カール・リープクネヒト(Karl Liebknecht, 1871–1919)は、ドイツ社会民主主義の家に生まれ、第一次世界大戦中に議会で反戦を貫いた数少ない政治家として名を刻んだ人物です。彼は弁護士として労働者や反軍国主義の訴訟を担い、議員として軍拡・戦争に反対し、獄中でも国際主義の立場を曲げませんでした。1918年のドイツ革命で釈放されると、同日のベルリンで「自由社会主義共和国」を宣言し、ローザ・ルクセンブルクらとともにスパルタクス団からドイツ共産党(KPD)結成へ踏み出します。翌1919年1月の武装蜂起の混乱の中で、彼は義勇軍フライコールによって連行・殺害され、短い生涯を閉じました。彼の歩みは、戦争と民主主義、議会と評議会(レーテ)、改革と革命のあいだで揺れる近代ドイツの矛盾を、きわめて人間的な形で映し出しています。
家族と形成—社会主義の家に育ち、法と弁論の力を磨く
リープクネヒトは1871年、ドイツ社会民主主義の草創期を支えた指導者ヴィルヘルム・リープクネヒトの子としてライプツィヒに生まれました。家庭には政治と新聞、討論が満ち、若い頃から不正や暴力への敏感さを育てられます。大学では法学を学び、ベルリンで弁護士として独立すると、労働者の労災・団結・言論をめぐる裁判、徴兵逃れや反軍国主義の訴訟を積極的に引き受けました。法廷での冷静な論理と、生活者の言葉で語る演説は、のちの議会活動の基礎となります。
20世紀初頭のドイツは、重工業の伸長と海軍拡張で大国化の道を歩んでいました。社会民主党(SPD)は最大の大衆政党へ成長しますが、帝国議会では軍事予算と治安立法が続き、国家は強権の色を強めます。リープクネヒトは早くから軍国主義の社会的・文化的影響を警戒し、1907年には著書『軍国主義と反軍国主義』を発表して若者の良心に訴えました。この活動が当局の逆鱗に触れ、彼は禁固刑を受けますが、言論の自由と反 militarism の立場を明確にしたことは、彼の名を全国に知らしめました。
議会の反戦—戦時予算への反対、地下ビラ、そして投獄
1912年、リープクネヒトはSPDから帝国議会議員に当選します。1914年8月、ヨーロッパはついに全面戦争へ突入しました。SPDは「祖国防衛」を理由に戦時公債への賛成に回り、国内的休戦(ブルクフリーデン)の方針をとります。党議拘束により最初の採決では反対票は出ませんでしたが、リープクネヒトはこの決定に深い疑念を抱き、翌12月の第2回採決で、議会でただ一人の反対票を投じました。この一票は象徴的でした。彼は「敵は国内にあり(Der Feind steht im eigenen Land)」という標語で、支配層の利害と軍国主義を告発し、戦争反対を労働者に訴えます。
戦時下のドイツでは検閲が厳しく、反戦活動は直ちに弾圧の対象となりました。それでも彼は工場の門前や集会で演説し、地下ビラを配布し続けます。1916年5月1日、ベルリンでの反戦メーデー集会を主導すると、当局は直ちに彼を逮捕し、軍法会議で禁固刑を言い渡しました。収監中も彼の名は国内外の反戦勢力の象徴となり、獄中書簡は党内外の若い世代を励まします。議場での一票、路上での声、獄中での筆致—いずれも「戦争は労働者にとって異国の利害のための犠牲にすぎない」という信念から生まれたものです。
スパルタクス団からKPDへ—評議会革命の中で
SPDの多数派が戦争協力に傾くなかで、党内反戦派は離脱や除名に追い込まれ、独立社会民主党(USPD)が結成されます。リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクは、まず「インターナツィオナーレ(国際)」の名で小グループをつくり、やがて「スパルタクス団」として知られるようになりました。彼らは議会中心の路線にとどまらず、職場や兵営の評議会(レーテ)による自己統治を重視し、終戦が近づくと評議会を核にした民主的社会主義の展望を語ります。
1918年11月、革命の波がドイツにも押し寄せます。水兵の反乱が広がり、各地で労兵評議会が成立、皇帝は退位し、政治囚は釈放されました。11月9日、ベルリンでは二つの「共和国宣言」が響きます。議会多数派のフィリップ・シャイデマンが「ドイツ共和国」を、そして釈放されたばかりのリープクネヒトがベルリン王宮前で「自由社会主義共和国」を宣言しました。両者は同じ日、異なる未来像を語ったのです。以後、暫定政府の多数派SPDと、評議会による急速な変革を望む潮流のあいだで、緊張が高まっていきました。
