カルマル同盟 – 世界史用語集

カルマル同盟は、1397年にデンマーク・ノルウェー・スウェーデンの三王国が同君連合のかたちで結ばれ、北欧全域を一つの王冠の下に置こうとした大構想です。名目上は各王国の法と身分制を維持しつつ、外交と王位継承を統合して、ハンザ同盟やドイツ騎士団、イングランド・スコットランド、ロシア諸政権と対抗できるブロックを作る狙いがありました。主導したのはデンマーク王妃であり摂政のマルグレーテ1世で、彼女の政治力により、カルマル(現スウェーデン南東部の港町)で甥のエーリク・アフ・ポンメルンが三冠王として推戴されました。しかし、関税や対ハンザ政策、貴族特権をめぐる利害対立、鉱山と森林資源の分配、バルト海交易権、さらに王権の中央集権化への反発が重なり、同盟は15世紀を通じて繰り返し動揺します。1520年代、スウェーデンでグスタフ・ヴァーサの独立運動が成功すると、同盟は実質的に解体へ向かいました。華やかな戴冠の陰で、三つの王国と地方身分のせめぎ合い、都市と鉱山・農村の利害、ハンザと北欧の競合が複雑に絡み合った—それがカルマル同盟の実像です。

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成立の背景と結成—マルグレーテ1世の構想、カルマル憲章と三冠

14世紀後半の北欧は、王位継承の混乱と対外圧力にさらされていました。デンマークは内乱と領土喪失に悩み、ノルウェーは人口の激減(ペスト禍)で王権基盤が脆弱になり、スウェーデンではマグヌス朝の不安定と貴族内紛が続いていました。こうした中、ノルウェー王ホーコン6世の王女でデンマーク王ヴァルデマール4世の娘であるマルグレーテは、夫子の死後に摂政として巧みな婚姻外交と軍事・財政再建を進め、デンマーク・ノルウェー・スウェーデンそれぞれの貴族と都市に対して「共同防衛と交易保護」の利益を説きました。

1397年、スウェーデン南東の港町カルマルに諸身分(聖職・貴族・都市代表)が集まり、マルグレーテが推す若年のエーリク・アフ・ポンメルン(ポメラニア公の出)を三王国の「共同王」に戴冠させます。このとき作成されたとされる「カルマル憲章」は、王位継承の統一(同一人物が三王国の王位を継ぐ)、対外政策の一体化、しかし内政・法・課税は各王国の慣習に委ねるという原則を定めたと理解されています。史料上の原文は完全な形で残らず、のちの補訂や写本の問題が研究対象ですが、実態としては同君連合+協議連邦の性格をもちました。

マルグレーテの狙いは、第一にハンザ同盟に対する交渉力の強化、第二に貴族勢力を横断的に束ねて王権の安定財源(関税・鉱山収入・都市税)を確保することでした。彼女の治世中は比較的均衡が保たれましたが、実権の継承者エーリク1世(同一人、在位1396–1439)が自立し、対外戦争や関税強化に踏み込むと、身分層との対立が激化していきます。

統治構造と経済—三王国・四身分、鉱山・森林・海の利害

カルマル同盟の統治は、各王国の評議会(リクスラード/リグスロード/ローデ)と身分制議会(リクスダーゲン)を基盤に、共通の君主と宰相・事務局が乗る二重構造でした。王は三王国それぞれに総督を置き、王領・城館・造幣・関所を管理しますが、課税や法改正には各国の身分会議の承認が必要という実務上の制約がありました。王権の財源は、バルト海交易への関税(エーレスンド海峡通行税の先駆的措置)、塩・毛皮・穀物・木材の輸出、そしてスウェーデンの銅山(ファールン)や鉄鉱山(ベルグスラーゲン)からの収入に大きく依存します。これらの資源は、都市(ハンザ系リューベックほか)と在地貴族・鉱山町の特権と密接に結びつき、誰がどれだけ取り分を得るかで争いが絶えませんでした。

ノルウェーでは海運と干鱈(ストックフィッシュ)、貿易港ベルゲンのハンザ商館が経済の中心で、王権とハンザの力学が複雑に絡みました。デンマークは海峡支配と農産物輸出で資源を握りますが、海上封鎖や私掠のコストも背負います。スウェーデンは鉱山と森林、内陸の湖水航路を押さえることで交渉力を持ち、在地貴族と鉱山町の自治が強い伝統を保っていました。三王国の経済構造の違いは、同盟の軋轢の温床となります。

