧力のもとで降服し、「安撫」と引き換えに天師家は地位と生存を確保しました。天師位の継承と教団の存続は優先され、のちに天師道は江南や華中へ広がり、魏晋南北朝期の道教諸派の母体の一つとして機能します。ここで、宗教と国家権力の折衝の原型が示されたと言えます。
影響と展開――正一道・民間道教への継承、国家と宗教の距離感
五斗米道は、魏晋以降〈天師道〉として生き残り、唐宋期には〈正一道〉として国家公認の道教教団に発展します。龍虎山の張天師家は、符籙と斎醮の権威を握り、国家の祭祀や民間の祈祷に関与しました。病の治療、家族や地域の災厄除け、祖霊と土地神の調停など、日常生活に密着した宗教サービスは、五斗米道の遺伝子を色濃く受け継いでいます。
思想的には、〈章奏〉と懺悔の制度、倫理の実践、斎戒と導引、符籙と禁咒のセットが、後の道教諸派に広く浸透しました。仏教の受容とも相互作用し、懺悔や放生、戒律の強調、寺社の経済機能など、多宗教間で似た実践が共有されていきます。五斗米道が提示した「宗教=生活の技法」という形は、東アジア宗教文化の底流を形づくりました。
社会史の視点では、五斗米道は〈自治〉と〈福祉〉の早期モデルとして注目されます。信徒登録、定額の納入、再配分、軽微な司法、医療・衛生の指針――これらは、国家の手が届かない地域で、最小限の公(おおやけ)を作る実験でした。制度は完璧ではなく、指導層の特権化や異端視との葛藤もありましたが、「宗教が〈公共〉を担う」可能性と限界を具体的に示しました。
また、五斗米道は統治者にとっても示唆的でした。曹操が張魯を厚遇し、天師家を存続させたのは、宗教的権威を抑圧ではなく利用・協調の対象と見たからです。以後の王朝も、道教や仏教の教団と距離を取りつつ、祭祀や医療・救済で役割を担わせました。宗教と国家の距離感をめぐる駆け引きは、五斗米道以来の長いテーマです。
他の民衆宗教との比較と評価――太平道・仏教・民間信仰との交差
同時代の太平道(張角の黄巾の乱の母体)と比較すると、五斗米道は反乱志向が相対的に弱く、持続的な地域運営に比重が置かれました。太平道が「太平清領書」にもとづく祈祷と平等主義的な動員で一挙の変革を目指したのに対し、五斗米道は〈章〉と懺悔、倫理改革、納米と再配分という〈漸進的な共同体づくり〉を重視しました。仏教との関係でも、懺悔や慈悲の実践、僧医や薬草の知といった接点が多く、相互に影響を与え合いました。
民間信仰との交差では、土地神・祖霊・自然霊の祀りと、天師道の符籙・斎醮は容易に接続され、地域の祭礼は多層化しました。これにより、五斗米道は排他的な教団ではなく、〈ローカルな慣習のプラットフォーム〉として機能しました。柔軟な折衷性は、長期存続の鍵であると同時に、教義の曖昧さという弱点にも通じます。
総じて、五斗米道は、乱世のなかで人々の病と不安に寄り添い、宗教と自治を編み合わせて〈生存の技法〉を提供した運動でした。治病・懺悔・倫理・納米・再配分・軽司法の束は、国家と社会のあいだの空白を埋める実践でした。その遺産は、後の道教と民間宗教、東アジアの地方統治の歴史に深く刻まれています。五斗米道を学ぶことは、宗教が人々の暮らしをどのように支え、国家とどう相互作用するのかを、具体的に理解する助けになるのです。