1918年末、スパルタクス団を中核にドイツ共産党(KPD)が結成されます。リープクネヒトは議会 boycot を主張する過激派を抑えきれずに逡巡しつつも、評議会の力を軸とする社会の再編を訴え続けました。彼がめざしたのは、ボルシェヴィキ型の一党独裁ではなく、働く人びとの参加と討議による社会主義でしたが、現実の政治は急進と反動の衝突に向かいます。
1919年1月—蜂起、敗北、そして殺害
1919年1月、ベルリンで警察長官の解任をきっかけに大規模なデモと占拠が起こり、武装蜂起へ発展しました。指導部は分裂し、蜂起の目的と手段は曖昧なまま、街路戦へ雪崩れ込みます。暫定政府は、退役軍人を中心に組織された義勇軍フライコールを動員して鎮圧に当たりました。市街戦は短期間で終息しますが、その過程で報復と私刑が横行します。
1月15日夜、潜伏していたリープクネヒトとルクセンブルクは、ベルリンのホテルでフライコール部隊に拘束されました。二人は尋問ののち、別々に連行され、いずれも射殺されます。ルクセンブルクの遺体は運河に投げ込まれ、リープクネヒトは「逃亡中に射殺」との虚偽の報告のもとに遺体安置所へ運ばれました。事件は多くの国民に衝撃を与え、国内外で厳しい非難を浴びますが、政治的混乱の中で真相の解明と責任追及は不十分なまま終わりました。この暗殺は、若いヴァイマル共和国に深い傷を残し、左派の不信と分断を決定的にしました。
思想とスタイル—法と道徳、国際主義と日常語
リープクネヒトの思想の核は、法と道徳を貫く「反軍国主義」と「国際主義」でした。彼は戦争を国家間の利害だけでなく、社会の内部秩序—階級と権力—の問題として捉え、戦時こそ民主主義の原則と人権が守られなければならないと主張しました。議会での演説は、難解な理論ではなく、生活と言葉の実感に根ざし、敵対者に対しても人格攻撃を避ける抑制がありました。彼はまた、労働者の文化活動や教育に力を入れ、社会主義が「上からの統制」ではなく「下からの参加」で成り立つべきだと語ります。
ローザ・ルクセンブルクとの関係では、理論家ルクセンブルクに対し、リープクネヒトは実務と弁論の人でした。両者は議会戦術や蜂起の是非で意見を異にすることもありましたが、戦争反対と民主的社会主義の信念で固く結ばれていました。彼の弱点は、激しい圧力の中で組織戦術をまとめる力が十分でなかった点にあります。とはいえ、「まず戦争を止め、民衆の討議の場を取り戻す」という優先順位は終始一貫していました。
記憶と継承—1月の追悼行進、地名と碑、そして読み継がれる言葉
彼の死後、ドイツ左翼は毎年1月にルクセンブルクとともに追悼行進(ルクス=リープ追悼)を行い、花束と赤い旗で墓所を飾りました。ヴァイマル期には多くの通りや広場に彼の名が刻まれ、東ドイツ時代には国家的な記憶として顕彰されます。他方、西側ではより分裂的な記憶となり、冷戦の緊張の中で評価は二極化しました。今日では、彼の反戦の勇気と議会での少数派の責務、政治暴力の危険を告発した姿勢が、立場を越えて再評価されています。
文書としては、議会演説、反軍国主義のパンフレット、獄中書簡が読み継がれています。そこには、政治の大文字を日常のことばに訳す努力、相手を説得しようとする忍耐、そして危機の時代に法と議会を守ろうとする気骨が刻まれています。彼の生涯は、勝者の歴史ではありません。しかし、敗北の中で何を守るかを示した歴史であり、それゆえに現在の市民社会にも響くのです。
総じて、カール・リープクネヒトは「革命家」というイメージだけで語るには惜しい人物です。弁護士としての職能、議員としての規範意識、市民としての反戦の倫理、同志への誠実さ—それらの重なりが、彼の行動を支えていました。戦争と非常時の政治では、理想はしばしば無力に見えます。けれども、彼は少数であっても賛成すべきでないものに反対し続けました。その頑固さは、民主主義の最小限を守る最後の防波堤でもありました。彼の名は、勇気の記憶としてだけでなく、議会と市民の関係を問い直す鏡として、これからも語り継がれていきます。