宗教と都市も重要です。大司教座(ウプサラ、ニーダロス、ルンド)は広域的権威を持ちつつ、修道院と教会財産は在地社会の福祉・教育機能を担いました。都市はハンザ系法(リューベック法)に基づく自治と貿易特権を有し、王権との妥協・対立を繰り返します。都市の利害は必ずしも王権と一致せず、時にリューベックと連携して対王権の同盟を組むこともありました。

内部対立と反乱—エングルブレクト蜂起、同盟の反復的崩壊と再統合

15世紀、カルマル同盟は幾度も揺れます。象徴的なのがスウェーデンでのエングルブレクト蜂起(1434–36)です。ドイツ人総督の過酷な課税と鉱山・農民への圧迫に反発して、鉱山指導者エングルブレクト・エングルブレクトソンが蜂起し、身分会議が彼を「王国擁護者」に選出しました。この過程でスウェーデン評議会は自律性を強め、王権と評議会の共同統治の原則が明確化されます。蜂起そのものは彼の暗殺などで収束しますが、以後、スウェーデンではスタン・ステゥーレ(長老・若年)ら摂政の下で半独立状態が続き、同盟王(デンマーク王)が完全に支配することは難しくなりました。

デンマーク側では、エーリク1世の対外戦争(ホルシュタイン伯との争い、ハンザとの海上戦)と財政逼迫が評議会と都市の反発を招き、1439年には王が廃位されます。のちにクリストファ3世、続いてクリスチャン1世(オルデンブルク家)が選出され、同盟の名目は維持されますが、現実には三王国の結束は緩んでいきます。ノルウェーは人口減と経済停滞で政治的主導力を失い、デンマーク王権の付属のような地位に傾いていきました。

決定的な破綻は16世紀初頭に訪れます。クリスチャン2世(デンマーク王)は、スウェーデンを武力で再統合しようとし、1520年ストックホルムで戴冠式後に反対派貴族・聖職者を大量処刑する「ストックホルムの血浴」を断行しました。これはスウェーデン世論を決定的に敵に回し、ダラルナ地方を中心にグスタフ・ヴァーサが蜂起、リューベックなどの支援を得て1523年にスウェーデン王に選出されます。これによりスウェーデンは同盟から離脱し、同年、デンマークではフレデリク1世が王に擁立され、三王国の「共通王冠」は実質的に消滅しました。

解体とその後—デンマーク=ノルウェー体制、北方バルト世界の再編と同盟の遺産

スウェーデンの離脱後、デンマークとノルウェーは「デンマーク=ノルウェー」として一体化され、17世紀初頭まで同君連合の形で続きます。スウェーデンはグスタフ・ヴァーサとヴァーサ朝のもとで国家財政と軍制改革(銃器歩兵と賦課制)を進め、バルト帝国(ストルムタイド)として台頭しました。北方世界は、デンマーク=ノルウェー・スウェーデン・ポーランド=リトアニア・ロシア・プロイセン・ハンザ都市が絡む多極競争の時代に入ります。カルマル同盟の理念—北欧の共同防衛と交易保護—は形を変え、海峡通行税や関税同盟、ハンザとの講和・戦争の繰り返しへと翻訳されました。

カルマル同盟の制度的遺産としては、(1)同君連合のガバナンス—共通の君主と各国身分制の協議的統治—の試行、(2)海峡と鉱山という「北の戦略資産」を国際政治の中で運用する枠組み、(3)都市・貴族・王権の三者間交渉の技法が挙げられます。同盟の失敗は、単なる民族間の敵対ではなく、資源と市場、身分特権と王権の再編をめぐる政治闘争の帰結として理解されるべきです。ハンザと北欧の「交易帝国」同士の競合という視点は、カルマル同盟を海洋・内陸輸送・関税の長い歴史に位置づけ直します。

思想史の面では、「三冠」の象徴は消えず、近代のスカンディナヴィア主義(19世紀の北欧連帯思想)において、カルマル同盟はしばしば先例として語られました。言語・文化の近さに依拠しつつも、国家財政・軍事・通商といった実務の調整が伴わなければ連合はもちこたえない—この教訓は、後世の北欧協力(北欧理事会など)にも反映されています。

総じて、カルマル同盟は「北の大連合」の野心と限界を示した実験でした。強い創設者(マルグレーテ)の手腕が去ると、利害調整の制度が脆く、対外戦争や関税政策でひずみが一気に噴出しました。にもかかわらず、同盟が残した協議的連合の記憶、海峡と鉱山・森林・都市が織りなす政治経済の地図は、北欧史の背骨の一つとして今も参照され続けています。カルマルの港で掲げられた三つの王冠は、短命の夢に終わったのではなく、北欧を結ぶ可能性と現実の隔たりを示す、歴史の縮図だったのです。